6 相反

「志乃ちゃん。日向が見当たらないんだけど、逃げた?」


 リビングに戻ってきた祐理は、ピンク基調のスウェットを身に付けていた。


「はい。これ幸いと出て行きましたよ」

「およっ? 日向をかばわないの?」

「私は祐理さんの味方です」

「志乃ちゃん!」


 がばっと祐理に抱きつかれる。ボリューミーな柔らかさが志乃を包む。


「そういえば沙弥香ちゃんもいないね」

「こちらにも来ていませんよ」

「練習しに行ったのかな。わたしがぶちのめしたから」


 抱きついたままのんびり話す祐理を優しく引きはがしつつ、志乃は思ったことを率直に口にする。


「案外日向くんと一緒にいたりして」

「ないない。沙弥香ちゃん、日向のこと大嫌いだから」

「表面的にはそう見えてますけど、実は二人は愛し合っている――素敵な設定だと思いませんか」

「全然素敵じゃないよ。そういう日向、見てみたい気もするけどね」


 しばし二人して唸ってみるも、そんな日向は想像すらつかなかった。


「ご飯、もうすぐできますよ」

「今日は何?」

「肉じゃがです」

「わお」


 祐理はテーブルに視線を移し、まだ配膳されてないとわかった途端、キッチンに走っていく。


「肉多めです」

「わおわお」


 かぱっとふたが開かれ、志乃はつまみ食いを警戒したが、そこまで行儀は悪くないらしい。すぐに閉じられた。


「先食べちゃおうぜぃ。お腹ぺこぺこ」

「ですね。いただきましょう」


 志乃は即答して、祐理と一緒に配膳を進めた。


 炊いたばかりのご飯と、皿――祐理はどんぶりだった――に盛られた肉じゃがが二人分。

 テーブル中央には、華やかに盛り付けられたサラダが瑞々しく輝いている。

 こちらもまたピンク基調のマグカップ。志乃がお茶を入れた。


 テレビもラジオも無い部屋で、食器の音だけが響く。

 会話と言えば、時折祐理から料理の感想が差し込まれただけだった。


 祐理は日向の影響で、また志乃は元々の性分で、こういう静かな団欒には慣れていた。

 といっても二人でこうして過ごすのはまだ数えるほどだったが、既に居心地の悪さは微塵も感じていなかった。


「ごちそうさまでした」


 祐理のお椀と皿は綺麗に平らげられており、志乃は思わず顔が緩む。

 志乃は少し前に食べて終えていたので、あらためて自分も合掌。

 自分の食器を持って立ち上がる。


「コーヒー飲みますか?」

「わたしはいいや。……あ、ホットミルク飲もっ」


 二人してシンクに立つ。

 祐理は手際の良い志乃に張り合ったが、洗い方が不十分で、結局全部志乃が洗った。


 志乃はコーヒーを、祐理はホットミルクを用意し、テーブルに戻る。


 こくりと飲み、ことっと置く二人。

 マグカップからは湯気が立っている。


「至福ですね」

「私服?」


 裾をつまむ祐理。


「至福のひとときってことです。――なんと言いますか、こうしてゆったり過ごすのって贅沢なことだと思うんです」

「わかりみが深いよ志乃ちゃん」


 祐理はもう一度ホットミルクを飲んだ後、


「賑やかなのもいいけど、こういう時間も人生には必要なのだよ」


 したり顔で語る祐理を見て、志乃はくすりと笑った。


「日向くんとはこういう感じでいつも過ごされているのですか?」

「ううん、全然。多忙なフリーランスの奥さんって感じ」

「ほう」

「ほうって何」

「祐理さんにはあるまじき、的確なたとえが出たなと思いまして」

「志乃ちゃんってたまにさらりとディスるよね」

「愛情表現です」

「わたしも愛してるよー」

「それはさておいて」


 志乃はマイペースに、しかし音も立てずコーヒーに口をつける。「さておかれちゃった」とおどける祐理には応えない。

 そんな志乃に祐理も気付き、覗き込むように視線を合わせる。


 志乃はマグカップを置くと、温めるように両手で包む。


