6 免除3
「免除?」
「ああ」
声量こそ周囲全員に届くものであったが、日向と琢磨の視線は互いを刺すように伸びている。
琢磨さえ納得させれば、あとはその器量と要領でA組チーム全員をまとめてくれるだろう。そう日向は踏んでいた。
琢磨もまた、そんな日向の意図を読み取っていた。
「俺はお前よりも強い。当然ながら体育祭でもトップクラスのパフォーマンスを発揮できる。だから俺に練習は必要ない」
「それは知ってるけど、日向ちゃんの運動神経が優れてるからといって、日向ちゃんがサボっていい理由にはならないと思うよ? なんでサボりたいの?」
「俺には大切な用事がある。練習に時間を費やす暇がないんだよ」
サボるという言い換えを日向は訂正しなかった。どころか清々しいまでに凜々しく、「あはは」琢磨の笑いを誘った。
一方で、先ほどから意味不明な話ばかり聞かれている多数の生徒は、当惑や不信を顔に出し始める。
「おい二年。そんなことが許されるわけねえだろ」
三年の実行委員が、ずいっと大きな身体ごと近づいてきた。
「もちろんです。全員のわがままを通すわけにはいかないでしょう。でも俺は別です。俺はたった今、スタックという効率的な手段を提案しました。加えて、俺はこのA組チームでもトップクラスの運動神経を持ってます。少なくともあなたよりも」
「なんだと……」
一歩近づいてくる三年に対し、日向は両の手のひらを掲げて静止させた。「あぁ?」彼が怪訝な顔を浮かべると、日向は一歩、二歩と後退し――反復横跳びを始めた。
「……何やってんだお前?」
「反復横跳びです。俺の記録は66回。先輩はいかがですか?」
スポーツテストのA判定に近いパフォーマンスを維持しながら、日向が問う。
66回と言えばA判定最低値である63回と大差無く、さして珍しくもない値だが、日向は至って涼しい顔をしており、優しい足音で踏んでいる。
「……」
その一見すると地味な動きを前に、突っかかっていた三年は閉口した。
日向ならもう10回は増やせるのだが、さすがに目立ちすぎる。しかしながらA判定レベルでも、動き方を洗練させれば通じると日向は踏んでいた。
ある程度運動ができる者になら通じるのだ。
直感的に、あるいは本能的に、出来が違うということに。
「66回ってすごくね?」
「そうか? A判定は60くらいだぞ」
「あれ、66回のペースか? もうちょい少なくね?」
「渡会が隠してたってのは本当みたいね」
「一ノ瀬さんの言うとおりじゃん」
「ていうかさ、さっき佐久間が肯定したように聞こえたんだけど」
日向の実力を目の当たりにしたクラスメイトらがあれこれ漏らしている。
さりげなく様子を見ると、祐理は偉そうに腕を組んで頷いていて、「なんでアンタが偉そうなのよ」そばにいた沙弥香もわかりやすく口を動かしていた。
肝心の三年にも十分通じたことがわかり、日向は畳み掛ける。
「とにかく俺は成果を出したし、体育祭でも出します」
日向は反復横跳びを止めて、琢磨を向いてから言った。
「文句は言わせません」
琢磨はにやりと口角を上げて、
「大切な用事が気になるけど、そこは詮索しないでおこうか。――ただね、日向ちゃん。体育祭は団体競技だ。いくら日向ちゃん個人が優れていても、みんなで合わせる練習をしておかないと、かえって足を引っ張っちゃうよ?」
「その前提は間違っている。男子に限って言えば、参加必須競技はリレー、椅子取りゲーム、障害物競走、バケツリレー。いずれも団体競技というより個人競技の反復だ」
「バケツリレーは団体競技だと思うけどなぁ」
バケツリレーとは男女全員参加の競技で、時間内にどれだけの水をバケツリレーで運べるかを競う。
高い戦略性と生徒全員がグラウンドに並ぶ光景ゆえに、春高の体育祭では目玉競技となっている。
「その議論は後日スタックでやろう」
「逃げた」
「後回しにしただけだ」
日向と琢磨がしばし睨み合った。間もなく、「いいよ」琢磨がふっと笑う。
「先輩。彼の実力はオレが保証しますよ」
「……そうか」
