7 伏兵

 練習を終えた日向は自宅に着いた。


 汗をたっぷりかいており、今すぐ風呂に入りたかったが、問題は無いだろうと楽観する。祐理と志乃は生活リズムから考えてとうに入っているはずだし、少し前に帰った沙弥香も、長風呂でもなければ出ている頃合いだ。


「……いや、俺が遠慮する道理はねえよな」


 前言撤回、先客の有無によらず浴室に直行する意志を日向は固めた。


 鍵を開けて家に入る。

 いつものように靴を脱ぎ、荷物を置こうとリビングに入ったところで、それが目に入った。


 テーブルには一人分の食事。まだ食べていない沙弥香の分だろう。

 その沙弥香もリビングにいたのだが、ずいぶんとラフな格好だった。


「……」


 というより裸婦に近い。

 派手なショーツを履いているだけで、上半身は生まれたままである。

 とりあえず風呂上がりなのは見てとれた。


「おい」

「何よ」

「とち狂ったか。くつろぎすぎだ」


 新太以外の男は何とも思わない、とは聞いているものの、それにしても開放的すぎる。

 どうやら強がりでもないらしく、緊張や羞恥といった反応が身体にもほとんど現れていない。


「どうかしら?」


 沙弥香がポーズを取り、腰をくねらせた。

 照れに無理矢理ふたをしたような強引さが目につくものの、動作自体には恥じらいやぎこちなさが無い。


(手慣れているな。お気の毒に)


 新太で経験値を積んできたのだろう。困惑する顔が目に浮かぶ。


「客観的には素晴らしいと思うぞ」

「付き合う? この体を好きにしていいのよ」

「嘘つくなよ」


 素っ気なく応対しつつ、この場にいる残りにも目を向ける。

 祐理は床で開脚ストレッチをしつつ、テレビでも見るかのようにこちらを見ていた。

 志乃はキッチンでの作業を終えたのか、「ちょっと通ります」日向のそばを通り過ぎる。風呂上がりだからか、普段のお下げは鳴りを潜め、絹のような黒髪が下ろされていた。


 早足の足音が遠ざかったところで、もう一度沙弥香を見る。

 現実逃避は叶わず、綺麗な身体が変わらずあった。


「大マジよ。アンタと付き合えばお兄ちゃんの気を引ける」


 言いたいことが色々と浮かんだ日向だったが、口に出たのはしょうもないことだった。


「恋は盲目ってやつか」

「は?」

「だってそうだろ? 兄のために、嫌いな俺と付き合おうって言ってるんだからな。兄への想いが嫌悪を超えたってことだろ」


 どたどたと荒い足音が聞こえてくる。

 志乃が再び横切ってきた。


「いいから服を来てください」


 どうやら服を取りに行っていたらしい。ずいっと沙弥香に押しつける。

 沙弥香は受け取ると、いったんテーブルに置いた後、ブラジャーを手に取って、後ろ手に回す。


「アンタはパルクールも上手いし、清潔だし良い身体もしてる。ぶっちゃけ悪くないと思ってるわよ」

「上から目線だな」


 そんな着衣の様子を、日向はまじまじと観察していた。

 誰もとがめない。沙弥香本人も、服を押しつけた志乃も、床でくつろいでいる祐理も、日向がそんな単純な人間ではないことを知っている。


「無駄だよ沙弥香ちゃん」

「私も同感です。黒歴史になる前にやめておきましょう」

「そうとも限らないわよ」


 つけ終えた沙弥香は腕を組み、どかっと椅子に腰掛けた。

 包まれた胸が持ち上げられ、程々に豊かな谷間が形成されている。その下にはシミ一つない、お手本のような足。機能的な筋肉の存在を匂わせながらも、生々しさをかもしている。


