6 超越者

 正門の攻防にて、京介は日向の攻撃リダイレクションをすべて防いでみせた。

 その結果、逃走戦を格闘戦に帰着させることに成功する。


 京介には格闘の心得がある一方、日向には逃げる以外の能がない。

 もっとも日向であれば、その身体能力と反射神経で押し通せるだろうが、京介はその類ではない。同等水準の能力を持つ京介の前には、ゴリ押しなど通じない。


 超集中ゾーンを絶やさないまま、京介は勝利を宣言する。


「オレの勝――」


 しようとして、言葉に詰まる。


 またもや図ったかのようなタイミングだった。

 日向の口角が吊り上がったのが見えた。


「は?」


 そうかと思えば、日向の身体が加速していた。


 草食動物を彷彿とさせる発進――

 そんな人間離れした事象を前に、京介の五感と直感が止まりかける。

 未だ超集中の最中にある京介は未知という名の妨害因子ゾーンノイズを感じ取り、即座に足と目を動かした。


 停止する五感。

 膠着する直感。


 しかし、すんでのところで動かしていた身体が、惰性と慣性で動き続ける。

 動かしていた目も日向を捉え続け、本能が獲物と認識する。


 かちりと何かがはまる感覚。

 強烈な負荷が全身を貫き、脳を揺さぶり――クリアな視野と思考が回復した。

 それは瞬時に結論を叩き出す。


(甘かった……)


 京介は己が見通しの甘さを感じ得なかった。


 日向の切り札はまだあったのだ。あるいは隠し兵器と言うべきか。


 いずれにせよ、逸している。

 いや、逸しすぎている。


 このようなパフォーマンスが日向の日常だとしたら。

 日常的に練習しているのだとしたら。

 人目を避けていることが、途端に道理となる。


(わかってねえのか、てめえらは)


 京介にはと真智の様子もよく見えていた。

 固唾を呑んで見守ってはいるが、目前の偉業には気付いていない。

 そのことがひどくもどかしくて、腹立たしい。


 人類の未到達領域。


 あの加速は、そういう次元だった。

 100メートル走でたとえるなら、日本人が世界新記録を出すようなもの。


 生物的に、構造的に、いや物理的にもありえない。

 素人から専門家まで、誰もが口を揃えるだろう。認めないだろう。

 そんな革新的事象ブレイクスルー――


「っらぁ!」


 京介が叫んだ。発声により身体活性と精神鼓舞を狙ったものだ。

 期待どおり、その脳内で並行させていた思考と認識の大半がシャットアウトされた。


 自分の甘さも、えるや真智も、日向の機構カラクリも。

 今はどうでも良いことだ。


 今やるべきことは一つ――追うことのみ。

 、追わなければ勝ちはない。

 追うしかないのだ。


 二人の軌道が歩道を切り裂く。


 日向のルートは明確だった。京介が散々もたれていた擁壁ようへきの、その上だ。

 一見すると生い茂った草木しか見えないが、登った先には人一人分、歩けるスペースがある。


 あそこに移動されてしまったが最後、京介は歩道から見上げる形で追いかける羽目になる。

 それは坂道を下る持久走に帰着されてしまうことを意味していた。同じ平地を追いかけるセイムグラウンドよりも圧倒的に不利である。

 だからこそ京介は、登られる隙をつくられないよう警戒していたのだが――

 それも叶わず、こうしてじ開けられてしまった。


 擁壁に接近した日向が、ウォールランを繰り出した。

 壁の高さは身長の二倍を軽々と超えるが、何の障害にもなりはしない。


 ウォールランと言えば壁を蹴って高さを出す技だが、目の前のそれはやはり次元が違った。


 垂直に走っている。


 そうとしか形容できないものだった。


(最初からこれを使えば良かったんじゃねえのか? 遊んでやがったのか?)


