2 回想

 大浴場で祐理から話を聞きながら、烈は思い出していた。

 半年以上前、プロを目指す日向を監督する立場にある陣内を呼び出した時のことを――




「日向は今何してる?」


 とある平日の日中、村上学校校舎の屋上にて。

 白い粉の降りかかった木々を眺めながら、烈は、隣に立つ大男の喫煙者に目を向けた。


 男の名は陣内。

 烈との付き合いは長く、あえて言うなら旧知の悪友と呼べる存在だ。


 ちなみに、烈は彼の正体を知らない。

 陣内は盗撮動画販売サイト『カミノメ』のオーナーであり、日向を撮り師として可愛がっている立場にある。界隈では『ジン』という名前で知られており、日向にもそう呼ばせている。


 陣内は灰色の息を目一杯吐き出した後、


「デビューに向けて特訓中だ。といっても、あれは才能の塊だから、ほとんど放置プレイだな」


 平然と嘘を述べる陣内だが、烈が知る由はない。


「生活費はどうしてる?」

「適宜渡してる。その辺のサラリーマンには匹敵するぜ」


 金額で言えば月二十万、いや羽振りの良い陣内のことだから三十万、ひょっとすると四十万以上もあり得るだろう。

 高校生にしては過多な金額だが、烈はそんなことで指摘などしない。むしろ必要なら五十万でも百万でも出せば良いとさえ考える。問題はそこではなかった。


「日向をどうデビューさせるのか、そろそろプランを訊かせろ。無いとは言わさんぞ」

「何言ってんだ、れっちゃん。パルクールというネタじゃあそう簡単には描けんよ」


 おどけるように応える陣内に睨みを利かせると、苦笑が返ってきた。


「今も検討中さ」

「何を目指そうとしている? そのための障壁は何だ? 進捗はどうなんだ?」

「――まず目的だが、利益を得るためだ」


 烈がもう一度睨むと、陣内は「まあ聞けよ」煙草をくゆらせる。


「当然だろ。オレは実業家ビジネスマンだ」


 陣内は冬景色を見下ろした。烈もつられて眺める。

 グラウンドにもかすかに雪が積もっている。子供は誰一人といない。皆、幼稚園や学校に行っている。不登校者が一人もいないことは密かな自慢だった。


「金稼ぎに使えそうな才能――金のなる木が日向だよ。だが、まだ木にまでは育っちゃいねえ。どうやって育てればいいかも正直わからん」

「木じゃないのかもな」

「いや、木であることは間違いねえよ。オレの勘が全力でそう訴えてる。だからこそ申し出たんだ」


 日向を初めて見た時の陣内の反応を、烈はよく覚えている。女に一目惚れしたかのような興奮と高揚があった。普段の陣内にはあるまじきことだ。


「しかし意外だな。お前なら腐るほどアイデアを出しそうだが」

「そうもいかねえんだよ。アイツは金や名声や女、あるいは使命感で動く男じゃねえからな」


 烈は頷くことで共感を示した後、話を変える。


「これまでの成果があるはずだ。端的に教えろ」

「そうだな――三つあるぜ。パルクール競技、ペネトレーションテスト、芸術作品としてのトレーサ-。どれが訊きたい?」

「ペネトレーションテスト」


 陣内はフェンスにもたれた。懐から高級感の漂うケースを取り出し、吸い殻を入れる。


「元々はソフトウェア界隈の用語だが、要するにセキュリティのテストだ。その筋に詳しい者が色々使ってみて、セキュリティ的に不味いところを指摘するのよ。コンサル付の点検と言ってもいい」

「ふむ。物理的な建造物に対してセキュリティを調べる、ということか」

「さすがれっちゃん、賢い」

「普通は機械で担保するものだろう。カメラしかりロックしかり」


 まあなと同意する陣内に対して、烈は疑問を口に出す。


「一体何をテストするというんだ? パルクール実践者トレーサーならこの壁から侵入できます、危ないですよ、とでも言うつもりか?」


 陣内は目を丸くした後、にやりと笑う。


「大当たりだぜ、れっちゃん。パルクールを使えば、常人が考えもしない経路からの侵入ペネトレートが可能になる。パルクールは今やすっかり身近だからな、泥棒に生かそうと考える輩も多い。近いうちに社会問題にもなるだろう。そこでペネトレーションテストだ。良いビジネスになるぜ」