「奥さん、と言いましたね」

「うん」

「一方的に思っているだけですよね」


 祐理は志乃の意図がわからず首を傾げつつも、変わらぬ思いを主張する。


「現実にしてみせるもん」

「進展は無さそうに見えますが」

「そうなんだよねぇ……」


 祐理がホットミルクをずずっとすする。「ふう」と言いつつ、その目はしっかりと志乃を見ている。


「志乃ちゃんはどうなの?」

「どう、と言いますと?」

「日向と付き合いたいと思ってる?」

「はい」

「それは青春として?」

「それもありますが、どちらかといえば生涯おそばにいたいという感じですね」

「……」


 祐理もマグカップを置き、志乃がそうしているように両手で包んだ。


「結婚も視野に入れていらっしゃる?」

「選択肢の一つとしては考えています」

「そっか……」


 祐理は知っている。志乃は意外と大胆な思考回路の持ち主だ。

 おそらく結婚以外の手段も想定しているだろう。


「諦めた方が良いと思うけどなー」

「それ、日向くんにも言われました」

「辛辣だねえ……」


 志乃はコーヒーには口を付けず、視線を落としたまま両手を温めるように包んでいた。


 しばらく眺めていると、彼女の純粋無垢な瞳が向けられ、小さな唇が開かれる。


「祐理さんはどうなのですか? 諦めない?」

「うん。この気持ちに嘘はつけない。日向がそばにいないなんて考えられないもん」

「ここに押しかけてくるほどですもんね」

「まあね。施設長パパのお墨付きももらって――あっ」

「お墨付き?」

「……」


 先日施設に帰った際、祐理は薄々気付いていた自らの存在意義をはっきりと告げられた。

 曰く、日向という才の暴走を防ぐための鎖――


 共有するべきかどうか悩んだ祐理だが、結局話すことにした。

 親しい友達であり、同じ相手を好いている者同士でもある志乃には、隠し立てする気になれなかった。






「――なるほど」


 一通り聞き終えた志乃が頷く。

 テーブルのマグカップは二つとも底が見えている。


「だったら、なおさらはっきりさせないといけませんね」


 志乃の表情から柔らかさが消えた。

 それは穏やかな文学少女には到底見えないものだった。


 話題にも想像がつく。祐理は気を引き締めた。


「日向くんが隠していることについて、です」

「だよねぇ」

「私も正直に申し上げます」


 志乃は一度視線を落としてから、顔を上げる。


「日向くんは、おそらく何らかの犯罪行為に関与している――私はそう考えています」


 祐理は目を逸らしたくなったが、志乃の迫力がそれを許さない。


「……証拠は?」


 祐理は即行で否定できず、そんな追い詰められた犯人のような台詞を吐く。


「今のところはありません。でも、そうとしか思えません」

「なんでそう思うの?」

「祐理さんも仰っていたではありませんか。彼は、自分の練習を誰かに見られることを気にするような人間ではないと。私もそう思います。紛いなりにも一緒に過ごしてきて、彼のことはある程度はわかっているつもりです」


 厳密に言えば、この主張は少し足りない。

 日向が人間離れした発散をしているということを、志乃は知っている。ビルの四階から飛び降りた光景は、今でも脳裏に焼き付いていた。


 あのレベルであれば、たしかに人目に触れさせるわけにはいかないが、あのようなことを常に行っているわけではあるまい。

 いくら日向と言えど、身体的にも精神的にもつとは思えない。

 現にあの後、日向は著しく疲弊していた。


 とすると、通常はもっと縮小運転をしているはず。

 加減した身体行動パフォーマンスならば人目に触れても問題にはならない。実際、日向は一週間前の顔合わせで自らアピールをしているし、そもそも彼の実力を知る者は自分含め、何人もいる。


