第6章 体育祭当日 ~中編~

1 籠城

 正午を過ぎた春高の屋上には、透き通るような青空から目映まばゆい熱線が降り注いでいた。


 ごとっと何かが置かれる。

 瓶だ。特殊な形状をしている。

 特定の液体を入れることのみに特化し、臭いの逆流を防ぐよう設計されたもの――尿瓶しびんだ。


 日向は相変わらず屋上の、出入口の建物――その天井に居座っていた。

 既に籠城を決め込んでいる。この後、十五時の障害物競走まで出番は無いが、昼休憩中は校舎の出入りが解放され、生徒の往来も増えてしまう。屋上の出入りも難しくなるだろう。

 ならば最初から籠城してしまおう、というのが日向の予定された行動だった。


「……寝るか」


 隅にはテントが設置してある。

 といっても目立つほどの高さはない。立体寝袋、あるいは携帯カプセルホテルとでも呼べそうな形状だ。

 傍らにはバッテリーが稼働しており、そのケーブルはテントと繋がれていた。


「うお、効いてるな」


 入口を開くと、よく冷えた空気が流れ込んできた。


 日向は中に入り、しばし仮眠を取る。


 戦略的昼寝パワーナップ

 昼休憩中に行う数十分の昼寝である。

 単なる休憩とは桁違いのリフレッシュ効果があり、ライフハックとしても知られているが、その本質は注意資源を回復させることにあった。


 注意資源とは心理学の用語で、認知を行うのに必要な資源リソースとされている。勉強や運動はもちろん、ただの雑談やネットサーフィンなどあらゆる行動において、HPのように消耗していく。

 厄介なことに、睡眠しない限り回復することはない。


 それでも現代人であれば一日は保つが、日向はここまで反射神経や空間認識、観察や判断と酷使しており、枯渇気味だった。

 日向は心理学には詳しくないが、このような性質を経験的に知っており、こうして今日の行動に織り込んでいるのだった。


 間もなく日向は入眠した。


 二十分もしないうちに目を覚ます。

 テントを片付け、携帯していた栄養みそ汁――ただし冷や汁バージョンである――を食べる。


「次はダンスか。誰を撮るべきか」


 昼休憩を終えるとダンスがあり、その後は二人三脚、人脈対抗リレー、大縄飛びと続く。

 大縄跳び以外は男女選抜であり、女子のレベルが高いとは限らないのが残念だが、日向に加減の意思は無い。どころか、その場でベストな被写体を即座に探す自信さえあった。


「いや、ある程度はばらつかせた方が得策か?」


 強いて懸念を言うなら、作品に偏りが生じないよう被写体の傾向を分散させるかどうかに迷っていた。


「インフレは避けたいんだがな……」


 容姿や発育の良さといった人気パラメーターの高い女子を撮ればいい、あるいは幼さやお嬢様といった人気属性を持つ女子を撮ればいいかというと、そうも言えない。

 インフレという罠がある。


 インフレとは、レベルの高い――つまりは非常に盗撮対象ターゲットを提供し続けることにより、視聴者がその水準に慣れきってしまう現象を指す。

 こうなってしまったが最後、待ち受けるのはマンネリと衰退だ。

 レベルの低い動画では当然満たされず、高い動画でも満たされず、と成す術が無くなり、ユーザーが離れていってしまう。


 インフレから挽回するのは難しいとされている。

 それゆえ盗撮動画のビジネスでは、あえてハイレベルでない動画も混ぜることで、インフラを未然に防ぐ戦略さえある。


 インフレは通常、滅多に起きないことなのだが、日向の裏の顔――撮り師においてはそうもいかなかった。


 こんな動画を撮れるのは、だけなのだから。


 供給の塩梅はに――日向一人の采配次第なのだから。


「たとえば胸の大きさ、形、揺れ方、揺れ幅、あるいは下着の透け具合といったオプションを考慮して、なるべく多数の組み合わせを撮れば、被写体が不細工カスでもストライクゾーンは広げられる……」


 ここに来て、深く思考に沈み込む日向だったが。


「……」


 一瞬、十五時以降の立ち回りが脳裏にちらついた。


 既に祐理と沙弥香から堂々と逃走してしまっている。その途上、校舎四階のに見られていたことも知っている。


 穏便に済まないのは明らかだ。小手先の言い訳も通用しまい。

 かといって、今さら後戻りなどできやしない。元よりその覚悟だ。


「まあ、来てもわかるが」


 幸いにもここ、屋上の出入口は一つのみ。

 日向が今過ごしている出入口の建物――この中からドアを開錠して入ってくる他はない。


 あえて足音と開閉音を潜ませる者もいなければ、日向のように壁を伝ってくる別のルートを使う者もいないだろう。

 そんなことができる人間も数えるほどしかいないし、そんなことをする理由も無いからだ。


 ならば気付ける。パワーナップの最中でも気付けるだろう。


「そもそも来るはずもない」


 佐藤が構築したミラーリングサーバー内のファイルも熟読済だ。

 それによると、本日生徒や教職員あるいは業者がここに来る予定は、一切無い。


「ありえるとすれば……」


 屋上に人影がある、と誰かが気付くなり疑うなりした場合か。

 正当な理由があれば、春高側は屋上の開示要求に応じるだろう。


「祐理が先生に訴えるか。春子に訴えるか。あるいは施設長パパも絡んでくるか――」


 可能性は色々と考えられるが、それこそ考えても仕方がない。


「さて」


 日向はその場の整頓にあたる。放置していたゴミも含め、すべての荷物を隅に集めた。

 その様子はまるで、この場で動き回ることを想定しているかのようだった。






 午後2時48分。

 後半の目玉競技――女子全員参加の大縄飛びを撮り終えた日向は迅速に汗を処理し、補給と着替えを済ませてから、慌ただしく屋上を後にした。


 ルートは変わらない。屋上を特別棟の西端まで移動し、そこから壁を伝って下りていく。

 虫が這うような滑らかさで、間もなく地面に着地。


 人の気配は無い。

 当然だ。視覚的にも音量的にも誰もいなかったのだから。だからこそ日向は目撃されるリスクを考えず、ただただ素早く移動するだけで済んでいた。のだが。


「やあ」


 物陰から姿を現したのは、新太だ。


「……何の用ですか」

「話がしたくてね。すぐ終わるよ」


 言い分が通じないのは明らかだった。


 ここ特別棟の西側は、思いつきで来れる場所ではない。厳しく立入を禁じられているわけではないが、生徒や教職員の行動圏からは外れている。加えて南北の出入口付近には水道や変電といった設備が敷設ふせつされ、物置小屋もあり、用務員しか使わないような荷物や道具も集まっている。


 言わば心理的な迷彩が形成されており、明確な意図が無ければ足を踏み入れようとはまず考えない。


「後にしてもらえませんか。どうせ今日、泊まっていくんでしょう?」

「ああ。楽しみにしているよ」


 どうやら京介のみならず、新太とパルクールすることも確定事項のようだ。

 日向は嘆息してみせたが、「単刀直入に聞こう」新太は止まらない。


「ここで何をしているんだい?」

「サボってるだけです」

「あんなリスクを負ってまで?」


 新太が校舎を見上げた。


「待ち伏せとは人が悪いですね」


 息を潜めて待ち伏せされていたのでは、さすがの日向でも気付けない。

 その新太はというと、日向が屋上に出入りしていることにも間違いなく気付いている。


「なぜここがわかったんですか?」


 日向にできることは、ここに至るまでのプロセスを問うことくらいだった。


「消去法だよ。この敷地の建造物や地形の構造と、校舎には入れないという制約、あとは人の出入りとか流れかな。このあたりを踏まえれば、一人で籠もれる場所はここしかない」

「……さすがですね」

「良い場所じゃないか」


 周辺環境に感心を示す口調だが、目線は日向に固定されている。


「学校生活でも重宝してるのかな? あっちと含めて」


 もう一度新太が見上げた。


「むしろあっちがメインですよ」

「だろうね」


 見上げたまま静止する新太。

 その横顔は何の情報ももたらさない。しかし、その立ち姿は銅像のように堅固だった。

 それでありながら、自宅のベッドでくつろいでいるかのようなリラックスが見て取れる。


「……いや、逃げませんって」

「別に挑発してるつもりはないよ」

超集中ゾーンに入ったまま言われても説得力ないです」

「今解いたけどね」


 新太がゆっくりと歩き出す。日向ではなく校舎に。

 そのままもたれると、両手を広げた。


「こんな状況で競っても楽しくないだろ?」

「ですね」


 戦意は無いと受け取り、日向は新太の前を通り過ぎる。

 数歩ほど離れたところで、


「で、教えてくれないのかい?」


 スッと何かから離れる音も重なった。もたれるのをやめたのだ。


「教えられないです」


 日向は背中を向けたまま答える。


 もはや秘密の存在は否定できない。

 しかし教えるわけにはいかないし、視線を合わせて心理戦に持ち込まれるのも避けたかった。


「僕にも?」

「あなたにも、です」

「まあ、いいけどね」


 どんっと筋肉に任せてもたれる新太。


「僕はね、君が欲しいんだ」

「……」


 言葉の意味がわからず、続きを待つ。

 すぐに飛んできた。


「君のパルクールをもっと見たい。使いたい。生かしたい。必要なら便宜も図るし、支援も惜しまないし、誘惑や誘導だってする。現状は放任が一番だからそうしてるけどね」

「俺のこと好きすぎるでしょ。おかげで沙弥香がウザいんですが」

「日向君。もし君が僕の意図から外れようとするのなら、僕は遠慮無く介入する」


 新太の意図。

 妹の話題を無視するほどの執着。


 それが何であるか、日向にはおおよそわかっていた。

 もしかすると日向の人生にもプラスになるかもしれない。撮り師という生き方以上に。

 魅力的なチャンスと言えた。


 むしろ、乗るしかないようにも思える。

 新太が日向のどこまでを知っているかは不明だが、少なくとも不審な秘密を隠していることは知られてしまった。その上で、新太は手段を選ばないとまで言っているのだ。


「……そうですか」


 ただ、それでも今は譲れない。

 今は――撮り師の一大イベント。今後の発展を左右しかねない、人生の懸かった大勝負の真っ最中なのだ。


 新太は、障害物でしかない。


「アドバイスありがとうございます」


 幸いにも向こうから引いてくれている。

 これ以上の追及はやめて、日向はその場をあとにした。






 午後三時。男子全員参加の競技『障害物競走』が幕を開けた。


 コースは六レーンあり、各レーンには四個のブロックと一枚の壁、そして二つに分かれた分岐――飛び移ることを前提とした離れた足場のルートと細い足場を渡っていくルートが設置されている。

 見る者が見ればパルクール用のキットだとわかるだろう。


 要するにヴォルト四回、クライムアップ一回、登った後の飛び降りドロップが一回、そして最後にプレシジョンで一気に飛ぶかバランスでちまちま渡るかを選ぶという、そんな設計になっていた。


 戦況はA組の圧勝だった。

 終盤時点で最下位と周回遅れの差がついており、二位以下とも目に見えて離れている。

 経験者勢のおかげだろう。祐理と沙弥香による指導はもちろん、日向もチャットサービス『スタック』上で的確なアドバイスを行ってきた。

 無論、日向にとっては怪しまれないための貢献パフォーマンスでしかないのだが。


「渡会!」


 アンカーの日向に、バトン代わりの帽子が渡される。


「任せろ」


 最後の仕事とばかりに、日向は存在感を押し出す。

 障害物の存在を感じさせない継ぎ目無きシームレスな走りを見せつけ、会場とチームを沸かせた。

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