(いや、助走距離の確保か。このウォールランを実現するために、あえて車道側でフェイントをかけたのか)


「ちっ」


 高速で頭をフル回転させた京介が舌打ちする。


 追うのは得策ではない。

 技術では日向が上なのだ。ますます差が開いてしまう。


 加えて、そこまでして擁壁の上でセイムグラウンドに持ち込んだとしても、日向が飛び降りるだけで崩されてしまう。

 日向に合わせて京介が飛び降りれば、技術の差でさらに距離が開く。同時に、日向は再びウォールランをするだろう。

 あとはその繰り返しだ。差はどんどん広がってしまう。


 つまり、セイムグラウンドに持ち込もうとした時点で、敗北が確定する。


「おらぁ!」


 京介の叫びとともにドガガッと二つの足音が重なった。どちらも強烈な踏み――リダイレクションである。

 一つは、擁壁を登った日向のもの。

 もう一つは、擁壁のそばでセイムグラウンドを諦めた京介のもの。


 戦いは、春高坂を下るチェイスへとシフトした。






 広い歩道を駆け下りる京介。

 びゅうびゅうと風圧が身体を阻み、風音が耳を塞いでくる。


 もっともこれは日向も同じことだ。

 視界の左上では、日向が擁壁の上を走っている。

 地面よりも狭いはずだが、ものともせず、どころか体育祭で見た時以上の速さが乗っていた。


 加速は止まない。

 下り坂をノンブレーキで駆け下りる自転車、いやロードバイクのような、理不尽なスピードを叩き出す。

 速度で言えば、時速四十キロメートルは超えている。五十に迫っているかもしれなかった。


 陸上の世界記録でもおおよそ四十五キロメートルであることを考えれば、疑いたくなるような数字だ。

 しかし京介は疑わず、自身もしっかりと追従してみせる。


 カラクリは単純である。

 平地より速く走るために、下りの加速をそのまま乗せているだけだ。

 ただし、下るスピードを維持するために許される足の接地時間は、ほんの一瞬であり、平地での全力疾走よりもはるかに短い。

 それでありながら、身体が前に倒れない程度には支えなければならない。


 一瞬で崩壊する足場を飛び移っているかのような。

 あるいは水の上を走っているような。

 走っていながらも、その実、走っていない――そんな動きだ。


 この『ハンマーホップ』には、速く走るのとは全く別の筋肉と身体の使い方が要求される。

 無論、絶対的にも相対的にも相当量のパワーが必須であることは言うまでもないし、陸上選手すら挑戦の資格に至れない境地でもある。


 この領域に足を踏み入れられる者はごく一握り――鉄棒のような細い足場を正確かつ高速に飛び移っていくストライドすることを極めたトレーサーだけだ。


「ぐっ……」


 ここで京介の表情に苦悩が表れた。

 疲労のピークが近く、超集中ゾーンの寿命もわずかだとわかる。


(どう出やがるッ!?)


 日向の取り得る選択肢は二つある。


 一つは、このまま下り続けること。

 決定的な差をつけることで京介を巻くのである。おそらく麓までの持久戦に持ち込み、駅前の煩雑な建造物や障害物を生かして逃げ切ろうとするだろう。

 京介は、空間認識や障害物の扱いにおいては、日向の足元にも及ばない。駅前に足を踏み入れさせた時点で敗北確定だ。


 そしてもう一つの可能性は、途中で擁壁から脱出することだ。

 生い茂る草木を越え、山中に逃げ込むということだ。

 もっともこれまでの風景から鑑みるに、そんな余地は無いように思える。擁壁の先はバリケードと呼べるほどの密度だ。隠れんぼに勤しむ男の子でも入ろうはしないだろうし、そもそも入れない。


