6 打破

「渡会君……。なんでや、なんでやんや……」


 最初に動いたのは誠司だった。


「なんでや渡会! お前、自分が何したかわかっとんか!?」


 憎しみさえ宿っているかのような叫び。

 こだますることはなく、間もなく吸い込まれるように消えていく。


「文化祭で怪我人が何人出たか知っとんのか!? まだ治っとらん人もおるねんやぞ!」

「誠司、落ち着け。の思うつぼだ」

「タクマン……」


 肩に手を置いてきた友人の目は、普段は決して見せないものだった。


「佐久間の言う通りだ。冷静さを失うな。ただただ彼を捕まえることだけを考えろ。言いたいことは捕まえた後で良い」

「……せやな」


 誠司が肩をまくる。

 よく日焼けしており、誰が見ても筋骨隆々と呼べるものだった。


「で、ワイらはどうすればええ? このまま待つんか?」

「今考えている。焦るなよ。ここを固めておけば奴は出られないのだからな」

「誰かがそこを登るってのはどう?」


 琢磨が女子陣に提案するように言う。「ダメね」沙弥香が答えた。


「見たところ3.5メートルといったところかしら。アタシや祐理なら何とか登れないこともない距離よ。見た感じ、靴も壁も噛む」


 『噛む』とは壁を蹴りやすいという意味だ。


 沙弥香が足元に視線を落とす。

 春高では外履きにも上履きにも自由が認められ、ヒールやサンダルなど一部を除けば何でも履けた。運動靴も例外ではない。

 加えて今日は土足が許されている。


 パルクールシューズを履く沙弥香が皆の足元に視線をやる。

 全員、例外なく動きやすい靴を履いていた。


「でも登るのがやっとよ。その間は戦力外になる。アタシも祐理も、一人だけでドアを守れる自信はないわね」

「わたしも同感」


 春子は「ふむ」と同意を示し、一案を投じる。


「なら私もドアを守備する、というのはどうだ?」


 言いつつ春子は、身体がなまったのか足を片足ずつほぐす。

 抜かりはないらしく、素人目でも隙が感じられない。


「ダメね。そうすると全体を見る者がいなくなる。アイツを甘く見ちゃダメ。警戒すべきは特別棟だけじゃないのよ? アイツなら一般棟の外壁を伝って階下に逃れることも容易い。ただフェンスがある分、越えるのに多少時間がかかるってだけなのよ」


