7 鉄壁

 屋上を抜けた日向は、特別棟の外壁をぬるぬる滑るように下っていく。

 引きずるような音は鳴らない。そのカラクリは摩擦によるブレーキではなく、僅かな溝や突起に手足を着地させるという負荷分散だった。

 無論、初見で行える動きではない。知り尽くしたルートだからこそ成し得る技だ。


記録カードコイツだけは死守する)


 今、日向が履く靴の内側には記録カードが収められている。佐藤協力のもと、わかりづらく隠蔽されてはいるが、捕まったが最後、隅々まで調べられ発見されてしまうだろう。


 仮にそうでなくとも、嘘発見器の真智がいる。

 身体を拘束され、イエスノーで答えられる質問を浴びせられたらおわりだ。


(意識のシャットアウトもできなくはないが、長くは保たない。隠すか、それとも……)


 記録カードを隠すという選択肢が思い浮かぶ。


 敷地内に隠すか、敷地外に隠すか。

 自宅に戻るか、佐藤宅に行くか。

 あるいはジンの家か、日向の隠れ家か。


(胃袋は経由できるのか? いや――)


 物理的に飲み込むという選択肢さえ考慮する日向だったが、事態は甘くなかった。


「アタシがここを見張るわ!」


 上方から届く沙弥香の声。よく通っている上に、屋上の地面から屈折したという聞こえ方ではない。

 つまりは直に見下されているのだと日向は把握する。いちいち上を見る手間は犯さない。

 そもそもまだ下っている最中だったが、二階部分で外壁から離れた。


 間もなく着地すると、目の前には校内外を区切るフェンス。

 そしてその先は天然のバリケード――


 通るのは容易い。アラームが鳴ろうが関係無いし、森についても密度の薄い抜け道を知っている。

 何なら開拓もしているし、普段春高に侵入する際によく使うルートでもあるのだ。

 庭と言っても過言ではないほどに慣れ親しんでいる。


 一方で、彼らは日向がここを越えることを想定していない。


 逃げ切ることが第一目的なら、日向の勝利は確定的だった。


「日向は一階に着地! 南に向かってる!」


 しかし日向は逡巡さえ見せず、正門へと向けて走り出していた。


(この発想ルートを知られるわけにはいかない)


 無知は弱点であり、秘密は武器となる。


 彼らは無知だ。

 春高の出入口は正門以外に無いと信じている。

 高密度な草木を越えるという発想を持つこともできない。


 日向は違う。そんなバリケードを日常的に越えている。

 ゆえにこそ日向は――撮り師JKPJKぺろぺろは、容易に春高に侵入できているのだ。


 もしこの道を知られたら、何らかの対策を施されるに違いない。

 日向というトレーサーについては既に知られている。対策はトレーサーを想定した、本格的なものになるだろう。

 そうなればJKPの活動も難しくなる。


(まだまだ稼ぎたいからな)


 しばし疾走した日向は特別棟裏の南端に到着。

 屋外物置と化しているエリアをヴォルトで抜けると、景色が拓けてきた。


 駐車場、そして正門。

 そこを通るは体操服姿の群れ。既に生徒は少ないはずだが、居残っていたグループの帰宅が偶然にも重なったようだ。


 視線はほとんど向けられなかった。

 当然だ。足音は抑えている。


 日向は構わず走り出す。消音はやめて、スピードを乗せた。


 物理的に主張される存在感日向に、視線が集まる。

 それらすべてを弾くように日向は無慈悲な眼光を向け、舐めるように観察していく。


「――脅威は無いクリア


 再び勝利を確信する日向。

 その表情には至って平静だったが、あえて言えば少し失望が見て取れた。


 そんな日向が正門にさしかかり、通ろうとしたところで。


「よぉ」


 正門のすぐ先、広い下り坂の端――擁壁ようへきにもたれる家族の姿があった。


「真智、構えてください」

「わかってる」


 向かって左の歩道には京介。右の歩道にはと真智。


 三人とも数秒後には臨戦態勢に入っていた。


「……そう来たか」


 日向は立ち止まっていた。


(突破できる隙が見えん。いや、あるにはあるが……)


 純粋な走力で突破できないこともない。が、明らかにとなってしまう。


 どうということはない。今日も散々としてやってきたことだ。

 ただ標的の観察と手ブレの抑制に使っていたリソースを、すべて走力に注ぐだけ。


 それだけで越えられるし、超えられる。

 目の前の三人衆ハードルだけじゃない。その常識や人知さえも。


「……」


 三人の動静を観察しつつも、日向は考える。


 日向とて無頓着ではない。を誰かに見せることの危うさは本能的に理解している。

 だからこそ、今まで誰かに向けて使おうとはしなかった。


(文化祭では使っちゃったけどな)