「しれっと嘘ついてんじゃねえよ。パルクールはまだまだマイナーだ」

「そうなんだよ。これは誇張表現だ。実際はまだまだ知名度が足りないから、そもそも商売が成り立たねえ。どうやれば大衆に訴求できるか、それはもう壮大なアドバータイズメントが必要に――ってなんだよ」

「ふっ、さすがだな。安心したよ」


 パルクールについて無知ならば、ペネトレーションテストなどというアイデアは出ない。


「オレを誰だと思ってんだ」

「……」


 烈はしばし睨んでみせた後、出入口に向けて歩き出す。

 陣内が歩く気配はない。代わりに言葉が飛んできた。


「言いたいことがあるみたいだな。言えよ、れっちゃん」


 烈は「そうだな」自分に言い聞かせるように呟き、振り返る。


「陣内。日向をお前の食い物にするんじゃねえぞ」


 才能があるからといって、使い潰して良いはずがない。自分の息子となればなおさらだ。

 もっとも陣内もその程度は理解しているだろう。だてに付き合いは短くないのだ。

 ただ、理解しているからといって、行動に移してくれるとは限らない。くどいのは好きではないが、烈はあえて口にしてみせたのだった。


「わぁーってるし心外だ。オレは商売道具は尊重する。パルクールでもあるだろ、尊重の精神リスペクトは大事だと。真理だと思うぜ」


 陣内もゆっくりと前進し始めた。


「だから生活費だけ渡して放置プレイなんだろうがよ。アイツを最も伸ばせるのはアイツ自身だ。下手な常識やお節介で縛るもんじゃない。オレは舞台と利便を用意するだけさ。利便はともかく、舞台はまだまだだがな」

「わかってるならいい」


 烈は陣内と並んで屋上を後にする。


 校舎一階、出入口まで一緒に下りたところで散会した。


 烈は、遠ざかる陣内の背中を眺めていた。


 少し逡巡した後、早足で追いかける。


 足音が近づいて気付いたのだろう。陣内が振り返り、首を傾げる。

 烈は構わず距離を詰め、小声で会話できるところで静止。


「一つだけ訊いておきたかったことがある」

「日向のことか?」

「ああ」


 烈が早速切り出す。


「陣内。先ほど金でも名声でも女でも使命感でもない、と言ったな」


 中年の衰えを全く感じさせない、ぎらぎらと輝く双眸に問う。


「なら何だと思う? 日向を動かすエンジン――その根底にある動機モチベーションとは何だろうか」

「そんなこともわかんねえのか。どう見ても寂しさの裏返しだろ」

「ふざけてないで言え」

「どうしてそう思う?」

「そんな可愛いものであるはずがない。日向と過ごせばわかるはずだ」


 陣内は「だよな」と苦笑した後、ぽつりと呟いた。


「快楽主義」


 推理を披露する探偵のような眼差しを向けられて、烈はしばし考え込む。


 持論は変わらなかった。


「私の見解とは違うな。私は運動欲求だと考えている」


 陣内が体を震わせた。自らを抱きしめるように腕を組むのを見ながらも、烈は構わず続ける。


「どうも日向は原始的な運動をこなす時に充実をおぼえるらしい。知的好奇心でもなければ複雑な駆け引きでもないし、達成感や破壊衝動でもない。いや、全く無いとは言わないが、無くても構わない程度の小さな動機にすぎない。かといって球技や格闘技には興味を示さなかった。日向が好むのは、パルクールや自重トレーニングのような運動だ。上手い語彙を知らないが、原始的、という言葉で伝わるだろうか」

「わかるぜ。プレイン、ピュア、ナチュラル――パルクールの哲学においてよく見かける概念だな。文明によって後付けされたものではなく、自然に元から存在するものを楽しむ。人間ではなく動物でも楽しめるような根源的な欲求の充足、とでも言えるか」

