4 理解者

「はぁ、はぁ……」


 志乃は屋上へと向かっていた。

 春高生が普段意識することのない場所であり、逃げ場も無い行き止まりのはずだが、だからこそ彼が来る気がした。


 一般棟五階、一年生エリアから、さらに階段を上がる。


 初めて足を踏み入れる領域。

 照明が点いておらず薄暗いが、内装は他階と変わりない。掃除も意外と行き届いている。


 間もなく最上部に着くと、春高には珍しい手動ドアがあった。

 ドアノブに手をかけ、ひねる。鍵は開いていた。


 ドアをくぐり、拓けてきたのは、何の変哲もない屋上。

 植木も無ければベンチも無く、ただフェンスに囲まれているだけの無機質な空間だ。


 空を見上げる。枯れ始めた青空に、もくもくとした積乱雲が浮かんでいた。

 多層に重なった雲は、ちょうど人間の眼のような形をしている。まるで天が何かを見物しに来ているかのようだ。


 志乃は生唾を飲み込み、視線を戻す。

 思い出したかのように蝉の大合唱が届いてきた。よくよく耳を澄ますと、南側からも話し声らしきものが聞こえる。


 ふと、少し離れたところに何かが落ちているのが見えた。

 タオルだ。近寄り、拾い上げたそれは湿っている。

 志乃は迷うことなく嗅いだ。


「祐理さん……」


 タオルを放置し、南側に駆け寄る。

 フェンスに手をかけ、見下ろすと、正門を一望できた。


 人が集まっていた。面識は無いが、見覚えはある。

 遠目に見ていたからわかる。祐理の知り合いだ。どころか、あのくだけた様子を見るに、もっと親しい間柄だろう。

 思い当たるのは一つだけだった。


「家族――」


 一人っ子の志乃には眩しく映る。


 家族。

 フィクションでもしばしば出くわす光景であり、大部分の人が追い求める目標にして、半永久的なくさびでもあるもの。


 それへの羨望や嫉妬が無いと言えば嘘になる。

 それでも、渇望というほどでない。


 渇望と言うなら、志乃が見ている対象はただ一つだった。


「……」


 周りを見渡しても、彼は見えない。

 両耳を澄ましても、何も聞こえない。


 しかし予感はあった。確信があった。

 なぜかは知らないが、ここに来る気がした。

 ここで決着が着く気がした。


 胸に手を当て、立ち尽くす志乃。


「……来た」


 それから数十秒ほど経ったあたりで、到来の音色がやってきた。


 彼らしくない、重く鋭い足音。

 間もなくドアが開き、飛び出してきたのは――日向だ。


 一人だけじゃない。すぐ後ろにもう一人。

 これも面識は無いが、顔は知っている。


 新井新太。

 パルクールのトッププレイヤーでありながら、メディアでは史上最強の身体能力ともてはやされている傑物。

 番組や動画を視たことがあるからわかる。紛うことなき怪物の一人だ。


 日向はまっすぐこちらに向かってきた。


 何をするかはわかっている。

 見たことがあったから。




 忘れもしない、五月中旬のこと。

 春日野町の麓にて、日向はビルの四階から飛び降りてみせた。


 あの時の光景は未だに頭に焼き付いている。


 言語化できないことがもどかしくて、忘れてしまうのが怖くて。

 そうならないように何度も何度も思い浮かべて。

 しまいには勝手に浮かぶようになってきて。本を読むのに支障が出た時もあって。


 それで内心恨みつつも、やっぱり荘厳で、優雅で。

 何よりも綺麗なそれは、何よりも尊くて。


 思い出しただけで息を飲むことがあるのだと、志乃は人生で初めて知った――




 彼が近づいてくる。その顔はとても楽しそうだ。


 彼が近づいてくる。当たれば死ぬかもしれない。


 彼が近づいてくる。目が合った。


 ふっと彼がはにかむ。

 いたずらが見つかった子供のような、童心溢れる笑顔。

 それが志乃には嬉しかった。


 後続の追っ手には目もくれず、志乃の視線はただただ日向を追った。

 その視線がフェンスを越え、放物線を描く。


 綺麗な軌道だと志乃は思った。






 目前の日向が屋上のドアを開け、その隙間に自らの身体をねじ込む。

 ドアは千切れる勢いで開かれた。


 ――さすがだ。


 新太は感心を抱いた。


 ここでドアを塞いで籠城するのは愚策である。

 絶対筋力では新太に敵わないし、いったん停止してしまえば逃走戦は助走からの勝負ゼロスタートに戻ってしまう。瞬発性に劣る日向には分が悪い。


 とは言うものの、最善の行動でもない。

 そもそもドアを開けるようなルートを選ぶこと自体が間違いなのだ。日向がドアを開けるのに要した分だけ、新太はリードできるのだから。

