5 総意
片耳にイヤホンを装着した五人の男女――日向捕まえ隊が、じりじりと階段を登る。
先頭、階段中央を春子が歩き、一歩下がって祐理と沙弥香が左右に陣取る。
さらに琢磨と誠司が続くが、男子二人は階段の手すり側で待機した。日向の逃走に備えるためだ。この位置なら、日向が急にドアから飛び出し、飛び降りてきても封じることができる。
女子三人が踊り場に着く。
その時だった。
ダン、ダンッ、と。上方から何かが聞こえてきた。
皆の視線が天井に吸い寄せられる。
この上に誰かがいる――。
そう確信するほどの、強烈な足踏み。
「油断するな。ドアからの突撃に警戒しろ」
春子ら三人は後半の階段にも足をかけ、一歩ずつ上がっていく。
その間も天井からの足音は止まない。
どころか激しさを増していた。
あえて言うなら、断続的なスタンプではなく持続的なステップ。しかし足踏みのパワーは和らいでいない。
そんな日常生活ではまず聞くことのないテンポと力強さに、場の緊張は急激に高まっていた。
「何なんや一体……」
軽率な私語も誠司のそれ以外には漏れていなかったが、「おい」イヤホン越しに京介が言う。
「なんか飛んだぞ」
その発言と同時に、足踏みも止んだ。
「特別棟の方向だ。飛距離がやべえ、森に一直――」
「カメラ」
「あん?」
「カメラだった。一キロくらいありそう」
淡々とした真智の感想が聞こえてくる。
真智の動体視力が並外れていることは春子以外には共有されている。
異論をはさまない様子を感じ取り、春子も信じることにした。
キログラム級のカメラとなれば、本格的な代物かもしれない。
そんな物が敷地の外に、それも重量にそぐわぬ飛距離で投げ捨てられたという事実。
否応なしに思考が始まるところだったが、
「検討は後だ。警戒を怠るな」
春子が自ら
そのまま進軍を続け、屋上に至るドア前まで着いた。
「佐久間。成瀬」
春子の指示に従い、前半の階段で待機していた二人もドア前まで駆けつける。五人全員でドア前を取り囲む配置だ。
「彼がどこに潜んでいるかはわからないが、ここさえ固めておけば抜けられることはない。陣形を乱すな」
春子がカードキーをかざす。ガチャッとアナログな開錠音。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりと開けていく。
数秒以上をかけて開け切ると、行事の後とは思えない、明るくまばゆい光が差し込んできた。
春子はまたも数秒以上を費やして、ゆっくりと屋上に出た。
用心を体現したかのような落ち着きぶりだ。
「彼がいつ仕掛けてくるかもわからない。一秒たりとも気を抜くな」
春子のハンドサインにより一人ずつドアを抜け、分と待たずに全員が屋上に降り立つ。
最後の祐理が後ろ手にドアを閉めると、春子は頷き、数歩ほど前に出た。
正面には出入口と、それを固める四人の仲間が見えている――そんな位置取りになる。
「佐久間と成瀬は私の後方で守備にあたってくれ。特別棟側へ待避されるのを防いでもらう」
男子二人が移動を始める。無駄口は一言も出ない。
「新井と一ノ瀬は引き続きそこで出入口を守ってくれ」
「うんっ」
「わかったわ」
沙弥香と祐理の返事を受けた後、春子は二チームのちょうど中間地点に陣取った。
「ひとまず布陣は整った。ここからは臨機応変に動くことになるだろう」
春高の校舎は、上空から見るとHの字から横棒をやや下に下げたような形をしている。
向きも上側がちょうど北に対応しており、左側つまりは西側の縦棒が特別棟、東側の縦棒が一般棟、そして間の横棒が渡り廊下という構造になっている。
今現在、春子らが布陣しているのは、一般棟と渡り廊下の交差点部分だ。
一般棟の屋上は二メートルほどのフェンスで囲まれ、唯一の出入口は、祐理と沙弥香が守備する建物のドアのみ。日向はこの建物の上に潜んでいると思われる。
フェンスは渡り廊下部分までを漏れなく囲んでいるが、特別棟側の屋上には何も無い。踏み外せば即、落下してしまう。
そもそも特別棟側には出入口が無く、渡り廊下の先、行き止まりのフェンスにもドアらしき機構は無かった。生徒に知る由はないが、出入りさえも想定されていない場所なのだ。
