3 当事者
物静かな校内に足音と笑声が響く。
「入った状態で興奮すると愉快になるんだね! 初めて知ったよ!」
一般棟三階、三年生フロアの廊下を二つの人影が通過していた。
屋内を走るスピードではない。教室に居た生徒がその音量を聞き取り、顔を向けても、もう通り過ぎている。
先行する日向は廊下を直進し、突き当たりの一つ手前の教室付近で軌道を変えた。
既に何度も見せている急激な方向転換――リダイレクション。
強力な瞬発力と
一般的に知られる名前もついていなければ、パルクール動画で見ることもないが、新太も易々と真似してみせた。
「覚えてるかい日向君!」
「きゃああ!」
「え!? 何!?」
国際科エリア――F組教室で談話していた女生徒二人が立ち上がり、立ちすくむ中。
日向と新太は、机の海を縫うように移動を繰り広げる。
「その動きに僕はリダイレクションと名付けた。僕だからこそ編み出せた技なんだ。なのに当時小学生だった君が使いこなしていた時はちびったよ! このリダイレクションだけどね、実はパルクールにこそ役立つんだ!」
見ている者に風圧を幻聴させるほどの、激しいチェイス。
女子二人は自然と隅にまで移動し、どんっとロッカーに背をぶつけていた。筋肉無き背中にはダイレクトに衝撃が響くが、痛みを感じた様子はない。
「……ていうかこの人、あの人、……だよね?」
「新井新太、よね……」
「だよね!」
どころか
そんな彼女達を余所に、「なあ日向君!」新太は変わらず独り言ちる。
「君も使ってるだろう? リダイレクションはキャンセルに使えるんだ! 着地キャンセルならぬ踏み切りキャンセルさ。たとえ思い切り加速してジャンプし始める時でも、着地先に問題があるとわかればキャンセルでき――」
「なんで待ち伏せしないんですか?」
日向が突如言葉を割り込ませ、機械翻訳のように淡々と喋り始める。
「俺は追い詰められてますよ?」
新太は鬼気迫る闘争心を溢れさせたまま、嬉々として、
「そんな誘導には引っかからないよ!」
日向が仕掛けた罠を一蹴してみせた。
現状は一見すると、日向が教室内に追い詰められた構図に見える。
グラウンド側の窓は閉じられているため、両者の実力差を考えれば、これを開けて脱出するルートはありえない。
なら新太のするべきことは単純で、待ち伏せするのがセオリーである。
言うなれば日向は袋の鼠なのだから。
新太は隙あらば捕らえる姿勢を見せつつも、基本的には日向の動きを追従すればいい。
一方で日向は、隙を見せればやられるのは事実だから気は抜けないし、袋小路を抜け出すには大きな労力を要するため、迂闊には使えない。
結果、身体的にも精神的にも疲弊していく。早く打開しなければと焦る。焦りは綻びを生む――
そんなセオリーを意識させるために、日向は発言してみせたのだ。
「そもそもここは行き止まりじゃない!」
両者の間には二つの机。それが新太の手によってガガッと連結された。
出来上がった島を二人が挟んで向かい合う中、新太の手が伸びる。
日向は身体を傾けて交わし、その勢いのまま右に踏み込む。新太が瞬時に反応したところで、日向は逆方向に転換した。
何度も見せてきたリダイレクション――プロのスポーツ選手や格闘家でも惑わされる必殺のフェイントだったが、新太は問題無く反応してみせた。
しかし日向がゼロコンマ秒、速い。
身を屈め、机の下をくぐっていく日向に、新太は追いつけない。
代わりに新太は軌道を予測し、机の上を
滞空時間が異常に短い。
机を掴んだその腕が、その筋肉が、生物のようにうごめく。腕力で障害物を掴んだのだ。
力尽くで強引に落ちるために。
少しでも早く落ちるために。
「君の瞬発力なら、この窓ガラスはぶち破れる」
新太が机から手を放す。瞬間、慣性の残った机が吹き飛んだ。周囲の机にぶつかり、派手に散らかる。
