5 素直

 日向と沙弥香は春日野町の西端付近に来ていた。

 距離にしては一キロもないが、日向は軽々と三分に迫る。


「はぁ、はぁ……す、少しは、待ちなさい、よ……」


 肩で息をする沙弥香が膝に手をつく。

 襟元ががら空きで、いわゆる胸チラが発生していたが、本人には気にする余裕もないらしい。


 一方、日向はというと、撮り師として映える画だ、などと冷静な感想を抱きながらショルダーバッグを下ろす。

 水筒を取り出して地面に置く。かつんと金属音が響いた。


 辺りは薄暗い。街灯が無ければ足元もおぼつかないだろう。


「悪いが何も教えないぞ」


 ここ西端付近は道路ではあるものの、東側の住宅エリアからは数十メートル以上離れている。


 北側には調整池。

 西側はガードレールを隔てて数メートルほど低くなっており、川が流れている。


 南を向けば、手つかずの山々が黒きシルエットとして広がっている。

 視線を落とすと、春日野町の麓である。今も車や電車といった小さな光源が滑らかに動いている。


「良い場所ね」

「お前がいなければな」


 日向はガードレールに飛び乗り、地面と違わぬように歩き始める。

 沙弥香が目を見張ったのがわかったので、真似するなよと警告してみると「するわけないでしょバカ」即答だった。


 日向はしばらく細い傾斜を往復した後、川に飛び降り、岩の一つに着地した。

 この辺りは岩場のように大きな石や岩が散らばっている。仮に出入口と解禁令を整備しようものなら、まず間違いなく地元住民の、夏の遊び場となるだろう。


「着地えぐっ」


 着地がエグい。この感想は、日向の無音に等しい着地音とコンパクトなフォームに対するものだった。


 日向は腕を振りかぶって次の岩へと跳躍する。

 ぴたりと静止した後、すたすたと歩き、また振りかぶってジャンプ。別の岩へ。


 トレーニングにもパフォーマンスにも見えない、あまりに無機質で機械的な反復作業が始まった。


「……」


 沙弥香は言葉が出ない。

 自分もトレーサーであり、そこそこの実力があるからこそよくわかった。


 頼りない街灯のもとで、はっきりと形も分からず、不安定かもしれなくて、しかも濡れているかもしれない足場に着地する――。

 自殺行為と言っても過言ではない所業だ。


 目が離せなかった。

 やっていることはただのプレシジョン――ジャンプによる飛び移りでしかないのに、不思議と引き寄せられる。

 ただのトレーサーやその辺の実力者には無い何かがあった。


 それが何かまでは、沙弥香には言語化できない。

 ただ、どんな類のものであるかはわかる。


 安定。

 正確。

 持続。


 瞬発的なパルクールの世界には珍しい違和感。

 だからこそ際立ち、だからこそ惹きつけられる。


 沙弥香は、このような光景をよく知っていた。

 自分が最も尊敬、敬愛し、熱愛している――偉大な兄のそれだ。


「……しゃくだけど本物ね」


 沙弥香のコメントは、明らかに日向には届いていない。

 日向は傍目から見て、明らかに集中している。


 穏やかな水流の音色が静かに響く中。

 とん、すとん、と。軽やかで小気味良い着地音が垂らされていた。






「まずっ!?」

「川に吐き捨てるなよ」

「え? 豚のエサ? アンタ味覚が死んでんじゃないの?」


 沙弥香は日向の手から水筒を分捕ぶんどり、制止も聞かずに口を潤した。


「味に興味が無いだけだ」


 二人は並んでガードレールに腰掛けていた。

 日向はレール上でしゃがみ、沙弥香は道路側に両足を出して、もたれるように尻を乗せている。


 沙弥香が吐いた栄養キューブだが、日向は淡々と口に運んでいた。

 後ろから視線を感じながらも、眼下の淡い景色を眺めていると、


「さっきまで何してたのよ? プレシの練習、というよりは実践練習に見えたけど」

「ああ、プレシジョンゴルフだ」

「聞いたことないわね」


 プレシジョンゴルフとは日向の造語である。

 パルクールで遊べるゲームの一つで、足場Aから足場Bに至るまでのプレシジョン回数を最小限に抑えることで競う。言うなればゴルフのプレシジョン版である。


 端的に説明された沙弥香は、嘆息を示した。


「意外と面白いぞ?」

「知ってる。舐めんじゃないわよ。その程度の実力と想像力くらいあるわ。ただ――」


 言いにくそうにしている。

