2 契約1
六月二十八日、水曜日。
ホームルームの十分ほど前のことだ。
教室に登校した沙弥香は、近づいてきた祐理を見るなり「うわああああ」泣きついた。
「うおっ、どったの沙弥香ちゃん?」
「浮気よ」
祐理の豊かな胸元に顔を埋めた沙弥香が、上目遣いをおくる。
いつもの眼光はどこへやら。出かける飼い主を見る子犬のように弱々しい。
「お兄ちゃんが浮気したのよ、あの女に」
「えっ、浮気って、あの新太さんが?」
「そうよ」
祐理が知る新井新太という男は生粋のトレーサーであり、パルクール
何度か一緒に過ごしてきた祐理にはわかる。新太が自分を見る目には全く性的な色が無かった。普通は多かれ少なかれ向けてくるはずなのに。
「見間違いじゃないかな」
新太なら仕事で女性トレーサーや芸能人と絡む機会は多い。
「違うわ。お兄ちゃん自ら認めたもの。お兄ちゃんは誘惑に負けたのよ。あのクソ女ぁ……」
「失敬な」
背後からの、凜々しい声――本人こと春日春子だった。
理事長の娘らしい堂々とした佇まいは、見る者を威圧する。室内の空気が緊張し、注目が出入口に集中する。
「なんでアンタがここにいんのよ」
「君があまりに元気無さそうな様子だったんでな、見に来たんだ」
「アンタのせいでしょうが!」
沙弥香は祐理から春子に飛び移るように掴みかかろうとした。
それを春子が軽々といなす。
いつの間にか、沙弥香の腕を背後で拘束する形となっていた。
「落ち着いたかい?」
「……」
沙弥香から力みが取れていく。
廊下の端へと移動する二人に、祐理もついていった。
「何があったの?」
「新太さんに仕事を依頼したんだ。パルクールを教えてほしいと」
春子が拘束を解く。
沙弥香はブラウスのしわを正した後、腕を組み、窓側の壁にもたれかかった。
落ち着きはらっている。心配する必要は無さそうだと祐理は思った。もっとも春子なら何度でもあしらうだろうが。
落ち着いたところで、祐理が率直な疑問をはさむ。
「よく引き受けたね」
「春日家としての依頼だからな」
その返答に、思わず春子を凝視。「どうした?」祐理は首を振った。
祐理は新太とたまにLIMEで雑談する仲――本人の希望もあって沙弥香には内緒だ――でもあるが、新太が最近パルクールの仕事は請け負わないスタンスに切り替えたことを聞いている。
にもかかわらず、素人からの仕事を引き受けるとは。
並大抵の条件ではないはずだ。
「ずいぶんと乗せた。それに春日家と繋がるメリットも大きいしな」
「すごいね……」
報酬と人脈。
一体どれほどの規模なのか、祐理には想像もつかない。
「お兄ちゃんもお兄ちゃんよ。金なんて腐るほど持ってるくせに」
「ふっ、わかってないな新井」
ちなみに祐理はわかっていた。
パルクール活動はその性質上、突き詰めていくと環境の調達――借りることもあれば造ることもある――にしばしば帰着される。これには多大な金額を要する。
たいていのトレーサーは妥協するのだが、新太はその限りではない。何百、何千、いや億単位も射程に入れているはずだ。
「うっさいわね。アンタもアンタよ。親の力を借りて恥ずかしくないの?」
「恥ずかしくない。むしろ誇りにさえ思っている」
「この成金」
「成金とは急にお金持ちになった者のことだ。父は違う」
「うっさい」
春子は沙弥香の激しいあたりにも全く動じていない。むしろ嬉々として、この場を楽しんでいるように見えた。
「私のやり方を快く思わない者もいるだろうが、これが私のやり方だ。使えるものは使う。なんであろうとな」
「春子ちゃんかっこいい」
ここで祐理がさりげなく親しさを込める。
慣れないからか春子は目が点になっていたが、すぐに破顔。普段のオーラからは想像もつかない、柔らかくも年相応な笑顔だった。
しかし、間もなく引き締まる。
「私はな、もう二度と――二度と、負けるわけにはいかないんだ」
数瞬だけ鬼気迫る表情を見た。
沙弥香も同様らしい。とげとげしさを取っ払い、代わりに真面目な顔つきをつくる。
「……あの逃走犯ね」
「うむ」
訪れる沈黙。
春子は憤怒を、沙弥香は猜疑を宿している。
祐理はというと――頭に浮かんだのは、ある種の可能性。
「……」
それをすぐに押し込み、黙って二人を見ていた。
「そうね」
やがて沙弥香が呟き、大きく嘆息する。
「使えるものは使わなきゃね」
なぜか祐理を見て、
「祐理。アイツを借りるわね」
「えー、まだわたしのターンだよ?」
それが日向を指すことはわかっていたが、何にせよ譲る道理もないので、いつものスタンスで返しておく。
と、そこに本人が通りがかった。
「なんで祐理に頼んでんだよ」
まるで気配が無く、祐理は内心ぎょっとする。春子も何か思うところがあるといった視線。
一方で、沙弥香は何も感じなかったようで、
「どうせ暇なんでしょ? だったらアタシのために使いなさい」
「暇じゃねえし、なんでだよ」
「お礼もしてあげるわよ。そうね、スッキリさせてあげるわ」
沙弥香が胸元を強調して、ぽんと叩く。
弾力が見て取れた。
日向はそれをじろっと眺めていたが、その目には何の色もない。
新太と同じ、無関心の無色だ。
「あと春日さん? さっきから露骨に観察されてて気持ち悪いです」
「気にするな。相変わらず興味深いと思ってな」
「勘弁してください」
他の女子と打ち解けて喋る日向に、祐理は少しだけむっとした。
直後、これ以上会話することはないとばかりに背を向け、教室に入る日向を見て、少しだけすっとした。
日向の隣席は祐理だけだ。
それはすなわち、学校で最も近く、最も長い時間を過ごせることを意味する。
室内を横切っていく日向。その一見するとわかりづらい、逞しい背中に密着する。
「ひーなたっ!」
「いきなりなんだ。くっつくなと何度も言ってるだろ」
「えへへ」
誰よりも嗅いだ匂い。
誰よりも触った感触。
誰よりも聞いた声。
強引に居候するほどに、一番大好きな幼なじみであり、家族でもある存在。
その奥に眠る秘密への猜疑を晴らしたいはずなのに、ついつい棚に置いて、現状に甘えてしまう。
いつまでも続くわけではないのに。
現に今も、家では明らかに交流の時間と密度が減っているのに。
それでも祐理は。
誰にも邪魔されず、日向も逃げられない、この閉鎖的な教室で。
つかの間の二人っきりを満喫しよう、と思考に蓋をする。
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