「彼の侵入経路だが、特別棟から外壁を伝ってきた。そうだな?」
「たぶんね。鍵を掛け忘れてなければ、だけど」
「施錠はセキュリティで一括管理されている。忘れることはない」
実は日向が持つガシア――学校侵入アプリにより屋上も開錠できるのだが、無論ここにいる者が知るはずもない。
「ともかくだ。あそこに潜んでいる彼が逃走を開始した時も、特別棟側を狙ってくる可能性が高いと言える」
春子は屋上出入口の建物、そのてっぺんを指差した。人影は見えない。
「頭ええな春日さん。それでこの配置なんやな」
この中では最もパルクールの理解が浅い誠司だが、既にその事例は共有してもらっている。外壁から出入りできることは疑っていない。
「でも渡会君、見えへんで?」
「誠司。もうちょっと下がってみようか」
突如割り込んだ琢磨は誠司と連携して、二人横並びの陣形を崩さず、目線も固定しつつ下がっていく。
程なくして二人の背中がフェンスに当たった。
「春日さん、ここからでも見えないよ」
「いやタクマン。なんか
誠司がぴょんぴょん跳躍しながら言う。
「とすると、日向ちゃんがいるとしたらオレ達の手前側――沙弥香や一ノ瀬さんの真上あたりってことになるのかな」
琢磨が持ち場に戻ろうとする一方、
「ほな、フェンス登って覗いてみよか」
誠司はガシャンと手足を引っかけたが、「待て」春子の声が刺さった。
「迂闊に隙を晒すな。佐久間一人では止められんぞ。君達二人で阻むことに意味があるんだ」
誠司はきびきびと琢磨の横に戻ったが、不満気な表情は携えたままだ。
「……」
誰かが潜んでいるようには思えず、何も無いようにしか見えない虚空をしばし眺めていた誠司だったが、
「……なあ春日さん。ホンマにおるんか?」
疑問を代弁するかのように尋ねた。
「いる」
「そんな気配ないで? 思い過ごしとちゃうんか?」
「たしかにそうね」
沙弥香も便乗する。
「物音や息づかいが一切聞こえないわよ。ね、祐理」
「……」
「祐理?」
真剣な表情を崩さない祐理に、普段の気さくな雰囲気はまるで感じられない。その珍しさに全員の視線が向いた。
「わたしは春子ちゃんに賛成。日向は身を潜めるのも上手だもん」
――わわっ!? なんでいるのっ!? いつからいたの!?
――二時間くらいだ。ばれずに乗り切れるか遊んでた。
日向との思い出が蘇る。
施設の大浴場を掃除していた、ある日のこと。当番のペアが都合で遅れるということで、祐理は一人掃除に勤しんでいた。
祐理は全く気付けなかったが、日向は途中からこっそり乱入していたらしい。
結局、祐理が気付いたのは、掃除の終盤――ペアが到着してからのことだ。
つまり二人分の視野という視覚的に隠れ様のない状況になったからこそ気付けたのだった。
――何そんなに驚いてんだよ。
――べっつに。ひなたのばーか。
日向はあっけらかんとしていたが、祐理の心臓は激しく脈打っていた。
その日は眠れなかったことも含め、よく覚えている。
身体。心肺。忍耐。
すべてにおいて他を凌駕する日向であれば、人並以上に気配を消すことなど難しくないだろう。当時でさえもそうだったのだ。
なら、今は。
「――春子ちゃんも覚えがあるの?」
「ある。つい最近のことだ」
即答した春子が苦々しく顔を歪める。負の感情を知らなそうな、端整で優雅な顔立ちが、その気品を保ったまま凄みを同居させている。
嫌悪や不愉快という次元ではない。沙弥香がぎょっとするほどだった。
「君達にも覚えがあるはず――」
「ねえ春日さん」
強引に割り込んできたのは琢磨だ。
「……なんだ?」
「オレ達は体育祭の余興としてこれを楽しんでいる」
琢磨が春子以外を見回すが、誰も頷かない。というより、春子のあまりの雰囲気を前に、頷ける雰囲気ではない。
琢磨は「多かれ少なかれね」と訂正した上で続けた。
「でも春日さん一人だけ違うんだよね。ガチで遊んでるというより、そもそも遊びだと思ってないでしょ?」
「当然だ。くだらないこと言ってないで集中しろ」
「人違いだと思うよ。あの時、彼にはアリバイがあった」
「タクマン、何の話や?」