 気にせず過ごしても良かったが、目の前の女子はただの有象無象モブではない。


 新太の妹であり、自分を敵視するトレーサーでもあり、祐理や志乃と仲が良く、日向の実力や事情もある程度知っている――


 巻こうと思えば巻けたが、迂闊に無視するには少々踏み込まれすぎていた。

 日向はあえて巻くことはせず、こうして二人っきりの状況に持ち込んだのだった。ならば、多少のリソースを割いてでも傾聴するべきだろう。


 逸れない日向の視線を前に、沙弥香は何かを諦めたようにもう一度ため息をつき、ぼそっと呟いた。


「敵わない。追いつけない。素直にそう思ったのよ。認めるわ。――――アンタは凄い」


 沙弥香の内心はわからない。その落ち着きっぷりは告白などでは断じて無いだろう。しかし、それだけだ。

 同い年の女子やトレーサーの気持ちなど、日向にはわかろうはずもなかった。


 できることと言えば、トレーサーとしての自分で対話するのみ。


「別にかなう必要なんて無いだろ」

「何? パルクールは競争じゃないとでも言うわけ?」

「そうじゃない。やり方も目的も人それぞれってことだ」

「抽象的な物言いは嫌いなんだけど」

「んー、そうだな」


 日向はガードレールから降りて、沙弥香と同じように隣に座り直す。


「沙弥香には沙弥香のやり方と目的があるはずだろ。お前の目的は何だ? トレーサーとして兄、アラタと並ぶことか?」

「違う。お兄ちゃんと結ばれることよ」


 新太が聞けば、いや、見るだけでも頭を抱えそうな迫力だ。

 この妹の想いを、兄はどこまで知っているのか。


「だったら敵う必要なんてないだろ。結ばれるためにはどうすればいいか、そのために何ができるかを考えればいい」

「それがわかれば苦労しないわよ」

「そうか? 少なくともパルクールの話で新太さんの気を引くことはできると思うが」


 沙弥香の表情から毒気が抜けた。

 豆鉄砲を撃たれたハトは、きっとこんな顔をするのだろう。


「俺もそうだけど、トレーサーはパルクールトークが好きだろ?」


 沙弥香は肯定も否定もしなかった。ただただ視線で続きを促してくる。


「普通なら友達や仲間として会話する機会も多いから、ある程度は満たされる。一方で、満たされてない奴もいるよな」

「ぼっちのアンタとか」

「否定はしない」


 くすっと沙弥香が微笑したのが横目で見えた。

 敵意丸出しの彼女からそんな顔を引き出したのは、日向の知る限り初めてのこと。

 凝視したい衝動に駆られたが、堪えた。


「これは想像だが、新太さんもそうだと思う」

「アンタと一緒にするんじゃない」

「本質的には同じだろ。事情はまるで違うけどな。新太さんの場合、そもそも誰かと駄弁る暇がないし、立場上、迂闊に心情を吐露するわけにもいかない。でも、相手が沙弥香だったら、その限りではない」


 家族なんだからな、と日向が締める。


「お兄ちゃん、放っておいたら一年くらい平気で一言もアタシと喋らないわよ」

「単に話したい相手として認識されてないからだろ」

「家族なのに?」


 真摯にぶつけてくる沙弥香に対し、日向も同様に応えた。


「新太さんが求めてるのは家族じゃない」


 沙弥香が顔を伏せる。


 改めて突きつけられた、本質という名の、どうしようもない事実。


「そこは変えられない。あの人は科学者だ」

「……」

「だからこそ、科学者が食いつくこととか、あるいは興味を盛ってくれそうなことに絞ってアプローチするしかない」

「……パルクールの話」

「そうだ」

「無理よ」

「なぜ」

「アタシは、そっち側の人間じゃない」


 はぁと沙弥香が嘆息し、立ち上がる。

 ガードレールが食い込んで痛いからか、尻をさすっている。


 元々優れた容姿なのに加え、トレーサーとしてバランス良く鍛えられた沙弥香の身体は、尻も例外無く整っている。

 今現在、尻を撮るつもりはないが、それでも撮りたくなるほどの魅力が詰まっていた。

 無論、そんなことを考える場面でもない。即行で頭の片隅に追いやった。


「別にこっち側の視点を持つ必要なんて無い。それはこっち側で足りてる。欲しいのは、こっち側に無い視点だ」

「また抽象的」

「たとえば、そうだな……女。女であるということ。これは強いんじゃないか。新太さんは男だからな。女性のことなんて知らないし、女性トレーサーが見る世界ともなればなおさらだ」

