5 逃走
午前十一時前。
グラウンドにはじりじりと皮膚を焼くような日光が相も変わらず降り注ぎ、呼応するかのように、わいわいと喧噪が溢れていた。
来客も明らかに増えており、満員に近いスタンドも散見される。
残り四分というところで日向は屋上から戻ってきた。
次の競技――バケツリレーの準備は完了しつつある。外部スタッフの仕事は迅速で、合間の
「遅えよ渡会。何してんだよ」
「作戦振り返ってたんだけど!? 大丈夫よね?」
チームメンバーに取り囲まれ、集中砲火を受ける日向。
気合い入ってるなぁと胸中で呑気な感想を抱きつつ、
「ああ、すまん」
お腹をさする演技をしながら詫びを入れた。
「トイレ行ってた。緊張してるんだよ」
「散々偉そうにしてたくせに」
「結果出してんだからいいだろ」
「椅子取りゲームはクソだったじゃんか」
「あれは仕方ないだろ。二対一で捨て身で来られたら勝てねえよ」
「いいから男子は黙って! 最終確認したいんだけど渡会君、役割忘れてないよね?」
日向は自分の役割を淀みなく話した。
話し終えたところで、それは起きた。
「日向」
聞き慣れた女声とともに、ぐいっと物理的に割り込んできたのは――祐理。
その声音はいつものテンションではなく、その表情にはいつもの笑みが浮かんでいない。
「どこ行ってたの?」
「……トイレだが」
「うそ」
「マジだよ。漏れそうだったんだ」
「抜け出してまで?」
こっそり抜けたつもりだが、祐理は気付いていたようだ。
抜ける最中から見られたのか、それとも抜けた後でいないことに気付かれたのか。
「証拠は?」
「んなものあるわけねえだろ」
チームメンバーの視線も刺さっている。
仕切っていた女子は何か言おうとしていたが、日向分の確認は既に終えたからか、諦めて無視することにしたようだ。残りのメンバーと話し始めた。
「あるはずないよね。見なかったもん」
「それは俺の台詞だ。並び列にお前はいなかったぞ」
日向はとっさに嘘をついた。
仮設トイレに並び列が形成されることは知っているが、祐理がトイレを使ったかどうかは知らない。
「え、そんなに人多いの?」
「来てねえじゃねえか……」
どうやら功を奏したようだ、と日向は内心ほっとする。
「いいから配置につけ」
「……」
祐理は顔をしかめつつ日向を睨んだ後、渋々と引き下がっていった。
(これはマジのやつだな。いよいよ怪しくなってきたか……)
「渡会君、早く!」
「ああ」
間もなくバケツリレーが始める。
整列し、放送の説明アナウンスを聞き流しながら、日向は
やかましいが普段は空気を読む祐理が、打ち合わせ中の他チームに割り込んできたのだ。
祐理の追及は至って真剣――どころか特攻の意志さえ感じさせる。
(なりふり構ってられない、というやつか)
よくよく考えてみれば無理もない話だった。
祐理は前々から日向を不審に思っている。そもそも好意も抱いている。
そんな中、日向は今日、こうして堂々と隠密行動をしているのだ。火に油を注ぐようなものである。
それでも今日は体育祭。年に一度の一大イベントであるから、追及の優先度が下がることを期待していたが、そう甘くもないらしい。
(……面白い。やれるならやってみろよ)
全校生徒の流れに合わせ、日向も配置につく。
バケツリレーは男女全員が参加する競技である。
15人で1つのレーン――チームをつくり、これが1チーム計8レーン、全チームで計48レーンほど並ぶ。
レーンは24行2列で配置され、東西方向に水平に伸びる。中央側に空の水槽が、他端側に水に満たされた水槽が並び、各レーンとも中央に向けて、繰り返しバケツで水をリレーしていく形になる。
制限時間内に多くの水量を運んだチームが勝利となり、上位チームが属する組には高得点が付与される。
日向のレーンは南西側、下から二番目に位置していた。
祐理のレーンは南東側、下から一番目。
(急いで退場しないと出入口を塞がれそうか。かといって北や東に行くのは不自然だし……)
「これよりバケツリレーを始めます! 10、9、8――」
スタートのカウントダウンが始まったのを聞いて、日向は思考をやめた。
大勢の敵をつくらないためにも、ここは結果を出さなくてはならない。
日向に課された役割はラストマン――水槽に水を入れた後、空になったバケツを投げて戻す工程だ。有り体に言って最重要ポジションである。
しかも日向は持ち前の身体能力を生かすべく、他メンバーよりも移動距離が長い。
「3、2,1――」
開始のホイッスルが鳴り響く。
わあっと会場が揺れる中、ばしゃっとバケツに水を汲む音や移動する足音が重なり、
日向も気合いを入れた。
バケツリレーが終了する。
日向は48チーム中4位の好成績を収めた。
そもそもA組チームは「足を引っ張るレーンをつくらない」作戦であり、戦力を均等に分散していたため1位は狙いようがないのだが、それでも十分に善戦と言え、特に日向自身の貢献は会場を沸かすほどだった。
もう少し控えめにしたかった日向だが、これで文句は言われまい。
事実、A組メンバー達は上機嫌で日向を労い、褒めた。
そんな優しい言葉を背中に、日向は急ぎ足で出入口を通過。
タオルコーナーに群がる生徒の壁に押し入り、タオルを手に入れ、さっと全身の汗を拭ってから回収ボックスに投げた。箱に入らなかったが、見なかったことにする。
続いてフリードリンクコーナーに立ち寄り、スポーツドリンクの小さなペットボトルを取る。
すぐに飲み干して、今度は投げることなくボックスに近寄って入れた。「さてと」目的地に向かおうとしたところで、
