8 期待

 七月一日、土曜日。

 その庭は城の敷地内のように広く、木々と石で整えられていた。


 その一画に、クールなロゴがプリントされた、不相応なオブジェクトが多数配置されている。

 それらは壁だったり、足場だったり、高い鉄棒のような形状だったり、段の大きな階段だったりと一見不規則な集合に見えるが、わかる者トレーサーが見れば一目瞭然。


 人工スポット。

 春日家が娘の練習のために急きょ設置させた、パルクール練習場だ。


 そんな贅沢な環境下で春子は一人、動いていた。


 障害物を飛び越えるヴォルト。

 足場に飛び移るプレシジョン。

 壁に飛び移るキャットリープと、しがみついた状態から持ち上げるクライムアップ。


 高所からの飛び降りでは綺麗な四点着地ランディングと、きちんと衝撃を分散できているPKロールを使い分ける。

 のみならず、三メートルにも迫る壁の頂きにウォールランでリーチしてみせたり、鉄筋にぶら下がった状態から一気に持ち上げるマッスルアップまでこなしてみせたり、とレパートリーが豊富だ。


 どれも基本的な技だが、既に素人の域を出ている。そこいらの男子トレーサーにも負けていない。


 そんな様子を、少し離れた館のテラスから見下ろす人物が二人。


「意外と楽しそうじゃないか」

「ええ。パルクールの根源的な面白さにマッチしてくれたようで、良かったです」


 春日家の主ごと春日一久かすがかずひさと。

 その隣には日本一と名高いトレーサー、アラタこと新井新太。


「娘に合うか心配だったが、杞憂のようだ。パルクールとやらは素晴らしいのだな」


 新太は春日家から正式に春子のコーチングを請けている。今日も一時間前までは指導にあたっていた。


「一久さんの教育あってこそですよ」

「私の教育?」


 一久は手すりの上に小型のパソコンを乗せて、チャットをしていた。

 何十と並ぶ部屋ルームに、何百という未読がついているが、ほぼ即行で、会話のようなタイピングスピードで返している。


「ええ。パルクールの面白さはシンプルなんです。単に体を動かしてあちこち動き回りたいという原始的な運動欲求と好奇心。これだけです」

「なるほど。娘の、それを素直に楽しめる感性を私が潰さなかったのが幸いだった、と」


 一久は時折、娘の様子は見るものの、新太の方は一瞥もしない。


「さすがです。富裕層の教育というと詰め込み型が一般的なので、正直驚きました」

「蛇を捕まえようとして、噛まれて泣いたこともあるからな」


 一久は手元では叱責の文面を書きつつも、その口元は優しく微笑んでいた。

 これで新太とのコミュニケーションまで成立しているのだから恐ろしい。新太は仕事柄、色んな人間を見てきたが、こんなハイスペックなマルチタスクで、しかも娘想いな人間は見たことがなかった。


 しばし無言の時を過ごす。


 次の指導は一時間後であるため、新太がここにいる必要はないのだが、それでも新太はあえてここにいた。


 春日一久という傑物を間近で感じることは、新太にとっては人生の良きヒントになり得る。

 既に億を軽く超える金額を稼ぎ、パルクール界隈でも国内では無双、かつ世界の頂点に立てる目処もついている――そんな新太にとって、自分に無い人間との交流や交友には価値がある。