誠司の問いには応えず、祐理と沙弥香の視線もスルーして、好戦的なお嬢様の背中を睨む琢磨。
「その件で用があるなら、また後日、個人的に尋ねれば良いんじゃないかな」
「そうはいかない」
「……」
琢磨は言葉に詰まり、悔しそうに唇を噛んだ。
「さっきも聞いただろう? 彼は私達が接近してから行動を始めた。わざわざ足音を立ててまで、カメラを投げ捨てたんだ」
疑念という名のもやに包まれているかのように、場が沈黙する。
校舎やグラウンドの喧噪も無いに等しく、敷地の外から発されるセミの泣き声さえも遠く感じられた。
「よほど余裕が無かったと見える。撤収作業は未完了だろう。ならば、それに繋がる証拠が、まだそこにある可能性は十分にある」
「わたしもそう思う。今ここで捕まえるべきだよ。証拠を隠滅される前に」
「一ノ瀬さん……」
止まらない春子と祐理に対し、琢磨のどこかすがるような呟きが虚しく響く。
「だから二人とも何の話や? なぁタクマン?」
琢磨が誠司から顔を背けた。「なんやそれ」誠司が苛立ちを表出させる。
「まだわからないのか成瀬」
「わからんから聞いてんのや!」
誠司が叫ぶ。
しかし春子は少しも怯むことなく、それを口にした。
「盗撮だ」
「とうさつ? …………盗撮、やと?」
誠司の表情が休止する。
何かに思い至ったかのように。
すべての点が繋がったかのように。
「体育祭の合間、彼はここに足を運んではグラウンドの女子を盗撮していたのだろう。さっき捨てたカメラを使ってな」
静かなる闘志を散らかす春子。
目を見開き、ぶるぶると震える誠司。
悲しそうに目を伏せ、しかしそれを疑っていない祐理に、信じていた何かに裏切られたかのように唖然とする沙弥香――
「日向ちゃん……」
琢磨はすべてを諦めたように天を仰いだ。
「なぜ彼がコソコソ行動していたか。盗撮のためだと考えたら筋が通る。君達にも心当たりがあるんじゃないのか?」
皆が建物のてっぺんに目を向ける。耳を澄ませる。
人影は相変わらず見えない。何かが聞こえてくる気配もない。
「はぁ……どうしてこうなったんだろうな」
琢磨は誰にも聞こえない声量で呟いた後、嘆息すると、何かを決心したかのように拳を握る。
「もう一度言うぞ。彼には盗撮犯の疑いがある。幸いにも今、彼はその証拠を処分できないでいる可能性が高い。今捕まえるべきなんだ」
「春日さん」
琢磨は一際大きな声で、もう一度割り込んだ。
「間違ってたらどうするんだ? 人の尊厳を踏みにじるにも程がある。決して軽くはない」
祐理と沙弥香の瞳が揺らいだのが見えた。
隣の友人の、今にも爆発しそうな震えが和らいだのも見えた。
しかし――
「しつこいな君も」
半分だけ振り返る春子の、その横顔は何ら動じていない。
「そもそも立入禁止であるはずのここに居る時点で論外だ。少なくともこの点は糾弾されなくてはならない。見逃す道理は無い」
春子が建物側に向き直り、潜んでいるであろう彼に聞かせるように言葉を紡ぐ。
「無論、君の言うことも一理ある。ならこうしよう。もし君の言うとおりだったら――私達の疑いが真実でなかったならば、彼には賠償金を支払う。無論、この件で進路が不利にならないよう春日家の威信をもって取り計らおう」
普段の春子は、家柄の権力を盾にするような人間ではない。
もはや彼女が絶対の確信と敵意を持っているのは明らかだった。
「わかったら集中しろ。先月の悲劇を思い出せ。あのようなことは、二度とあってはならない」
その発言は、文化祭事件の犯人が日向であると言っているに等しかった。
もっとも当時の日向は女装していたし、春子以外は盗撮の現場を見たわけではないから、一見すると結びつけるのは難しい。
しかし、この場に居合わせている者は、多かれ少なかれ日向の片鱗に触れている。
直感が、連想が、そうであるに違いないと結びつけてしまう。
春子の感情も伝搬していく。
祐理にも、沙弥香にも、誠司にも――。
「……居心地良かったんだけどな。仕方ないね」
もう一度、琢磨は小さく呟くと。
ぱんと両手で頬を叩き、場の総意を受け入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます