4 修羅

 椅子取りゲームでわざと負け、隙を突いて待機場所からも離脱した日向は、校舎北側――用具や機材の置き場と化しているエリアに向かった。

 来客や警備員に悟られる真似はしない。そもそも物置の雰囲気だけあって人気ひとけ自体が少なかった。

 その分、スタッフの出入りはアットランダムだが、観察に長けた日向にとってはだけで済む分、かえってありがたい。


 難なく物置エリアを抜け、特別棟の西側に着いた。


 校舎を見上げると、排水パイプや外壁の凹凸、表面の僅かな傷や突起が見える。何度も登った壁だ。目を閉じても登れるほどに慣れきっている。


 日向は既に飛び出していた。

 虫のような、あるいはエレベーターのような滑らかさで上昇していき――間もなく屋上に到達。


 直後、身を屈めてモンキーウォークの姿勢を取り、犬猫のように四足で走った。


 特別棟の天井を抜け、二メートルほどのフェンスも越える。

 それは名前を言えばゲートヴォルト――身長より高いフェンスや壁を比較的簡単に越えられる飛び越え技ヴォルトであったが、熟練者が見てもそうだと気付かないほどに最適化されていた。

 特にスピードが凄まじく、通常は数秒を要するところを、日向は約一秒で越えている。


 渡り廊下の天井部分も通り過ぎると、ようやく一般棟の屋上に。


 日向はさらに頂きを目指す。出入口の建物に壁蹴りウォールランを繰り出す。

 階段も無ければ梯子はしごも無く、そもそも登ること自体が想定されていない、おおよそ身長の倍ほどの壁だが、日向は手もつかずにノーハンドで登った。


 建物の天頂部は、膝の高さほどのくぼみになっていた。

 日向にとってはお馴染みの活動場所であり、春高の敷地内で最も高い場所だ。


 グラウンドを俯瞰でき、かつ屈めば完全に姿を隠すことができる。

 音を潜めれば、たとえ屋上に誰かが来たとしても、気付かれることなくやり過ごせる――。

 ここはグラウンドをズームで盗撮するにはこれ以上とないベストポジションであった。


 今は足場がごちゃごちゃとしている。

 日向が事前に持参していた荷物や食料だ。


「さてと」


 日向は体操服を脱ぎ、下着も脱いだ。


 配置していたリュックからゼリーを取り出し、補給しつつ、同様に配置していた高倍率ズームカメラを手に取り、ウォームアップを始める。

 学校とは思えない喧噪に惑わされることもなく、うっかり立ち上がって目撃されることもなく、屈んだまま淡々と設定を済ませ、動画撮影モードに移ると――


 びゅんっと。

 カメラを天に掲げた。


 モニターに映っていたのは、椅子を取り合っている光景。


「くふっ、完璧じゃないか……」


 これからのを考えると、いてもたってもいられなくなる。


 椅子取りゲームの次は、最初の目玉にして難所――女子全員による玉入れ競争が待っている。その後、男女任意参加の借り人競争が続く。


 午前のめぼしいチャンスは、この二競技だけだ。

 時間にすれば四十分だが、借り人競争の次は全員参加のバケツリレー。当然ながら日向もそれまでに戻らねばならない。無論、校舎から出るところを見られるわけにもいかない。


 だからといって、戻る時間を確保しすぎるのも愚の骨頂だ。それだけ撮影時間が減ってしまう。


 そもそも借り人競争はともかく、玉入れは――リレーよりもはるかに高密度で予測しづらい楽園パラダイスの盗撮は、群を抜いて難しい。


「いいよ、いい。いいねぇ……」


 にたりと口角をつり上げながら、日向は掲げたカメラをびゅんっ、びゅんっと動かす。

 その度にモニターに映る光景が変わり、漏れなく椅子取りゲームの円が捉えられていた。






 ゼリーの空容器が、かさっと地面に落ちる。これで三個目だ。

 一方、端にはそれ以上――十を軽く超える容器とペットボトル飲料がずらりと並んでいる。

 足元には水溜まりのような汗溜まりが形成され、日向が裸体を浸していた。