佐久間琢磨の顔と名前は全学年に知られている。琢磨はスポーツテストでも、体育祭でも、もっと言えば学力でも容姿でも校内屈指であり、この一年で何度も見せつけてきた。今も聴衆を引きつけ、
後輩とはいえ、三年に反発する気は起こらなかった。
「琢磨。後は任せた」
「一つ貸しね」
「……ああ」
A組チームが静まり返る中、日向は悠々と体育館を去って行った。
その背中に刺さった声は一つや二つではないが、その歩みは少しも怯まなかった。
◆ ◆ ◆
翌日、金曜日の間に、A組チームの全学年が情報の授業を受けた。
日向が提案した
それは帰りのホームルーム時に、スタックのスマホアプリを使う生徒が多すぎるのに見かねた担任が怒号を発したほどだった。
放課後、A組チームは早速、親交と実力確認を兼ねた合同練習を行うことになった。
場所は第二グラウンド。春高の敷地から数百メートルほど離れた、普段は閉鎖されているエリアだ。
種目はリレーである。即興でチームを組み、実際に走ってみてタイムを計測することになっている。
アンカーの琢磨が、感嘆と歓声に包まれながら走り抜けた。
傍らの女子――計測に慣れた陸上部女子が「はやっ」思わず呟きつつも、正確にストップウォッチを止める。
表示に目を落としたが、渋い顔をした。
「どうだった?」
「あ、あまり芳しくないみたい」
汗を拭う琢磨にどぎまぎしつつ、女子が応える。
琢磨もストップウォッチを覗き込んだ。
「……想像以上にひどいね。いや、去年の優勝チームがエグかっただけか」
去年の優勝チームの素のタイムは既にスタック上で共有されている。A組チームはこのタイムを目標に掲げることにしていた。
もっとも体育祭のリレーは
しかし結局のところ、勝敗を分かつのは純粋な走力であることが過去の記録からもわかっている。スタックでも説明含めて共有済だ。
よって、チーム全体の走力を底上げすることが最優先だった。
「超えられるの、かな?」
「努力次第でしょ」
陸上部の直感は軽視できない。
琢磨も同感だったが、彼にはそれ以上が見えていた。
「あとは、マネジメント次第かな」
それだけ答えて、彼女に背を向ける。
琢磨は皆にタイムを共有した後、詳細はスタックで話し合うことにして、この場は解散にした。
熱心でないチームが早速帰って行く中、琢磨のそばには、いつものメンツ。
テンションの高い祐理と誠司はなぜか鬼ごっこを始める。
遠ざかっていく二人の背中を、沙弥香と並んで見ていると、
「悔しいけど、賢いやり方ね」
「うん。オレとしても楽だよ」
琢磨の、まるで自分がA組チームを仕切るかのような
動機や内心はともかく、琢磨が優秀であることはわかりきったことだし、去年も優勝には至れなかったものの、二年や三年を器用に、綺麗にまとめあげた。
「……アンタ、本気で勝つ気?」
沙弥香は遠目を投げた後、横目を寄越す。
まるで熱量の差を比較するかのように。
「本気じゃないけど、勝つ気ではいる」
「そっ」
「沙弥香の水着姿も見たいしね」
「死ね」
沙弥香の肘が飛んできたのを、琢磨は難なく回避した。
何度となく交わしたじゃれ合い。居心地の良い距離感。
鋭さを宿す沙弥香に微笑んでみる。睨み返されただけだった。並の女子なら赤らめてくれる武器も、全く通じない。
ちょうどその時、誠司が風圧を残して通り過ぎていった。続く祐理は「いや勝てないから」戦意喪失して膝に手をついた。
「ガード堅いよね沙弥香って。一度は付き合った仲じゃん」
「黒歴史だったわ」
「いいなぁ」
ひょこっと祐理が顔を出す。
ちなみに二人が一時期付き合っていたことはガールズトークにて既知であり、他に志乃も知っている。
「おっ、一ノ瀬さん。なら試しにオレと付き合ってみる? オレ、上手いよ?」
「結構でーす。わたしは日向と付き合いたいもん」
沙弥香は嘆息したが、その対象は下ネタを混ぜた琢磨ではなく祐理だった。
「望みは薄そうだけどね」
「沙弥香ちゃんのいじわる」
「だってそうじゃない。男子って、こういうイベントだとなんだかんだ張り切るものでしょ?」
沙弥香が向いた先には、誠司とクラスメイトの女子たち。
居残って走り方を練習しているらしく、誠司は講師役を懇願されているようだった。
