5 好敵手

「状況どうなってんだよおい」

「師匠なら間違いない」


 たんたんと足踏みする京介に対し、淡々と真智が呟く。

 午後六時をとう過ぎた校舎に、体育祭の余韻は既にない。正門前も静寂そのもので、広い車道をはさんでもお互いの会話が届くほどだ。


「ですね」


 真智の見解にも頷くが、ふと京介の様子に気付く。


「……」

「どうかしたのですか京介君」


 えるも真智も勝利を確信する中、京介だけが浮かない顔をしていた。

 対戦の機会を奪われたという風ではない。どちらかと言えば心配の色だ。


「……気ぃ抜くんじゃねえぞてめえら」

「わかってますよ」


 それ以上喋る気は無いらしい。

 京介は嘆息して擁壁ようへきにもたれ、腕を組んだ。


 彼の意識は現在、逃走戦の最中であろう二人に向いていた。


 新井新太は強い。そんなことはわかっている。

 それでも京介は、彼女達ほど過信はできなかった。


 昔ならいざ知らず、今の京介は違う。

 まがいなりにも怪物の領域に足を踏み入れたからこそわかる。


 本能か、直感か――

 言葉にできない何かが、これは簡単な戦いではないと警笛を告げ続けている。


「京介君」


 えるが叱るように呼びかけてくる。「わかってる」ぶっきらぼうに応える京介。


 場の三人が捉えたのは車の発信音だ。

 教職員の帰宅か。業者の退出か。

 乗用車よりも重厚な音から察するに、トラックだ。体育祭用の業者だろう。

 いずれにせよ、ここを通りがかるのは間違いない。


 目前の車道に目を向ける。

 京介の記憶が少し前に遡る――




 先ほど日向と対峙した時、日向は車道を突っ切ろうとはしなかった。


 京介にしてみれば、そうしないことが正解であることは明白だった。

 車道での逃走戦チェイスが純粋な走力と反射神経に帰着されるからだ。

 そして日向は系統タイプで言えば持久寄りの瞬発と持久のバランスオールラウンダーであり、対して京介は瞬発寄りのオールラウンダーだからだ。


 瞬発力の差は微差だろう。100メートル走で言えば数秒も無い。あるいは一秒も無いだろう。

 一方で逃走にはパルクールを始め、専用のスキルこそ重要になってくる。

 ゆえに、ただ足が速いだけでは日向は捉えられない。メダリストの陸上短距離選手でも敵わない。


 しかし京介は違った。無論、走力で短距離選手には勝てないが、スキルがある。

 それも当時誰も勝てなかったマチエルに安定して勝てるほどに。


 だからもし、日向が車道を突っ切る戦略を選んでいたなら、京介は勝っていた。


 しかし日向は選ばなかった。

 検討さえもせずに切り捨てた――




 まるでそんな選択肢など最初から無かったかのような、神速とも言うべき判断の速さ。

 これだ。この状況認識と判断の瞬発性こそが日向の真髄。

 京介が倒したいと渇望し続けている魔物の底力だ。


 ぶるっと体が震える。

 勇躍か、それとも畏怖か。


「ここが広いのが救いだな」

「はい? 何か言いましたか京介君?」

「何でもねえよ」


 京介は背中を離し、悠然と立つ。えると真智が不審の目を寄越したが、気付かないふりをした。


 エンジン音の質が変わる。

 走行音だ。トラックが少しずつ近づいてくる。


 間もなく視界にも表れた。マナーは良いらしく、のろのろと走っている。

 と、京介がそんなことを意識した時だった。


 バンッ。


 汚い着地音が耳をつんざいた。

 パルクール初心者が度胸試しをしたかのような、極めて不快な音だ。

 しかし、その割にはどこか聞き慣れない。まるで物理的に汚くならざるをえないような、そんな違和感――。


 目をやると、玄関から少し離れたところで、人が転がっていた。

 見慣れた受身――PKロールだが、速度が凄まじい。

 を経た男は、もう立ち上がっている。


「う、そ……だろ……」


 ありえないことだった。

 二回転のPKロールという前代未聞の動作のみならず、その勢いや着地場所や地形から見て、あれは二階や三階程度から飛び降りたものではない。


 もっと高い。

 四階か、五階か。あるいはそれ以上。


 日向は新太と逃走中のはずだ。窓を経由する隙があったとは思えない。

 となると可能性は一つ。


「屋上――」

「京介君!」


 えるの叫びで、京介は我に返った。


 日向は既に突っ込んできている。対岸のエルマチ側には目もくれず、こっち側から突破するらしい。

 そう京介が認識したところで、日向の進路が切り替わった――トラックの背後を追いかけるような位置取りへと。


「ちっ」


 不快そうな舌打ちとは裏腹に、京介の心臓はどくんと跳ね上がっていた。


 間もなくトラックが道路を、京介の横を通ってくる。

 言うなればトラックという突如もたらされた動く物体イレギュラーだ。

 そんなシチュエーションは京介が知らず、また瞬時に最適解を見出せないものだった。


 一方で、日向は違う。空間認識と判断のスピードは桁違いだ。

 解の一つや二つくらい出せるだろうし、何なら既に出していてもおかしくはない。


(――わからねえ)


