2 次熱2

 日向がトイレに逃避した後、それは起きた。


「新井さん、ちょっといい?」


 しなやかなで健康的な足を組んでいる沙弥香に、女子の一人が声をかけた。

 会話したことはあったが、普段自ら沙弥香に話しかけるタイプではない。彼女は少し気後れしているようだった。


「何よ」

「あの、もし……もしかして、新井さんって」


 彼女は両の拳をぎゅっと握ってから、


「あの新井新太の妹さん、だよね?」

「違うわよ。というか突然何なのよ?」


 沙弥香の睨みにびくっと肩を震わせたが彼女だったが、その目は強い好奇に満ちている。


「で、でも……春高祭の時、見たんだよね」

「気のせいじゃないかしら」

「そ、そうかな」

「そうよ」


 ちなみに琢磨と誠司はいない。私語が目についたとして、担任の手伝いに駆り出されている。

 そのようなタイミングだったからこそ、彼女も狙ったのだろう。


「あ、その……私、新井新太の大ファンなのっ! だ、だから、お近づきになりたい、と思ってて……」

「お兄ちゃんはアタシのものよ」

「――え?」


 沙弥香は何かを誤魔化すようにこほんと咳き込んだ。


「新井新太にはお兄ちゃんという愛称があるのよ。加えてアタシィという外国人の婚約者もいる。アタシィは嫉妬深くて有名でね、女性のファンは誰一人許さないの」

「……」

「これくらいファンなら常識でしょ?」


 瞬間、ぷっと誰かが吹き出した。

 その方角と、最近知ったばかりの可愛らしい声質から考えて、沙弥香は犯人を断定する。静観を決め込んでいる祐理である。


「恋人みたいに寄り添っているのを見たんだけど……」

「別人じゃない?」

「新井さん、綺麗だし目立つから、見間違いとは思えなくて……」


 引き下がらない彼女に対し、沙弥香はキツめの口調で喋ろうとしたが、


「やっぱりそうやったんやな」


 ひょこっと出入口から誠司が出てきた。

 後ろには琢磨もいる。


「ワイも見たで。さやちんもあんな甘えた顔するんやな」


 新太という兄の存在と沙弥香の想いブラコンを知るのは祐理と琢磨、そしてここにいない日向だけである。

 誠司は何も知らない。ゆえに普段と変わらない調子でえぐってくる。


「人違いだって言ってるでしょ」

「ワイにも妹おるんやけど、べたべたひっついてくるんや。妹ってそういうもんなんやなぁ」

「……」

「普段のさやちんと違いすぎて、つっこんでええかわからん、かった……わ……?」


 相変わらずのやかましい声で遠慮無く喋る誠司は、ようやく沙弥香の表情に気付く。

 怒りの形相が浮かんでいた。


「さ、さやちん!? 待ちいな、落ち着こ? な?」

「せっかく人が隠していたものを、よくもバラしやがってぇ……」

「いやいや隠す気なかったやん!? べったべたのあっまあまやったやん――」

「問答無用!」

「ひぃ!?」


 二つの人影が高速で出入口を通過するのだった。


 琢磨は遠ざかる沙弥香を一目見た後、教室に入る。「あはは、おっかないよねぇ」苦笑とともに独り言ちることで自然と注目を集めて、


「当日の沙弥香を見た人ってどれだけいる? 手挙げてみて」


 その声音から動作までが気さくであり、最初に尋ねた彼女を含め、クラスメイトがちらほら手を挙げた。


 間もなく総数は過半数に。


「あははは、まあそうだよね。というわけで、沙弥香はお兄ちゃんっ子なんだよ。かなりガチだから、あまり触れないであげてね。誠司みたいになるから」


 それは人の秘め事を暴露する軽率な行動にも見えたが、沙弥香のためでもあった。

 沙弥香の、兄への想いは強い。冗談抜きで強い。クラスメイトへの体裁や配慮など度外視だろう。誰かの軽率な発言によって、思わぬ溝が出来かねない。

 このリスクを未然に封じるためには、この件は触れない方が良いことアンタッチャブルにしてしまうのがてっとり早かった。


「一ノ瀬さんも気を付けてね」

「わたしは大丈夫だよー」