 全身が彫刻のように静止している。

 かと思えば、スローモーションのようにレンズの角度が微動する。

 モニターに映る盗撮対象ターゲットは変わらない。どころか盗撮部位メインディッシュも不変で、ある一部だけが切り取られ続けている。


 控えめな胸部だった。

 体操服越しでさえも起伏に乏しく、不適切なブラジャーという無知や見栄とも無縁。揺れるという概念も知らないような、貧相な膨らみ。


 しかし、モニターが映す光景は違っていた。

 至近距離で凝視しているかのような、そんなリアルな質感のもとに、たしかに揺れていた。


 残酷なまでに執拗な追跡だったが、程なくして崩れる。


「はぁ、はぁ……」


 日向の乱れた息が混ざる。興奮ではなく極度の疲労だった。

 それでも日向はズームをアップにしつつ、被写体を追い続ける。


 並行して、片手でペットボトルを掴み、呼吸の隙を突いて流し込む。

 次いでゼリーを吸引。


 モニターには、被写体の顔が映っていた。

 それは日向を好いているはずの、一人の女子だった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 激しく切らした息を抑えつつ、日向は顔を上げ、眼下を覗き込む。

 無論、グラウンドの群衆が屋上に目をやる状況でないと読み取った上での行動だ。


 血眼だと自覚できるほどの集中をもって、日向は楽園パラダイスを読み流す――次のターゲットが見つかった。

 びゅんっとカメラを高速で動かしつつ、自身も屈む。ぶわっと風の音が耳を切り裂いた。


 咥えた容器を落とし、被写体へのズームを開始する。


 数瞬だけ顔が見えた。

 それは日向を好いたばかりの、一人の女子だった。


 モニターが胸部を捉える。

 先ほどとは打って変わって、豊かな膨らみだ。よく知る同居人や、なぜか今日来ていた大和撫子ほどではないが、平均よりは明らかに大きい。

 彼女は体育祭におけるエースである。ゆえに働きも人一倍で、これはすなわち、揺れの頻度と深度も桁違いだと言えた。


 早速、揺れ始めたのを、日向は漏れなく捉える。

 自動追尾ホーミングの異名にふさわしい、無慈悲な正確性が存分に発揮された。


 その揺れは、一つ前のさざ波と比べれば荒波と言える規模だった。

 しかし、それでも鑑賞者が期待する高波には至らない。


 下着のせいだろう。

 沙弥香は優れた女性トレーサーでもあり、見た目に気を遣う女子高生でもある。そのあたりの事情は詳しいはずで、こんな時はスポーツモードに決まっている。


 それでも、荒波ではあった。

 肉眼ではこうもいかないはずだ。これは高倍率でズームし、追尾し続ける日向の業だからこそ観測できる世界である。


 仮にこの場に新太がいたなら。

 佐藤がいたなら、ジンがいたとするなら。

 皆一様に興味関心を超越し、嫉妬や羨望も越えて、畏怖を抱いたことだろう。


 人力を超越していると。

 怪物であると。






「ふー……」


 日向は仰向けに倒れていた。

 そばにはカメラが転がっている。さっき落としたばかりだ。耐衝撃性を備えているため、この程度では壊れない。「佐藤さん様様さまさまだな」日向が呟いた。


 目を閉じて、グラウンドの様子を聴く。

 結果、借り人競争はまだ半分以上残っているとわかる。


「……はしゃぎすぎたな」


 ただでさえ数少ない撮影チャンスなのだ。戻る時間を差し引いても、まだ撮る時間はある。

 しかし身体が動かない。


「いや、動くだけなら問題ないが」


 日向は半身を起こし、カメラを手に取る。

 記録カードを取り出して靴の内側――これも佐藤につくってもらった機構である――に収納した後、配置していた替えの下着と体操服を着た。


 しばし休憩した後。

 散らかした拠点はそのままに、日向は撤収した。

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