 この後、日向がどう来るかがまるでわからない。

 逃走戦も格闘と同様、ある程度パターンに基づいて行動するものだが、このイレギュラーでは役に立ちそうにもない。


「スルーだ」


 京介はイレギュラーの無視を即決した。


 トラックが正門を通りがかる。日向の左右位置もトラックと重なった。前後の距離差は十メートル以上あったが、秒と待たずに圧縮されていく。


 通り過ぎるトラック。風圧を微かに受けた京介だが、間近の巨大な鉄塊には目もくれず、ただただ近接する日向を射竦いすくめる。

 大人でさえも道を譲ってしまう凄みだが、無論、日向に通じるはずもない。


 その日向はというと、進路を歩道側へと向けていた。

 新太が瞬発的方向転換リダイレクションと呼ぶ必殺技だ。案の定、反対側の歩道を守備すると真智が意表を突かれているのが、肌でわかった。


「お馴染みのジグザグか」


 京介は平静だった。施設の連中が名付けた名前を呟いてみせるほどの余裕があった。


 施設時代から散々見せつけられ、攻略できなかった日向の特技なのに。

 当時よりも明らかに洗練されているのに。


 それでも京介は負ける気がしなかった。

 勝てるかどうかはわからない。それでも勝負の舞台に上がれているという感触がたしかにあった。


「久々に


 京介は獰猛な笑みを浮かべながら、車道側へとダッシュする。日向の進路とは逆方向だった。

 しかし、ほぼ同時に、日向の軌道はさらに転換リダイレクトされ、車道側に変わっていた。


 わかる者にしかわからない、新太レベルの理不尽な瞬発力だ。


 普段の京介なら負けていた。入っていなければ、確実に抜かれていただろう。

 これに京介は追いついたのだ。


 日向の動きを読み、反応してみせたことで。


「ちっ」


 思わず出た、舌打ち。

 史上最高のコンディションをもってしてようやく追いつく、という有様は無様そのものだ。

 直後、京介は超集中ゾーンの最中でも舌打ちをしてしまう自分に内心苦笑しつつ、日向にも感嘆を覚える。


 攻撃が通らなかった日向には表情の変化が無い。必殺技を止められれば、少しは狼狽えるものだが、まるで気にした様子がないのだ。


 どころか、既に次の攻撃を開始し始めている。


 直進の構え。トラックと歩道の間――路肩から突き抜けようという進路だ。

 歩道の植え込みに邪魔されて京介には追いつけない。そう踏んだのだろう。

 たしかに並のトレーサーならつまづくだろうが、京介は違った。


 その場で即座に障害物を観察し読み切る能力――『オンサイト』。


 トレーサーという、事前に安全性を担保してから動く生き物には真似できないものだ。

 日向の専売特許と言っても良い。いや、良かった。


 今や過去の話だ。

 少なくとも京介は、ある程度なら発揮できる。


 格上に近づくために。憧憬を超えるために。

 京介は追いかけてきたのだから。

 日向という高みにへし折られなかった、唯一の子供なのだから。


 今の京介には、植え込みなど障害にはならなかった。


(もっともこうなることは想定イメトレしてたけどな!)


 明瞭に思考する京介の眼前を、日向が弾丸のごときダッシュで抜けようとする。


 肉薄する両者。

 南下する日向の鋭い軌道に、西進する京介の重い軌道が割り込むという形だ。


 距離差は数歩以内というほどに近く、スピードの差も肉眼ではわからない。

 もっとも当事者はその限りではなく、


(間に合う)


 京介はを確信し、それを担保できる程度に力を落とした。


 そのタイミングだった。

 一際大きな足音が轟くと。


 日向の進路がまたもや変わっていた。


 京介が植え込みに阻まれないことがわかり、瞬時に反応したのだ。

 そして、そんな人外な反応に身体を追いつかせるために、おそらく持てる全てを総動員した方向転換リダイレクションを繰り出したのだろう。


 もはや持久寄りだとか瞬発寄りなどと論じれるレベルではない。もっとも、そんなことは屋上からの飛び降りビッグドロップの時点でわかりきっている。


 これこそが日向の切り札なのだ。

 京介含め、施設のメンツにも隠し続けてきた、本当の爪――


「甘かったなぁ!」


 京介にはそれさえも想定内だった。


 理屈でもなければ経験でもない、静電気のような刹那のひらめき。

 今の京介は、そんな些細な直感も見逃さない。

 極限の状況下では、こういう直感こそが勝敗を分けるのである。


 もし路肩を突っ切る日向を止めようと、全力を出していたら、この方向転換に対応できなかっただろう。

 京介は直感に従い、抜かれないことを確信できる程度に留めた。同時に、逆方向への飛び出しも考慮していた。


 おかげで京介の姿勢は今、車道側にも歩道側にも、どちらにも全速力で移動できるものになっている。

 これを歩道側に倒し、日向の必殺に食らいつく。


 両者の距離差は今や一歩、いや半歩にまで縮まっていた。


 この距離なら手を伸ばせば届く。


 逃げられても、持久戦に持ち込まれる前に走力で追いつく。

 かといって方向転換される余地もなければ、障害物や高低差もない。


(さあ来いよ日向ぁ!)


 逃走戦は終わった。

 あとはもう物理攻撃で相手を怯ませ、その隙に逃げるという戦略しか取れない。つまりは格闘戦だけだ。


 もはや日向に勝ち目は無い。

 日向が逃走のみに特化した化物ばけものであるなら、京介は格闘にも精通した怪物なのだから。


 格闘では明らかに京介に分がある。越えがたいスキルの差がある。

 いくら日向とはいえ埋められるものではない。


 超集中ゾーンの持続を自覚したまま、京介は勝利を確信する。

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