「やせ我慢かもしれないじゃない。トレーサーなら自制心もお手のものだもの」

「……」


 日向はノーコメントで呆れるふりをしたが、内心は感心と焦燥を抱いた。


 日向は性欲不全をもたらす何らかの障害を持っているわけでもなければ、目の前の美少女に興奮しない性的指向を有しているわけでもない。

 生物的にも、性的指向も、れっきとした男のそれであり、それゆえ彼女には魅力を感じている。

 そもそも撮り師に必要な資質でもあるのだ。


 だから日向は、おごらない。

 自らの性欲が刺激される可能性も考慮し、選択を誤ってしまわないように備えてきたし、今も時々、実験的に自慰行為を試すことで自らの性質をモニタリングしている。


 基本的には付け入る隙が無いはずだが、以前は祐理に傾きかけたこともあった。

 たとえ目の前にいるのが兄想いブラコンとはいえ、油断するわけにはいかない。


「アタシはアンタの欲望が爆発することに賭けるわ」

「大損するよ沙弥香ちゃん」

「祐理の言うとおりだ。もっと言ってやれ」

「既成事実があれば、さすがにアンタも逃げないわよね」


 どこまで冗談なのかわからないほど、沙弥香は真剣な迫力を宿していた。


「そんな事実など未来永劫あるもんか」

「というわけで、さっさと襲ってきなさい。ほら」


 両手を広げる沙弥香。

 改めて見ても、プロポーションの良さが際立っている。

 有り体に言ってバランスが良かった。祐理は胸が大きすぎるし、志乃は逆に小柄すぎるが、沙弥香はその中間に位置する。


 健康的でありながらスポーティー。

 グラマラスでありながらスレンダー。


 被写体として粘着できたとしたら、どれだけ魅力的な作品に仕上がるのだろう。


「……自信があるのも頷けるな。AV女優でも中々そうはいかない」

「え、AV!?」


 想定外の単語が飛び出したからか、さっと胸を隠す沙弥香。


「沙弥香ちゃん、怯んじゃダメだよ」

「ですね。むしろ日向くんが怯んでると思います。お得意の、気持ち悪いことを言って遠ざける作戦ですよね?」

「そのとおりだよ志乃ちゃん。こやつはね、AV見るほど可愛い性格してないんですよ」

「同感です。とりあえずわかったのは、日向くんの好みのタイプでしょうか。この中では沙弥香さんのようです」

「お前ら好き勝手言いやがって……」


 胸中ではその鋭さに舌を巻いていた。


「ふふっ。勝機アリね。ほら、さっさと来なさいよ」


 沙弥香が自信満々に腕を解く。

 再びあらわになる、瑞々しき肉体。


「偉そうだな。そもそも処女だろ、お前」


 沙弥香が経験の有無というくだらない価値観に踊らされるか微妙なところだったが、どうやら効果てきめんらしい。主に口元が動揺を表し始め、よくわからない見栄が出てきた。


「しょ、しょしょしょ処女!? 違うわよ? 経験豊富よ?」


 ちなみに日向は撮り師として活動する過程で、処女かどうかを見極める術を持っている。

 ジン曰く、商材にすれば富を築けるそうだが、この感覚的なプロセスを言語化できるはずもないため、その気はない。


「新太さんに幻滅されるぞ」

「処女よ!」

「どっちだよ」

「まだまだだね、沙弥香ちゃん」


 したり顔で語る祐理。


「痴女は黙ってろ」

「痴女ちゃうねん。誘惑やねん」


 このままではらちが明かない。

 ふざける祐理は無視して、改めて沙弥香に問う。


「いいから服を着ろ。そもそも急にどうしたんだよ。お前、俺のこと嫌いじゃなかったのか?」


 兄に振り向いてもらいためにパルクールを頑張る。これはわかる。


 そのために日向の家に泊まり込みで練習をする。これもまだわかる。

 日向の実力を考えれば妥当だし、男女という意味でも二人きりならともかく、祐理もいるから無問題だ。


 わからないのは、目の前の沙弥香だった。

 上裸で平然としていて、どころか誘惑までしてきて、しかもまんざらでもないという。

 口先だけではない。性的な話題の時に表出するはずの、緊張や羞恥に絡む身体反応が露骨に出ていないし、そうでないにしても、鋭い日向だからこそ気付けるレベルの軽微な反応さえ、まるで出ていないのだ。


 出ないケースは知っている。

 好いているか、脅威に感じていないかだ。

 前者は祐理や志乃、後者は撮り師ビビのタイプだが、少なくとも沙弥香は処女であり経験は乏しいはずで、後者は考えづらい――


 そこまで思考が至ったところで、日向は己が行動を悔いた。


「いや待て。今の発言は撤回する」

「嫌よ」


 沙弥香が笑顔をつくる。

 作り笑いではない、正真正銘の微笑み。


「そうよ。アンタのことは嫌いだったわ」


 そういう顔のつくりなのだろう、普段の刺々しさは少し残っているものの、見せたことのない成分――しかし残る二人からは飽きるほどもらっているそれがにじみ出ている。


「でも今はそうでもないのよ。ぶっちゃけ付き合うくらいならアリだと思ってるし、むしろアタシから告白してもいいわ」

「……」


 誰も、何も突っ込んでこない。

 祐理と志乃を見ると、口に手を当て言葉を失っているだけだった。「ねぇ」沙弥香に焦点を戻される。


「アタシと付き合ってみない?」

「嫌に決まってんだろ」

「即答ね。せっかく勇気を出して告白したのに」

「ふざけるのもいい加減にしろ」

「ふざけてなんかないわ」


 睨むでもなく、叫ぶでもなく。

 沙弥香はただただ冷静で、穏やかだった。顔は少し赤らんでいるが。


 しばらく視線を合わせていたが、ふと沙弥香が恥ずかしそうに体ごと逸らした。


「しっかし、不思議なものね。男子に見られてもどうでもいいと思ってたんだけど、アンタのこと意識したらちょっと恥ずかしくなってきた」

「だああっ!」


 ここで祐理が叫んだかと思うと、なぜか衣服を脱ぎ始めた。


「沙弥香ちゃんの裏切りものっ!」


 上着を日向に投げつつ、下着姿で沙弥香に飛びつく。喧嘩ではなくじゃれ合いのそれで、質問を連発していた。


「モテモテですね」


 志乃が他人事のように話しかけてくる。


「志乃からもやめるよう言ってくれないか。お前ら、せっかく仲が良いのに、亀裂が入るぞ?」

「ご心配には及びません。祐理さんも沙弥香さんも、もちろん私も、そんな狭量の狭い人間ではありませんから」

「そういうものなのか……」

「そういうものです」


 志乃に笑顔で返されるが、いまいち納得できない日向だった。


 それでもこれだけはわかる。

 日向の受難は、また一段と強くなったのだ。

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