 春子の役目は、二箇所の出入口以外のルートを封じることだ。


 ドア前は祐理と沙弥香、特別棟側は琢磨と誠司が守っているが、出入できる箇所は他にもある。極端な話、日向であれば屋上のどこからでも階下に待避できるだろう。

 ただ一般棟と渡り廊下のエリアにはフェンスがあり、日向とて越えるのに多少の時間を要するため、逃走ルートとして選ばれにくいというだけの話だ。

 それでも選ばれない保証はない。どころか下手に隙をつくれば、容赦なく突いてくるだろう。


 この弱点をカバーするのが春子だ。

 春子の反射神経と戦闘能力は、五人の中では最も優れている。


 日向がどこに飛ぼうと、春子なら即座に追従できる。

 そして追従できれば、日向がフェンスを越えている間に差を詰め、捕捉できる。


「ワイはまだピンと来いひんけどな」

「トレーサーじゃないんだし来なくて当然よ。誠司はそっちを死守しな――」

「来たで!」


 誠司が叫ぶ。

 建物のてっぺんから突如、人の頭が見えたためだ。


 それがダンッと激しい踏み込みを経て、宙を舞う。


「来たか!」


 春子が即座に反応し、地面に映る影を見ながら特別棟側へと駆け出す。上方を向くことはない。その労力さえもダッシュに充てるためだ。

 琢磨と誠司も既に身構えており、それを視認していた。


 それは紛れもなく春高の体操服であり。

 体育祭で活躍してみせたクラスメイト――渡会日向そのものだった。


「祐理!」


 沙弥香と祐理はドア前から動かず、腰を落とす。

 無闇に追いかけてはならない。ここの隙をつくらないのが二人の仕事だった。沙弥香は自らにも言い聞かせるべく叫んだのだが。


 ガシャンッと。

 日向がフェンスが控えめに鳴った。


「沙弥香ちゃん違う!」


 そこに祐理の声と足音が重なる。


「男二人はドアを守って! 早く!」

「アタシも行くわ!」


 指示を飛ばす祐理に呼応して、沙弥香も秒と待たずに走り出した。


「嘘やろ……」


 ぽつりと漏らす誠司に「早くドアを!」沙弥香がげきを飛ばす。

 誠司はすぐに正気を取り戻し、既にドアに向かっている琢磨の後を追う。


「渡会! 待て!」


 春子、祐理、沙弥香がこの順で特別棟側に駆けていく。

 彼女達の視線は、少し上を向いていた。


 日向は走っていた。


 捕まえ隊は日向が建物から飛び降り、屋上の地面を走ると考えていた。いや、そう考えることさえしなかった。

 地面という移動経路が唯一だとという固定観念。

 これを日向は打破してみせたのである――建物の上からフェンスの上に、直接プレシジョンするとびうつることによって。


「バカなの!? アンタ死ぬわよ!」


 トレーサーであるはずの沙弥香が自殺者をとがめるように叫ぶ。


 無理もなかった。

 フェンスの上部はレールと呼ばれ、常人では立ち続ける事さえ難しいほど細い。

 加えてここは屋上だ。フェンスの先に落ちたら命は無い。

 さらに言えば、日向の潜む建物から着地先のフェンスまで優に五メートルは離れていた。


「ここで助走付きのプレシジョンランニングプレシなんて何考えてんのよ!?」


 日向の背中は振り返ることもなく、止まることもなく渡り廊下エリアを通過。

 終点のフェンスからは飛び降りず、飛び越え技ヴォルトのように優しく下りた。まるでハードル走の選手がハードルを越えたかのような素早さで、一切の継ぎ目が無い。お手本とも呼べるフロウを体現していた。


 間もなく境界に突き当たる春子が「逃がすか!」フェンスを

 春子の体がふわりと上がり、あっという間にフェンスの頂点を超える。

 間もなく続く祐理と沙弥香も、同じ動きをした。


 ポップヴォルト。

 障害物を蹴り上げ、高さを出してから越えるというヴォルトの一種である。


 パルクールを知らない琢磨と誠司には出来ない芸当だ。

 だからこそ追いつけないと判断した祐理は叫び、二人を後退させたのだ。


 最初にフェンスの向こう側に着地し、走り出したのは祐理だった。

 越えたのは春子が先だったが、着地するまでのプロセスで祐理が抜いたのだ。いくら春子が優秀な身体能力を持ち、直接新太から指導を受けていても、所詮は一月単位の初心者に過ぎない。

 祐理の年季と比べれば、技術差は歴然だった。


「速すぎる……」


 その祐理でさえも日向には追いつけない。


 スタートが遅かった。ただでさえ雲泥の力量差なのに。

 ダッシュも遅かった。地面を走っていたのに。

 着地さえも遅かった。素人でも目に見えてわかるほどに。


 日向はチキンレース顔負けのスピードで特別棟の端まで至ると、半ば飛び降りるように消えていった。

 飛び降りではない。飛び降りられるはずがない。

 若干勢いが緩んでいた。外壁を伝って、下階のどころかに逃れるのだと祐理は瞬時に理解した。


「引き返そう春子ちゃん! 沙弥香ちゃんはここから見張って!」


 日向を惜しまず、祐理は引き返す。


「みんな聞いて! 今のでくじけちゃダメ!」


 通話として聞こえるよう大きな声で叫びつつも、さっき通ったばかりのフェンスを足だけで飛び越える。ノーハンドと呼ばれる高度な技だ。

 すたっと綺麗な着地音を響かせる。


「日向は袋のねずみなの。大切なのは証拠を隠滅する暇を与えないこと!」

「アタシはここでアイツを見ればいいのよねっ!?」


 屋上から俯瞰的に日向の動静を探る、という意味だ。


「うんお願い。他のみんなは散らばって日向を探そう! とにかく食らいついて波状攻撃だよ!」


 間もなく琢磨誠司ペアと合流した祐理は、琢磨が気を利かせて開けていたドアに飛び込み、「ありがと」通りがかりに呟く。

 階段を三段飛ばしで下りながら、


「長期戦のつもりで行くよ! わたしは五階!」


 あっという間の二人の視界から見えなくなった。

 直後、春子も猛スピードで通り過ぎる。


「全然レベチやん……」


 またも放心しかける誠司の頭を「あたっ!?」琢磨はあえてぱたいた。


「腐るのは後だ。一ノ瀬さんに従おう。オレは四階を探す」

「……そうやな。三階。ワイは三階を探すで!」

「アタシはここから見張るわ!」

「私は屋外に向かう」


 春子含め分担が即決され、各位行動を再開する。

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