 つまり普段彼が学校で見せている能力は、彼にとっては取るに足らない加減でしかない。


 そう考えれば、最近の日向の行動――神経質なまでに人目を避けていることは、やはり不自然に映る。


「パンドラの箱なのは、おおよそ間違いないです。開けてしまったが最後――私達はもう、今のままではいられない」


 微かに冷蔵庫の冷却音が聞こえるだけのリビング。

 祐理は口を開こうとして、閉じることを何度か繰り返した。


「それでも彼を愛せますか?」

「……違うもん」


 ようやく声に出る。


「違うもん。日向はそうじゃない。そんなことするわけない……」


 しかし尻すぼみになっていった。


 対して志乃は淀みなく、容赦も無しに淡々と話す。


「でも他に説明がつきません。彼がかたくなに隠そうとするのは、ばれたら致命傷になるからです。おそらくは社会的に死んでしまうほどの。十中八九、何らかの犯罪でしょう」


 しばらく睨み合ったが、間もなく祐理は顔を伏せ、肩ごと項垂れた。


「思い当たりがあるようですね。話して頂けませんか?」


 はぁと祐理は観念し、話すことにした。

 施設時代から日向が並外れていた性質の一つ――やんちゃさを。


 日向は己が欲求を満たすためにセクハラから侵入、窃盗まで平気で犯してきた。

 性欲ではない。

 もっと原始的な、運動欲求やスリルへの渇望だ。

 そうすれば皆、怒るから。

 怒れば、追いかけてくるから。

 追いかけてくれば、逃げることができるから。

 逃げることは、楽しいことだから――。

 そうやって日向は楽しんでいた。


 話しながら、祐理は自覚する。

 認めたくなかった猜疑心が、どんどん濃くなっていくことに。


 日向は当時、子どもだった。

 やんちゃな猿ガキ。そんな扱いで済んでいた。


 でも、その本質が変わらないとしたら。


 大人になるということは、醜くなるということだ。

 理想や欲望は強くなっていくし、思考はどんどん汚くなっていく。


 だとしたら、今の日向は。


「――うん」


 祐理は頷いた。


 自分に言い聞かせるように。

 志乃に表明するかのように。


「それでも、わたしの気持ちは変わらない」


 力強く瞬きをして、宣言する。


「わたしは日向が好き。わたしが日向を全うにしてみせる」

「……そうですか」


 今度は志乃が嘆息した。

 その意味はわかりかねたが、何かが相反したことだけはわかった。


「志乃ちゃんはどうなの?」

「私は、受け入れます」

「見て見ぬふりをするってこと?」

「いいえ。法を守るのは人として当然のこと。見過ごすわけにいきません」

「でも受け入れるって……」


 不安げな表情を浮かべる祐理に、志乃は優しく微笑む。


「見なければいいんです。開けなければいいんです。知らなければ、受け入れられる」

「志乃ちゃん……」

「私は今が幸せです。今の関係を壊したくない。その上で、もっと日向くんの近くにいたい。祐理さんや沙弥香さんとも、もっと仲良くしたい」

「ダメだよそんなの……」

「祐理さんはどうなのですか? あなたの好奇心は、今を壊してでも満たすべきことですか? 知らなくても良いことだってあるとは思いませんか?」


 志乃の声がこだまする。


「……ダメだよ」

「何がダメなのですか。ちゃんと言葉にしてください」


 顔を伏せて黙り込む祐理。睨みという圧を感じながらも、顔を上げられなかった。


 再び上げたのは、数十秒以上経ってからのことだった。


「……うん、やっぱりダメ。気になるもん。知りたいもん」

「それが傲慢だと言っているのです」

「志乃ちゃんには言われたくない」


 言った後で、はっとする祐理。

 やりとりがじゃれ合いを越えて殴り合いになりつつある。祐理は口論や喧嘩が好きではない。


 しかし志乃に気にした様子はなく、その瞳はどこまでも真摯。

 祐理は自分の認識を改め、もう一度頷いて。


「わたしにはもう時間がないの。攻める以外のやり方もわかんないし……今行動しなきゃ、絶対に後で後悔する」


 高校に通っていることが日向を縛る唯一のくさびであり、卒業後の独り立ちはもはや止められない――とは烈の見解だ。

 祐理もそうなると直感しているし、この一言で志乃にも伝わった。


「その前提が間違っています。彼のニーズを満たせたら、高校卒業でも一緒にいることは許されるはずです」

「ニーズ……」


 志乃の言わんとすることを、祐理も理解した。

 それは祐理も何度か考えたことのある選択肢だったが、その度に一蹴してきた。


「それでいいの?」

「はい。私は彼のおそばで、彼のパルクールが見たいだけですから――というのは建前で、あわよくば寵愛ちょうあいもいただきたいのですけれど」


 普段ならその古風な嗜好や言葉遣いをいじるところだが、志乃はどこまでも本気だ。

 それなりに同じ時間を過ごしてきた祐理には、そんな志乃の本質がじんわりと染みこんできている。


 しかし、祐理は志乃ほどドライではない。


「わたしは違うよ」


 それゆえ同じ土俵に立つことはできない。


「あわよくばじゃなくて、ちゃんと愛されたい。一人の女性として、家族として日向からも受け入れられたい。何も隠すことなく、堂々と幸せに過ごしたいの。だから――」


 祐理はもう俯かなかった。


 馴れ合いもなければ妥協もない、どころか闘争心さえ感じさせる力強さを携えて、祐理は。


「わたしは開けるよ」


 相反の意志をはっきりと告げた。

 

 これを受けた志乃は、ふっと微笑んだ。


いくさですね。日向くんをめぐる、祐理さんと私の戦い」

「負けないもん」

「私もです」


 しばし両者は睨み合っていたが、祐理がへなりと相好を崩す。


「これがライバルってやつかー。こんなのはじめて」


 その笑顔は少しぎこちなかったが、「私もです」続く志乃の微笑を見て、すぐに解消された。


「お互い頑張りましょうね」

「どっちが勝っても恨みっこなしだよ?」

「それはもちろんですが、そもそもどちちも勝てない説が一番濃厚ですよね」

「急に現実突き付けるのやめて」


 それからは普段の緩い雰囲気に戻った。


 マグカップを洗い終えた後は祐理、志乃の順で風呂に入る。

 祐理は二人一緒に入ることを提案したが、志乃の「鍵を開けられる人がいなくなる」との指摘を前にあっさり引き下がった。


 家のチャイムが鳴ったのは、ちょうど二人とも入り終えて一段落した時だった。


「沙弥香ちゃんかな、見てくる」

「この件は内緒ですよ」

「わかってるよー。二人だけの秘密ね」


 程なくして祐理と沙弥香が戻ってきて。

 そこには普段と違わぬ三人のくつろぎがあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る