「普通に女性トレーサーを指導してたけど。よくわかってるって好評だったけど」

「どうせ初中級者だろ。そんなのちょっと勉強すればできる」


 沙弥香は虚空を眺めた後、合点がいかないらしく首を傾げていた。


「さすがに彼女たちとパルクールの、ディープな話はできないんじゃないか? でも沙弥香だったらどうだ? できそうな気がしてこないか?」

「たとえばどんな話よ?」

「そうだな、性器の有無で動き方がどう変わるか、とか」

「きもい」


 キックが飛んできたが、避けずに受け入れた。


「真面目な話だ。ちなみに俺はクライムアップで壁の角にぶつけて悲鳴を上げたことがある」

「どんなクライムアップよ。股間なんて接触しないでしょ」

「雨の日の、滑りやすいトイレの壁だったな。滑りすぎて二段でも上がれないから三段になるんだが、その時だな」

「あー……」


 光景を想像できたらしい。

 一般的にクライムアップ――壁のふちなどにしがみついた状態から身体を持ち上げて上に乗る動きは、三つのレベルがある。


 パワーのある男性トレーサーにのみ許された、ジャンプのように一気に上がる一段ワンステップ


 慣れたトレーサーなら平然とこなすが、パルクールの一つの登竜門とされている、上体を乗せてから下体を乗せる二段ツーステップ


 そして、上体を乗せるまでに肘を入れたりがむしゃらに登ったりする、言わば初心者丸出しの三段スリーステップ


 日向が言う接触とは、この三段クライムアップ時の、一段目や二段目前半の動作を指している。


「女性だったら、たぶん痛くないよな?」

「知らないわよ」

「新太さんも、真面目に考察してくれると思う」

「でしょうね……そうか、なるほどね。たしかに」


 ぶつぶつ呟いていた沙弥香が突然、立ち上がった。


「ナイスよ渡会。そういう話ならできそうだわ。アタシならお兄ちゃんの、パルクールトークの話し相手になれる!」

「だからそう言ってんだろ」

「アンタらは知らないだろうけど、女性には女性の事情や制約ってものがたくさんあるのよ?」


 知っている。


 盗撮のために。女性を演じるために。観察、練習、実践、格好から言動に至るまで、日向は費やしてきたのだ。

 犠牲となった女子や女性も一人や二人ではない。


「女性トレーサーあるあるってやつかしら。祐理やリイサさんレベルじゃないと分かち合えない世界よ。さすがにアンタらも知らないでしょう?」

「そうだな」

「いいじゃないの。お兄ちゃんの気を引けるわ。うふっ」

「テンション高いな」


 普段の落ち着きと刺々しさとは無縁の、一人の女の子がそこにいた。


 軽快な、しかし下手なステップを踏んでいる沙弥香を見て、日向は持ち前の職業病――盗撮素材としての観察が再び発動する。直後、これを誤魔化すように、


「とりあえず早めの行動を勧める」

「……行動?」


 振り返り、きょとんと首を傾げる様は、やはり普段とはまるで似ても似つかない。


「リイサの話だ」


 リイサ。

 国内で最も有名な現役女子高生トレーサーで、年齢は高校三年生と日向らの一つ上。

 そこいらの男性トレーサーを黙らせる確かな実力と、CM出演など多数のメディア出演実績を持つ、国内では正真正銘の女性トッププレイヤーだ。


 日向は五月のパルクール練習会で顔を合わせた程度だが、沙弥香や祐理はそこそこ仲が良いらしく、たまに祐理がリイサと会話したことを話してくることがある。


「リイサさんが何よ? 紹介してほしいの?」

「んなわけあるか。危機感を持てって話だ」

「話が見えないわね」


 沙弥香が隣に腰掛けてきた。

 さっきよりも近い。肩が触れそうだ。日向の鼻は沙弥香の匂いも察知した。


「今現在、新太さんの最も近くで、最も長い時間を過ごしてる女性トレーサーは誰だ」

「そんなのアタシに決ま――じゃないっ!? リイサさんだわ!」


 近距離での叫びに、日向は疎ましげに耳を塞いでみせるも、沙弥香には通じていない。


「まさか、そういうこと……いや、まさか、でも、うん……ありえるわね」


 どころか一人の世界に入り始めていた。

 ともあれ、日向が言いたいことは伝わってくれたようだ。


「新太と並べる女性トレーサーというポジション。今ならまだ間に合うんじゃないか」


 新太には気の毒だが、沙弥香が新太と近くなり、新太を振り回すことを日向は期待している。

 新太はトレーサーとして刺激的だが、自分に対する好奇が厄介だ。撮り師という隠すべき事情を持つ身として、興味を向けてくる者は遠ざけるに越したことはない。


「まずはリイサさんに並ばないと。実力はたぶん行けるけど実績がキツイわね。今の時代、一気にバズらないとダメ。女子高生ブランドは二番煎じよね。アタシが使える武器は……そもそも呑気に学校行ってる場合でもないわね。春高なら融通利くのかしら――」


 もはや沙弥香に声は届かないようだった。

 漏れ出ている独り言は、時折兄への愛や執着が混ざっていたが、至って現実的で戦略的な視点も多かった。想像以上に期待できるかもしれない。


 日向は頷き、自分の練習を再開した。


 数十分ほど集中した後、休憩を兼ねたストレッチをしていると、ふと。


「ねぇ、渡会」


 日向は動きを止めることで傾聴の姿勢を示す。


「ありがと」


 聞き間違いを疑ったが、鋭敏な日向はそもそも空耳とは無縁だ。


「って何よ、その目は」

「お前に言われると違和感しかない」

「嫌いな相手でもお礼くらい言うわ」

「へー」


 日向はストレッチを再開する。


「アンタ、本当にアタシに興味無いわね。というか女の子に? ぶっちゃけどうなのよ?」


 無い、と二文字で応えた日向だったが、それで納得されるはずもなく。

 沙弥香の追及をスルーしていると、背中を蹴られた。


 その後、なぜかストレッチを手伝われることになるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る