 とすると、選択肢は実質前者一つしかない。


 京介が取るべき戦略。それは日向に食らいつき続けることだ。

 擁壁のそばにぴったりと寄り添い、日向が上から下りてくる隙をなくす。この状態を長引かせれば、じきにや真智が来る。

 有象無象ならさておき、京介と同様、格闘を知る二人ならば壁になる。疲労しているはずの日向にはなおさらだ。


 京介は息を整え、


「追い詰めたぜ、日向よぉ」


 あえて挑発的に口を開いてみせた。

 日向の集中力もピークを過ぎているはずだ。なら、言葉を解釈してくれる余地はある。

 解釈してしまえば、たとえ無自覚だろうと意識が脱線する。あわよくば焦りを与えられるかもしれない。


 どのみち、あとは単純な下り坂の疾走ハンマーホップの世界である。

 それも終点まではたない。どこかで中距離走に移行する。


 京介の見立てでは、両者に大きな差は無い。中距離走に耐えられるかどうか分岐点になるだろう。

 途中で京介が尽きたら敗北する。

 逆に京介が麓まで耐え、日向を擁壁の上に閉じ込めることができたのなら、勝利が一気に近づく。


 そのためなら心理戦も辞さなかった。


「オレは麓までつぜ」


 さらに日向にプレッシャーを与えんと、そう話しかけた時だった。


「京介」


 日向が横目で見下ろしてきた。


「この街は俺の庭みたいなものだ」


 動きも息も乱さず、ジョギングを錯覚させる余裕が見て取れる。

 こちらのメンタルを潰しに来る演技かもしれない。京介は相手の体力を推し量ることを放棄した。


一見いちげんさんのお前には分が悪い。下見の時間があったら、また違っていたかもな」

「……」


 日向の指摘はもっともだった。


 ここ春日野町は、日向が普段暮らしている街であり。

 また日向ほどのトレーサーなら、街という名の遊び場を存分に楽しんでいるはずで。


 一方、京介は。

 今下っている坂道の詳細さえも覚えていない。


 地形知識フィールドナレッジの差は明らかだ、と。そう日向は言っているのだ。


「楽しかったぜ」


 口元を緩ませた日向が、左方を向いたかと思うと。

 ダンッ、と強く踏み込む。お馴染みのリダイレクションだ。


 京介は即座に呼応し、ほぼ同時に反応して、急停止した。


 日向は走り出していなかった。

 京介が擁壁を見上げると、茂みの急斜面カーテンが広がる中でただ一つ――日向の辺りだけ草木の密度が薄い。


「なん、だと……」

「ここなんだけどな、登山道に繋がってるんだ」


 間もなく日向が見えなくなった。


 追いつくためには擁壁を登らねばならない。助走とウォールランが必要だ。

 その後は登山道のような地形――日向の得意分野が待っている。


「クソがっ」


 体力にはまだ余裕はあったが、突きつけられた現実はあまりにも大きすぎた。

 膝に手をついてしまう。


「はぁ、はぁ……はぁ……」


 動悸が乱れ、発汗が加速する。


 京介の脳内では、ここまで戦ってきた光景がフラッシュバックしていた。

 それらは走馬燈のような密度で早く、深く、重く京介の意識を包み込み、押し潰す。


「――んだよ、あれ」


 どさっと。前のめりに倒れ込む京介。


「なんだよあれ…………ありえねえ」


 地面に打ちつけた節々が痛む。

 顔にじんわりとした感触がある。仰向けになり、触ってみると、出血していた。

 まるで集中力が漏れ出ていくかのようだった。


 超集中ゾーンは既に切れている。

 不思議と雑念は押し寄せなかったが、代わりに全身から疲労が押し寄せている。


 そんな中、ふと空気の質が変わったのを感じた。


 ぽつ、ぽつ、と。

 水滴のような粒が肌をくすぐってきた。


「雨か……」


 地面を打つ音が聞こえるほどの静寂が心地良かった。


 程なくして、足音という異音が差し込まれる。

 一人、いや二人。


「下手な走り方だ……」


 それは段々と近づいてきて、やがて。


「京介君! 大丈夫ですか!?」


 えるの声が届いてきて、間もなく見慣れた二つの顔が空を塞いだ。


 京介は破顔してみせることで無事を伝えるも、えるは悲しそうに眉をひそめた。

 虚しい微笑みに見えたのかもしれない。自覚もあった。


 彼女の横では、相変わらず前髪で片目を隠した真智が「負けたの?」淡々と聞いてくる。


「容赦ねえなオイ……見りゃわかんだろうがよ」

「日向はどうだった?」


 なおも京介を二の次に置く真智に「ちょっと真智」えるが鋭い声音を差し込むが、京介は鬱陶しそうに手を振った。


「バカにすんじゃねえ」

「……大丈夫そうね」


 さすが付き合いが長いだけある。えるは頷くと、その瞳に真智と同じ好奇を宿した。


 京介は日向は消えた方へと視線を向け、悔しそうに歯噛みする。

 やがて、苦い出来事を絞り出すかのように、呟いた。


「化けてたぜ。オレ達三人でも敵わねえ」


 雨が降り始めた。

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