8 僥倖

 プール裏で挟み撃ちに合う。

 塀とフェンスを越えて回避し、プールサイドを線を引くように横切って差を付けた。


 体育館の裏道でも挟まれる。

 フェイントを入れて惑わし、桁違いの観察力と瞬発力で隙をひねり出し、ねじ込んで駆け抜けた。


 クラブハウスの二階で行き止まりに追い詰められる。

 勢いを殺さず二階から飛び降り、「なんてモンキープレシジョンモンプレだ」初心者の春子を脱帽させた。


 日向は今、屋外を逃げ回っていた。

 追っ手は三人――琢磨、誠司、春子である。


「意外と賢いな」


 先生や他生徒に頼るという戦略が取られていない。その感心を日向は呟きに乗せた。


 逃走戦において、数の暴力で押し潰すことは必ずしも有効ではない。

 特に日向のように空間認識や状況判断に優れる者が逃走者であり、かつそのような能力を生かしやすい広くて雑多としたフィールド学校が舞台である場合は、素人など障害物にしかならない。


 たとえるなら、戦場において素人の兵士を大量投入するようなものだ。邪魔になるだけならまだしも、盾や目眩ましとして使われてしまうという意味でオウンゴール級の失態になる。

 そして日向は、障害物の認識にかけてはチート級の性能を誇る。

 わざわざ投入するのは愚の骨頂だった。


あたりが指示しているのか。あるいはあいつらか……」


 屋上を見上げると二つの影。遠目でもわかる、よく見知ったシルエットと動き方は――祐理と沙弥香だ。


「あの監視役と言い、こいつらの執拗な追いかけ方と言い、作戦が透けて見えるな」


 グラウンドのど真ん中を疾走する。数十メートルもしない距離から追っ手三人の足音が響いている。

 それ以外の雑音はおとなしく、追っ手の掛け声も無かった。ちらりと見やると、肩で息をしているのがわかる。吐息がここまで聞こえてきそうだ。


 校舎に設置された時計に目をやると、午後六時を過ぎていた。空の青々にも薄くなる気配がある。


 日向はポケットからゼリー飲料を取り出し、吸引。

 その間もスピードは緩めず、差も縮ませない。


 そんな余裕ぶりに春子が顔を歪め、誠司が顔をしかめるのを見て、日向はゼリー容器をあえて投げ捨ててみせた。

 案の定、二人の表情に怒りの成分が現れ始める。


「二人とも落ち着いて。挑発されてる」


 琢磨の爽やかな声に二人をはっとして、間もなく平静を取り戻した。


(小細工はもうだめか)


 ジリ貧という言葉が頭をよぎった。

 この逃走は巻くか捕まるかするまで続くだろう。日向とて人間だ。体力も注意資源も有限であり、このままでは夜を越すことさえできない。

 一方で、相手は校門と監視役さえキープしておけば休憩も差し込める。


 現状を打開するためには隙が必要だ。

 記録カードを取り出し、隠す隙が。

 あるいは変装する隙が。


(いや、代わりとなる服装が無いか。それに正門を素通りできる気がしない)


 たとえ誰かの動きを模倣したとしても、この場において自然な格好――生徒なら体操服一択だ――でないとわかれば不審を抱かれる。

 そして、ひとたび抱かれてしまえば、真智の鋭すぎる観察眼が発揮される。見破られる恐れが無いとも言えない。


(やはり記録カードを隠すしかないか。十秒、いや五秒の隙があれば……)


 一般棟の東側を駆けながら唾を吐いてみせるも、もう誰も反応してこない。


(隙をつくってカードを口に入れる。それからどこかに隠せば――)


 候補は容易に浮かんだ。

 十、いや百は浮かんだ。


 当然だ。盗撮のために校内の至る場所を走査スキャンしてきたのだから。

 生徒や教員の死角さえもリストアップできる。


(あるいは隠すのもやめて逃げ切るか。盲点を突く感じの何か――先生や業者の車を利用するとか)


 一般棟をぐるりを回り、中庭へ向かう。三人とも後方にいたため、挟まれる心配は無い。

 もっとも挟まれたところで、片方は必ず一人しかいない。一人なら抜ける。


 正門に近づいた。相変わらず施設勢が鉄壁を固めている。


「いいかげん楽になろうぜ?」


 口調はフランクだが体勢がシャープな京介を軽く睨んだ後、通り過ぎる。


 特別棟側に向かった。日向には馴染み深いが、出入口は物と設備で入り組んでいる。

 苦戦する春子らを余所に、日向はのんびりゼリーを補給しながら攪乱かくらんする。


 生じた隙を突いて、再び正門側へと走った。


「諦めろ。折れねえよ」


 京介は無視して、東に進む。


 実力差は歴然なのに、追っ手の足音が止まらない。


 校舎を見上げれば、やはり祐理がいた。

 その口元が動いた。作戦か、激励か。

 鉄壁の京介達と同様、折れるのを支える柱になっているのは間違いない。


 屋上の人影は一つだけで、沙弥香は見当たらなかった。休憩しているのだろうか。


「……」


 余裕があるのに、思考がまとまらない。


「いや、そうしたくないのかもな」


 他人事のように呟き、ふっと苦笑する。


 本心はわかっている。

 そんな場合じゃないのに、を望んでいる。


 発散したいのかもしれない。

 ここまで抑圧し続けてきたもののすべてをぶつけたいだけなのかもしれない。

 オナ禁から解放された男子のように、欲望の赴くままに。


 に耐えられ、あまつさえ受け止めてくれる者など、この場にはいないはずだった。

 しかし日向の予感が正しければ――


「――でや」


 なんでや。


 誠司の声だった。

 距離が離れているため微かな音量だったが、思わず出た、叫びにも近い声量のようだ。


 体ごと後ろを向いてみると、追っ手三人には見たことのない色が。

 あえて言うなら拍子抜けか。


 どうもイヤホン越しに何か意外なネタが投げられたようだ。

 提案という風ではない。

 予定外の、しかし驚愕の何かであり、彼らを喪失に導く何かでもある。


 教職員が動いたか、施設長が介入したか。

 京介あたりが攻撃に転じてきたとも考えられる。あるいは――


「まさか……」


 日向の呟きは絶望が見て取れる声調トーンだったが、反面、その口角はつりあがっていた。


 それからも日向は逃走を続ける。

 所持していた補給品は、可能な限り摂取した。


「少しでも回復しとかないとな」


 摂取しきれない分は、死角を突いて配置した。


「少しでも軽くしないとな」


 アットランダムな逃走ルートをやめて、あえて中庭を目指すようにした。


「舞台は整えないとな」


 何度いなしたかわからない春子、誠司、琢磨をもう一度引き離す。

 正門を経由して、中庭を北上していくと――


「またあったね」


 イヤホンを付けた新井新太が立っていた。

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