祐理も目を向ける。誠司と目が合う。
祐理がバツマークのジェスチャーを送ると、誠司はあっさりと遊び相手を切り替えた。デレデレしているのがよく見える。
「なのに
「ほんとそれ」
「じゃあ一ノ瀬さんも免除する?」
「勘弁して」
琢磨の冗談に、祐理は心底という様子で即答した。
日向は確かに皆を納得させて免除を勝ち取ったものの、身勝手にサボタージュした彼を快く思っていない生徒は多い。
今日も日向への不満は小言という形で、あちこちから聞こえていた。
祐理にそこまで捨てるほどの覚悟はない。そもそもそういう発想さえ抱かない。
「沙弥香ちゃんに癒やしてもらお」
「暑苦しい」
春高随一の美少女二人の、麗しく微笑ましい応酬を見ながらも。
「……」
琢磨の意識は別にあった。
スタック上のやりとりからは、早速、体育祭に対するスタンスの温度差が垣間見えてしまっている。
A組チームの目標タイムは、明らかに全員一丸が必要なレベルだが、寒い側の生徒らにそこまで頑張る気は無い。強要すれば、それこそこじれてしまう。
自発的にやる気を引き出さねばならない。
琢磨は第二グラウンドを見回し、観察した。
そそくさと帰る者。
じゃれ合う者。
談笑する者。
熱心に練習する者――
「うん」
琢磨は小さく頷く。
温度差は、どうということはなかった。
対処は可能だからだ。
スタック上でポジティブな言葉や楽しそうな写真を共有すれば良い。役割や責任を与えてやれば良い。
それだけで人は頑張れる。
祐理のように本心から褒めてくれる女子もいるし、女子相手であれば自分がそうすればいい。
祐理と沙弥香はというと、グラウンドの端へと向かっていた。パルクールで何か遊ぶつもりだろう。
「面白いけど。でも――気になるなぁ」
琢磨の興味はそこではなかった。
体育祭ではない。正直優勝しようがしまいが構わなかった。
彼女たちでもない。軽口は一種の儀礼と演技であり、向こうから頼まれても付き合う気など無かった。
そんなことよりも、気になることはただ一つ――
今も堂々と練習をサボっているクラスメイトだけだ。
「……」
沙弥香の言葉が蘇る。
――男子ってこういうイベントだとなんだかんだ張り切るものじゃない?
――アイツにはそういうのが一ミリもない。本当に一ミリも。
琢磨はパルクールの世界を詳しく知らないが、人の本質が変わらないことは知っている。
沙弥香の発言は、トレーサーとしての日向を見てのものでもあるのだろう。
「すごいよね、本当に……」
盲信。夢中。没入。
琢磨には縁の無い概念だった。
完璧超人といわれ、嫉妬や羨望を抱かれたことは数知れないが、そんな自分を恵まれていると思ったことは一度も無い。
むしろ無知で、不器用で、それでも精一杯あがいている凡人の方が、はるかに楽しく見える。
しかしそれは無知で、不器用だからこそ――劣等であるからこそ味わえる低俗な充足にすぎない。
そうやって見下さないとやってられなかった。
当然ながら素直に従うのは癪だったし、従ったところで満たされるとも思えなかった。
とは言うものの、他に選択肢も無いため、琢磨は無難に――勉強や運動から人付き合いまで無双して過ごしてきたのだが、満たされない日々が続いていた。
そんな時だったのだ。
日向という怪物に出会ったのは。
「知りたい。探りたい。でも……」
琢磨は、自分が何かに費やすことを許さない。何でも器用かつ即座に適応してみせる万能性は、琢磨の数少ない
一方で、頭では理解しているのだ。
表面的な順応が通用しない、深海のような深く遠い境地があることに。
そこに至るためには、自分と言えど献身と呼べるレベルの努力が必要であり、かつ費やしたからといって報われる保証もないということに。
そもそもそれを維持できるだけの精神性を自分が持っていないということに。
「何してんのよ琢磨。帰るわよ」
いつの間にか沙弥香と祐理が戻ってきていた。
琢磨はいつもの軽薄な笑みを浮かべた。
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