 事実、距離差は素人目で見てもわかるほどに縮まり、手を伸ばせば届きそうなくらいに肉薄していた。


 この後の行動は決まっている。

 日向が取れる選択肢は一つ――下階に逃れるのみ。


 となると、いかに素早くスピードを殺し、下階に逃れられる程度に身体を寄せて落ちるかの勝負になる。あるいは壁を這うかもしれないが、本質的には同じことだ。

 屋上を少しでも速く走り、ギリギリで緩めて、下階に逃れるための飛び込みジャンプ握り込みグリップをする――。


「チキンレースだね!」


 日向は左に曲がった。一般棟の南側から下りるつもりらしい。

 新太もロス無く追随し、追いかけながらも、興奮と高揚を言葉にして眼前の背中に浴びせる。


「しかも決める気とみた!」


 校舎を下りきれば、正門がある。


 守備するのは京介達だが、手加減していた日向ならさておき、今の日向なら取るに足らないだろう。

 確かに京介の総合力――特に瞬発力には目を見張るものがある。油断すれば新太でさえも負かされる水準だ。しかし、リダイレクションであれば容易に不意を突けてしまう。


 だってこれは単なる瞬発的動作ではないのだから。

 これは一定の条件を満たした身体と、それにそぐわない相対筋力を備えた者のみが辿り着ける境地なのだから。


 これまでの交流から見るに、日向はこのレベルのパフォーマンスを頑なに隠している。京介達が知らない可能性も高い。


 知らなければ、適応はできない。

 できたとしても、反射神経に優れる日向の前には、間に合わない。


(今日という日に感謝するよ、日向君)


 日向が逃げられるのに逃げなかった理由――。

 それは新太と勝負するためだ。

 新太が勝負しに来ることを期待していたためだ。


 練習だけでは獲得できないものがある。

 実践の最中にしか味わえないものが確かにある。


 だからこそ彼は選んだ。

 危ない事情を抱えていながらも、新太という遊び道具で遊ぶことを。


「ん?」


 そんな新太の思考が途切れる。


 日向の勢いに緩む気配がない。

 新太の感覚であれば、そろそろ緩めなければ間に合わない。


 リダイレクションでフェイントをかけるつもりだろうか。されど、ここは屋上。教室と違って机や椅子のない平地だ。

 平地が無く、反射神経も優れる者同士であれば、逃走戦は純粋な身体能力に帰着される。日向に勝ち目は無い。

 ゆえに下階に逃れるしかないはず――


 そこまで一瞬で考えた新太は、初めて視界に映る異物に意識を寄せた。


 この学校の生徒だった。

 取るに足らない女生徒だった。

 それ以上の認識は不要だ。この場においては路傍の石でしかないのだから。


 予想外だったのは、彼女の視線の動き方だった。


 まるで日向を待っていたかのように。

 この後の動きがわかっているかのように。

 その瞳には絶対的な確信が宿っている。


「――まさかっ!?」


 日向は跳躍していた。

 チキンレースのチの字もない。開き直った自殺者でもここまで思い切った飛び降りはできまい。


 新太はようやく気付いた。

 日向が最初からそうするつもりだったことに。

 そして彼女が、日向の意図を知っていたことに。


 勢いの止まない新太は軌道を少し逸らし、彼女の横を通り過ぎてフェンスに衝突。

 両腕で勢いを吸収しつつ、待ちきれないとばかりに顔も突き出す。フェンスにぶつかり、かしゃんと鳴り響き顔に跡をつくのも気にせず、すぐに視線を落とした。


 一人の人間が、落ち行く最中にあった。


 それはサーファーのように、重力という波を乗りこなしていた。

 吸い込まれるように加速を続け――間もなく地面に着く。


 着地音。


 それだけでもわかる。

 他の追随を許さないとはこのことだ。


 既に切れかけているが、今現在、新太は超集中ゾーンに入っている。

 そんな自分でも、眼前のそれは一生できる気がしない――

 そう一瞬で確信してしまった。


 するしかなかった。


「ははっ……」


 腰が抜ける。

 執着の対象を失い、手持ち無沙汰になった五感が夕日と彼女を捉える。


 見上げると、樺色に照らされた彼女が、彫刻のように佇んでいた。


「――こういうのを見惚みとれると言うんだろうね」


 思わず口をついて出た新太だったが、彼女はぴくりとも反応しない。


 まるで美術品に見入るように、ただただ静かに見下ろしていた。

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