 春子を吹き飛ばした時と、沙弥香から抜けた時。

 日向は二回ほどを使ってしまった。

 使わなければ捕まっていた。使うしかなかった。


 とはいえ、使ったのは一瞬だ。気付かれることはない――

 そう日向は楽観視している。


「どうした日向ぁ? こっち来いよ? 久々にタイマンしようぜ」


 京介が余裕綽々よゆうしゃくしゃくの面持ちで挑発してきている。

 しかし身体にも視線にも隙がない。戸惑う通行人すべての一挙手一投足さえ把握しているような、そんな万能感が湧き出ている。


 日向は突破しようとフェイントを仕掛けた。

 仕掛けつつ、本当に隙ができれば突破するつもりではいたが、三人がそれを許さない。


 京介のみならず、真智とも息の合った連携で動いてくる。

 どちらか一方が単一障害点にならないよう二人で固まり、また二人の位置取りが偏りすぎて抜け道が生じるのも防いでいる。


「マチエルさんはまだ生きてたのか」


 このコンビは真智とで『マチエル』と呼ばれ、施設時代は日向を除き誰一人勝てず、日向自身も苦戦を強いられた存在だった。


 もしこの二人が、日向が施設を出てからも遊び続けていたのだとしたら。


「……」


 マチエルは無駄口の一つも叩かない。超集中ゾーンほどリラックスしてはいないが、集中しているのは間違いなかった。

 そんな鉄壁とも形容できる守りを見て、日向は。


 ――無理だ。


 突破するには少なくとも身体接触が発生する。ひとたび発生してしまえば、武術や体術に心得の無い日向に勝ち目はない。

 もっとも反射神経を総動員して、一瞬だけを発揮すれば回避できる――文化祭の時はこのやり方だった――だろうが、この三人は春子や沙弥香ほど甘くはない。

 の存在には高確率で勘付くだろう。


 第一、一瞬だけ捕捉を回避したところで、京介との逃走戦チェイスになるのは目に見えている。

 そうなることは死を意味していた。


 京介は新太に迫る身体能力の化け物フィジカル・モンスターなのだから。

 先天的な資質で言えば、日本人を超越しているのだから。


「了解」


 唐突に京介が呟いた。

 その発言は日向に向けたものではない。


 耳だ。京介の、いや真智とも含め、三人の片耳にはイヤホンが装着されている。

 図ったかのように同じデザインであり、祐理らが付けていたものと同じものだと日向は気付く。


「ここは封鎖できてる。あとはてめえらの仕事だ」

「……連携してやがるのか」


 日向は悟った。

 何らかのアプリでオンラインミーティングが開催されているのみならず、これが体育祭の最中から練られていたものだということに。


「多勢に無勢。卑怯だとは思わないのか」

「だったら早く来いよオラ」


 京介に攻めの姿勢は皆無だった。

 最初から校門を守備することに割り切っている。そのためだけに全神経を集中させているような、そんな気迫をぎらつかせてくる。

 挑発したつもりが、逆に日向が誘いに乗ってしまいそうだった。


 と、その時、二人分の慌ただしい足音が日向の耳に届く。

 間もなく京介の視線も一瞬飛ばされた、その先には――


「おったで!」


 玄関から現れた誠司と、背後には琢磨。

 その二人がトップカーストにはあるまじき泥臭さをまとって突撃してきている。


 雑魚の走りでもなければ、怒りに駆られた獣という風でもない。

 怒りはある。明らかに憤っている。

 それでありながら、冷静さも忘れていない。


(冷静な怒り――――厄介なやつだ)


 後方の琢磨に至っては、エルマチほどでないが一歩引いた位置取りをしていた。要領が良いだけあって的確だ。

 誠司を抜こうとすれば琢磨が阻み、琢磨を抜こうとすれば誠司が阻むだろう。

 正面突破は簡単じゃない。


 日向は走り出していた。

 正門から離れて、特別棟と一般棟の間――中庭に向けて北進する。


 日向が通り過ぎた空間を、間もなく誠司と琢磨が通過。


「焦るなよ誠司」

「わかっとるわ」


 校内を舞台にした逃走劇が幕を開けた。

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