「あ、そっか。既に知ってたっけ」


 祐理と沙弥香はパルクールを通じて知り合っており、親交は単なるクラスメイトよりも深い。

 もっとも琢磨もそれは知っていたが、祐理を絡めて皆に印象付けるためにあえて聞いてみせたのだった。


 ここで一瞬、間が生まれた。

 沙弥香の件は既に一段落している。集めた注目を戻そうと、琢磨は口を開こうとしたが、思わぬ人物が割り込む。


「これで謎が解けたでありますね」

「ん? 謎ってなんだい?」


 オタクという言葉を彷彿とさせる、どこか憎めない男子――高井がメガネをクイッと上げる。


「新井氏の異様な運動神経であります。スポーツテスト一位ということは、あの春日春子氏を超えたということでありますよね。運動部女子にもできない芸当――ただ者でないのは明らかなのでありますよ」

「アタシが何だって?」


 声の鋭さとともに沙弥香が入室してきた。室内の何人かがびくっと肩を震わせる。


「妹は萌えるという普遍的真実について、佐久間氏と語り合っていたのであります」


 高井が平然と言う。沙弥香の眼光は琢磨を捉える。


「いや聞こえてたでしょ」

「まあね」


 沙弥香はふっと微笑を浮かべてから自席に着く。

 自分が話題にされていることなど、まるで気にしていないかのような素振りだった。

 沙弥香は『新太の妹』『血筋に違わぬ実力者』として幼い頃からちやほやされており、一方で承認欲求が薄い。この程度など意に介さない。


 そんな沙弥香の様子は、この話題の終了を知らせる号令のように伝搬する。クラスメイトたちは各々の行動を再開し始める。


 そんな中、離れて傍観していた祐理に、一人の女子が尋ねた。


「ねーねー、もしかして一ノ瀬さんも関係あるの?」


 祐理が転校前から沙弥香と面識があり、また体育の授業で沙弥香と張っていることは知られている。

 特に後者は転校生、抜群の容姿、明るい性格といった要素に違わぬインパクトがあり、祐理は本人の知らぬところで何度も話題になっていた。


「うん。わたしも一時期教えてもらってたから」


 無論、沙弥香ではなく彼女の兄、新太から手ほどきを受けたという意味である。


「すごいっ!」


 その一言で、クラスの注目が明確に移り変わった。


「いいなぁ」

「私も教えてもらいたいなー。なんだっけ、その、ぱく、パクルール?」

「パルクールだよ。今時常識だろ」


 男子も女子もあちらこちらで雑談を発生させる中、祐理はむっと不満を表した後、わざとらしく呟く。


「今は日向に教えてもらってるけどねー」


 何人かが首を傾げた。


「渡会、だよな?」

「アイツが?」


 運動神経は運動不足の女子並に低く、ボールの投げ方から走り方まで女々しく、体育でも先生に呆れられて何度も特別扱いされ――。

 それが日向に対する、クラスメイトの印象であった。

 あまりにひどすぎるがゆえに、日向もまた他クラスにも知られるレベルで有名だった。


「一ノ瀬さんも好きだよねー、それ」

「恋は盲目なんだねぇ」


 女子たちがいつものように祐理をいじる。

 祐理は主に琢磨らとつるんでいるが、他のクラスメイトとも積極的に絡んでおり、幼なじみというの日向との関係は鉄板ネタとなっていた。


「アイツ、実は凄いヤツだったり?」

「んなわけねーじゃん。比較するまでもないだろ」

「いや、凄いでしょ。逆に」

「これだっけ」

「違えよ。こうだろ」


 男子らが不格好な走り方を真似してみせる。教室がどっと湧いた。


 いつものことだった。

 ここまで盛り上がることはないにせよ、日向はよくネタになる。日向はもちろん、祐理もいちいち気にしてはいかなかった。


 しかし、今は違った。


「違うもん!」


 両の拳を握った祐理に、普段の愛想の良さは微塵も無い。


「……」


 日向が教室に入ったのは、そんな時だった。

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