「ひーなたっ。一緒に見よ?」
見るまでもないが、一応見てみると、タオルを首に掛けペットボトルを手にした祐理の姿が。
汗を拭いながらも、その視線は日向を離さない。
「悪い。トイレ行くわ」
「わたしも行く」
日向が脳内で
振り返ると案の定、沙弥香だ。
「アタシも付き添うわ」
「わたしが誘ったの」
祐理の挑発的な物言いには気付かないふりをして、
「……志乃はいないのか?」
「バケツリレーで
救護テントではなく休憩用テントという意味である。北側の出入口から出たのだろう。
「お前らは平気なのか? 俺は鍛えてるから平気だが」
「平気よ。さっさと行きましょ」
「……ああ」
祐理が腕を取ろうとしてきたが、向こうから引っ込めた。
さすがにこの人混みの前では自重するらしい。しかし距離感はいつもより若干きつく、体もほんの少しだけ強張っている。
(臨戦態勢だな……)
他方には沙弥香。祐理をはさむのではなく、日向をはさむという構図。
いわゆる両手に花状態で、グラウンドの南側を西に向かって歩いた。
まともに直進できないほどの人口密度だ。賑やかな駅前を彷彿とさせる。
日傘を差す女性も多く、視界が存外に悪い。しかし、逆を言えば目立ちにくいとも言える。
「人多いな……。こっち行こうぜ」
混雑を避けて左手――少し南下する。
敷地の端にまでは及べない。カラーコーンとポールで閉鎖されているからだ。
その先には駐車場。見慣れた教職員の、色とりどりな車が駐められており、
日向はポールの真横を陣取ろうとしたが、すっと割り込むように沙弥香が入ってきた。
その意図を視線で問うてみたが、沙弥香は素知らぬ様子で「にしても暑いわね」などと言い出す。
「沙弥香ちゃん、飲む?」
日向の目の前に、口がむき出しのペットボトルが差し出される。
「要らない。そのスポーツドリンク、嫌いなのよ」
「わたしと間接キスはイヤ?」
「お兄ちゃん以外は受け付けないわ」
「じゃあ日向でいいや」
それが日向の口にねじ込まれた。日向はすぐに口から離し「おい」睨むが、祐理はにししと笑い、
「ごちそうさまでーす」
そのペットボトルで飲み始めた。
「間接キスゲットだぜぃ」
「何してんだ……」
「だって日向の、レアいもん」
祐理に少しひいていると、どんと肘で小突かれる。
「爆発しろ」
「なんでだよ」
左手のポールがなくなり、校門が見えてきた。
臨時バスが到着した直後なのだろう、ぞろぞろと来客が入ってきていた。
右手には校舎がそびえ立ち、玄関には警備員。
間もなく中庭も見えてくる。仮設トイレに待ち列が伸びている光景があるはずだ。
来場者の集団が接近する。
これを避けようと祐理と沙弥香は歩行の軌道をずらした。
しかし、日向はそうしなかった。
ダッシュしていた。
◆ ◆ ◆
「は?」
想定外の行動を見て、沙弥香が思わず漏らしたが、
「沙弥香ちゃん!」
祐理は日向の意図を瞬時に悟り、叫びながらも既に走り出していた。
手にしたペットボトルは迷うことなく手放す。ぼんっと地面に落ち、盛大にこぼすも、祐理は既にその場にはいない。
日向が集団に肉薄した。
その集団――服装に統一感の無い学生、家族連れや老夫婦がようやく気付き、驚きの反応を示すが、日向のスピードは緩まず、そのまま混ざっていく。
衝突は起こらない。
熟練した裁縫職人のように縫っていき、その背中はあっという間に隠れてしまう。
図ったかのような人口密度だ。いや、このようなタイミングを狙っていたのだろう。
自分達から逃げるために。
祐理も人混みに押し入り、「すいませーん」「ごめんなさい」詫びを繰り返しながら追いかける。
ふと、視界の隅で何かが飛び出したのが見えた。
日向だ。東側に向かっている。
中庭を突っ切って北に向かうつもりはないらしい。あるいは東側からコの字の道を逆に辿るのか。
どこを目指しているのかはわからない。
わからないが、これだけは言える。
日向は何かをやろうとしているのだと。
そしてそれは自分達には知られたくないことであり。日向がここまでずっと隠してきた何か――祐理が疑っている日向の本質に、間違いなく関係のあるものに違いない。
「くぅ……」
祐理はもう一度叫ぼうとして、我慢した。
叫んでも何も変わらない。通行人についても、避けてもらうよりも自分で避けた方が速い。
ここは叫ぶのに要する労力さえも追撃に費やす場面だ。
後先を考えることも無しに、祐理は全力を出すことを決めるも。
「……」
この混雑のもとでは、まともに走ることさえできそうにない。
祐理は優れた女性トレーサーだ。
地形であれば、障害物であれば、たとえ初見であっても、ある程度なら越えられる。
しかし、それだけだ。通行人という障害物を避ける鍛錬など積んでいない。
そもそもパルクールでは通行人は扱わない。
地形や障害物といった
通行人が介入しない
にもかかわらず、あの背中は。
まるで日頃からそういう鍛錬を積んできたかのような、抜群の安定感を散らしていた。
「祐理っ!」
沙弥香の声を認識する。
遅れた沙弥香に追い付かれた?
――違う。自分がほとんど進んでいないだけだ。
勝負の舞台に立つことさえできなかったのだと自覚する。
「なんで……」
「祐理!」
膝から力が抜ける。受身を取ろうと意識し始めたところで、がっと支えられた。
「沙弥香ちゃん……」
「逃げられたのね?」
「うん」
沙弥香の視線を追う。
もう日向の姿は見当たらなかった。
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