そのけたたましい音に、女生徒二人は抱き合って悲鳴をあげた。
一方で日向と新太の動きは緩まない。
一秒、いやゼロコンマのレベルで隙を見せただけでも敗北してしまうような、そんな緊迫した雰囲気が形成されている。
「そこいらのトレーサーは障害物を越えるしか能が無いけど、君は違うよね!」
「……」
日向が仕掛けた罠は既に看過されている。
もし新太がセオリー通りに縮小運転に入ったが最後、日向は窓ガラスを突き破ってここ、三階の教室から飛び降りていただろう。
そうすれば日向は新太と差をつけることができていた。
その可能性を新太は封じているのだ。
この絶対的有利に見える状況下で、あえて全力で肉薄し続け、一瞬の隙さえも生ませないことによって。
「そもそもさぁ! さっきも
フォールブースト。
より素早く移動するために、自由落下よりも早く落下するという考え方である。
天井を蹴る、支点を設けて回転しながら落ちる等の方法があり、さきほど日向が階段を飛び降りた時に使ったのが前者で、今新太が多用しているのが後者だ。
「や、やばいってこれ……早く出ようよ……」
「どうやって出るのよ……」
怪物同士の暴走を前に、女生徒二人はお互いを抱き、縮こまることしかできない。
すっかり興奮は冷めており、足もすくんでいる。
と、そこに「きゃあっ!?」椅子が飛んできた。
「無理……無理無理ムリッ!」
うち一人が涙目になりながら、教室後方側の出入口に駆け込もうとする。
「え……」
その進路を新太が阻んだ。
一瞬の後、後ろにもう一人いることもわかり、彼女は本能的に危険を察知する。
しかし遅かった。
彼女の右から飛び出そうとする日向を前に、新太が彼女を掴む。まるでエアホッケーのマレットのように彼女を動かした。
(――間に合わない)
そんな彼女の扱いにも怯まず、日向の眼は見抜く。
自らの身体を動かすよりも、新太が彼女を動かす方が僅かに速いことを。
日向はリラックスした無表情を携えたまま、背後方向にリダイレクション。前方への走り込みをキャンセルした。
(
通常トレーサーが人という障害物に干渉するとは考えない。まして動かそうなどとは夢にも思わない。
そもそも通行人は障害物ですらなく、最優先で尊重するべき対象である。新太も、いやパルクールの名を背負う第一人者の新太だからこそ、よくわかっているはずだ。
その新太が、そんなしがらみを捨ててみせた。
彼の本質を考えれば納得できるが、ここは学校である。加えて彼は素顔でもあり、
こんな風に危害を加えれば、後々どうなるか想像もつかない。
(危なかったな……)
日向とて
それくらいの意表と芸当を、新太はこなしたのだ。
リダイレクションした日向は、そのまま後方に向かって全力疾走を繰り出す。
「させないよ!」
新太は邪魔だとばかりに彼女を弾き、空いた進路に自らのスタートダッシュをねじ込むも、「なるほどっ!」愉快そうに呟いて急ブレーキをかける。
日向を見ると、さらに軌道を変えており教室前方の出入口に向かっている。
「なるほど賢い!」
新太には追いつけなかった。
机と椅子が散らばっているせいだ。新太の現在地は足の踏み場も怪しい密度だった。
一方で、日向が通るルートは、図ったかのように何も無い。「なるほどね!」新太が繰り返し嬉しそうに叫ぶ。
「障害物の配置を変えながら戦ってたんだね!」
しかし動作に淀みはなく、最短ルートで追いかける。
日向から一秒と経たずに廊下に出た。
「この必殺のやりとりの最中に? 僕に悟られないように!? 凄いね嫉妬するよ! もう君が優勝でいいっ!」
新太の叫びが聞こえなくなった後。
思い出したかのように尻餅をつく音が鳴った。
F組教室は、災害跡のように散らかっており。
「うぅ……」
吹き飛ばされた女子は、
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