 というより、それ以外に現状を打開する道が思いつかなかった。


「再来週は見に来るかね?」


 一久が唐突に口を開く。

 何を指しているかは自明だった。春日野高校こと春高の体育祭に来るか、と言っているのだ。


「はい。行きますよ」


 一久が初めて新太を視界に入れた。

 その目は真意を問うていた。


 新太の本質は既に知られている。「フランクに付き合おうじゃないか」とは一久の提案であり、二人は既に友人関係でもあった。


「視野を狭めないために、あえて鑑賞するんです」


 何を、とは言わずとも伝わった。


「怠惰なことだ。寄り道が必要な生き方でもあるまいに」

「気分転換ですよ。教え子もいますからね」


 新太はたとえ目の前の顧客が所有する学校であろうとも、貴重な時間をたかが高校生の観戦に費やすほどお人好しではない。

 そんな新太が思い浮かべたのは、一久と同じく自分に無いものを持つ存在――渡会日向であったが、一久は娘を指していると捉えて「わはは」豪快に笑う。


「言うまでもないことだが、娘は私ほどドライではない。年頃の女の子に教えるように、ちゃんと愛情も与えてやってくれよ」

「わかってます」




      ◆  ◆  ◆




 同時刻の児童養護施設『村上学校』。

 その複合遊具エリアでは、三つの人影が俊敏に移動していた。

 他の子供たちがヒーローを見るような目で見ている。事実、三人のパフォーマンスは、パルクールのプロ競技と言われても信じるほどの疾走感と安定感があった。


「再来週でしたよね。行きますか?」

「行くに決まってんだろ。祐理の体操服姿だぜ?」


 レールから柵へとストライド――走るようにぴょんぴょん飛んでいく京介を、が通路を疾走しながら追いかけている。


「祐理の体操服姿なら、この前本人から送られてきた写真がありますよ?」

「んだと?」


 京介がストライドをやめ、柵の上でピタリと静止する。


「真智! 今よっ!」


 そこに、少し離れた通路から助走していた真智が

 必殺のタッチに思われたが、真智の手は届かない。京介が瞬時に柵から飛び降り、下の足場へと逃げたためだ。


「むっ。失敗した」


 真智は無機質に呟きながらも、すぐさま飛び降りて京介を追う。

 えるは飛び降りず、京介を見下ろす形で追従を続けた。


「おい、オレにもその写真送れ」

「まったく動きが乱れないところが腹立たしいですね」

「京介は日向に似てきた」

「あの猿と一緒にすんじゃねえ」


 言葉の応酬を交わしつつ、攻防も交える。


 構図は二対一だ。

 三熊・リー・京介という施設ナンバーツーの実力者を、施設の女子トップスリーに入る鶴江えると宮野真智が捕まえるという鬼ごっこである。


 しかし京介は捕まらない。

 身体能力もさることながら、女子二人の連携にはまらないよう、優れた観察と洞察を発揮している。


「個人的には彼も楽しみです。文字通り無双するのでしょうね」


 話題は春高の体育祭だった。

 自分達でも叶わない施設ナンバーワンの渡会日向と一ノ瀬祐理。その二人の様子を見に行ける貴重な機会である。


「アイツがか? 仮病でサボって家でトレーニングしてるタイプだろ、あれは」

「祐理曰く、真剣に取り組むそうです。念のため施設長パパにも根回しをして、一緒に行くことにしてあります」

「ざまあ」


 えるは日向のファンでもあり、日向が京介の言う通りの人間であることも当然ながら知っている。

 そこで祐理と悪知恵を働かせて、施設長も一緒に見に行く手筈を整えた。いくら日向と言えど、施設長が来るとなれば真面目にやらざるを得ない。


「もう一度勝負したい」

「あん?」


 唐突に真智が呟く。同時に攻撃も仕掛けられるが、京介は軽々と交わす。

 その勢いのまま、五メートル離れた足場にプレシジョン。えると真智との距離が明確に開いた。

 一息で詰められる距離ではない。女性には真似できない瞬発的な大技であった。


 三人とも動きを止めて、にらみ合う形で膠着する。


「もう一度、日向と勝負したい」


 前髪に片目を覆われた真智の顔は、一見すると普段通りの無表情に見える。


「今の私達なら、たぶん良い勝負」


 それが闘志に燃えていることは、付き合いの長い二人には容易にわかった。


「そうですね。一度くらいぎゃふんと言わせたいものです」

「捕まんのか? 体育祭の最中は無理だろ」

「ご心配なく。体育祭の後、施設長パパが直々に村に連行するみたいですから」

「ざまあ」




      ◆  ◆  ◆




 あちこちで話題の中心になっている当の本人、日向は自宅にいた。

 本来ならA組チームの体育祭練習に参加しているはずだが、免除されている日向はこれを断っていた。

 既に実力は見せつけているし、日向が提案したチャットサービス『スタック』も大いに役立っている。皆、日向の自分勝手な言動に不満や不平はあれど、納得するしかない。


『すっぽかしたらどうなるか――わかってるよな?』


『わかってますよ。一日だけですからね?』


 通話を切り、スマホをテーブルに置く。


「祐理の奴、こざかしい真似を……」


 施設長が体育祭を見に来ることになった。

 日向としても実力を見せないわけにいかない。もっとも既にA組チームのエースになっているため、見せること自体は問題ないのだが。


(間違っても大事にはできないな……)


 当日は撮り師として一世一代ともいうべき大勝負に出る。

 何しろエースとして各競技で活躍しつつ、空き時間に盗撮をするという忙しさだ。ただでさえ誰にばれることも許されない状況なのに、自分に注目している者が来るというのだから、リスクは一気に跳ね上がる。


「……」


 できる、という確信が一瞬で得られない。


 この刹那的確信の有無は、日向にとって一つの基準だった。


 できることは、できるのだと一瞬でわかる。というより、それくらいに熟知し、精通し、準備しておくべきなのだ。

 そうでなければ「できるかもしれない」というギャンブルにしかならないのだから。

 失敗が容易に死負傷に繋がるトレーサーにとって、そんなギャンブルはあまりに無謀。


 一度成功しても、十回目で死ぬしかしれない。

 十回目までは成功しても、百回目で死ぬかもしれない。

 百回目までは成功しても、千回目では――。


 だからこそ。

 いつやろうとも。

 何回やろうとも。

 安定して成功させることができるというレベルを担保する。

 それこそが『できる』ということに他ならない。


 つまり今の日向では、この盗撮はできない。


 しかし、日向は口元を歪めた。

 もう一度スマホを手に取り、カミノメにログインして、先日自ら投稿したフォーラムのスレッドを見る。



 【ぷるん】体育祭で撮ってほしいターゲットと部位を募集中【投票】。



 先日募集した投票には、千に軽く超える票が集まっていた。

 比率も圧倒的で、


胸部おっぱいか……だよな)


 撮り師として日向がもっぱら想定しているのも胸であった。一応太ももや尻も撮ってはいるものの、視聴者のニーズを探る実験でしかない。

 圧倒的な拡大率と安定感によって映えるのは、やはり胸なのだ。


「さてと」


 パソコンのスリープを解除し、慣れた手つきでファイルを開く。春高の見取り図が表示された。

 日向の手は高速に動き続け、次々とウィンドウを表示していく。

 その中には春高教職員しか閲覧できないはずのファイル――たとえば生徒の名簿も含まれていた。


盗撮作戦プランを練らねばな」


 能力も、道具も、情報も。

 必要なパーツはすべて揃っている。既に一度の盗撮ならできる状態ではある。


 しかし一度だけでは足りない。

 の真価を知らしめ、カミノメで盤石の地位を築くためには、なるべくたくさん撮った方が良い。


「やってやるさ」


 武者震いする日向だった。

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