「通じているようで何より。だが、お前はそうではない、と言うのだな?」

「ああ」


 陣内は腕を解き、両手をコートのポケットに突っ込んだ。

 立ち姿が妙に様になっている。子供たちが見たら悪人だと驚くかもしれない。幸いにも今は誰もいないし、早退でもなければ当面帰ってくることもない。


「アイツは単に快楽を追い求めている――いや、追い求めいるだけだ」

「続けている、か」


 烈の復唱に陣内は頷き、


「通常、大きな快楽には破滅が伴う。ドラッグも、セックスも、飲食も創造も勝負事もな。だから人は最初から近づかないし、取り入れるにしてもセーブするし、一度遊べば消耗してしばらくは動けない。しかし、それで納得しないのが日向だ」

「私のイメージとは違うな。日向は衝動よりも理性だ。快楽と破滅よりも、平穏と安定を選ぶ」

「それは手段の話だろ。本質はそこじゃない。なぜ日向があんなに自分を安定させているかってことさ」

「その答えが原始的運動欲求の充足だと私は言って――……まさか」


 陣内がにたりと笑う。


「そうだ。破滅しないためさ」


 烈は額に手を当て天を仰いだ。大げさなリアクションはしないタイプだが、反射的にそうなってしまうこともあるのだと久しぶりに実感した。


 空が濁っているのを認識したことで我に返り、一呼吸置く。

 陣内に問う。


「――いつからだ?」

「最初からだろうぜ」

「何ということだ……」


 もう一度額に手を当ててしまう烈。身じろぎ一つしないまま、日向と過ごした日々を回顧する。


 十数秒ほどたっぷり巡った後、大きく嘆息して、


「きれいに筋が通りやがる」


 ずっとわからなかった真実に辿り着く。


 自立性。自律性。安定感――

 日向は恐ろしいほどに優れていた。

 たとえ世界が自分一人だけになったとしても、構わず生き続けるだろう。自己完結と言っても過言ではない境地に、日向は小学生の時点で至っていた。

 そんな子供は今まで見たことがなかった。


 人は人に依存する生き物だ。遺伝的にも社会的にもそうなっている。

 この仕様に抗うことは簡単ではない。一流と呼ばれる者たちさえも容易には抗えない。

 抗えるパターンは二つ。あるべき何かが欠如しているか、あるいはそれが霞むほどの何かを持っているか。


 日向はたしかに欠けてはいる。しかし、それだけでは説明がつかない。

 後者だ。

 他のすべてが霞むほどの何かを持っているに違いないのだ。


 その正体がずっとわからなかった。運動欲求というありきたりな見解で満足した気になっていた。


 日向を自己完結させているもの。その正体は――


「快楽の消費……か」

「ああ。それも極めてコンパクトな手段だぜ。なんせ人にも道具にも薬にも依存してないんだ。必要なのは己の身体と地形のみ。身体は自己管理できるし、地形はどこにでも腐るほどある」


 優れたトレーサーには、街は巨大な遊び場に見えるらしい。

 一生をかけても遊びきれないほどの遊び場。それが日本全国、世界各地に、数え切れないほど存在する――烈には想像もできない世界だ。


 陣内もそうなのだろう。校舎やグラウンドを見回している。日向がどのように過ごしてきたかを想像するかのように。

 しかし素人目にはただの廃校だ。「よくわかんねぇな」陣内は早々に投げた。


「私も一役買ってしまったのかもしれない」

「……どんな風に?」

「パルクールだよ。日向とパルクールを引き合わせたのは私だ」


 日向は自分でパルクールを知ったのではない。烈が引き合わせたのだ。

 当時高校生だったプロトレーサー『アラタ』こと新井新太に、パルクールの指導をお願いするという形で。


「ふっ。一役どころの話じゃねえな。パルクールは心身鍛練や地形攻略に意味や価値を見出す――言うなればものの見方や捉え方パラダイムでもある。つまり、れっちゃんは、ただ動き回ることしか脳の無かった猿に、まんまと知恵を与えてしまったわけだ」

「その言い方は腹立つが、そういうことになる……」


 烈が浮かない顔をしていると、豪快な笑い声が降ってきた。


「何を迷ってんだよ、れっちゃん」


 陣内は心底愉快な笑みを浮かべていた。


「らしくねえぞ。日向という鬼が、パルクールという金棒を手に入れたことは事実だ。現実だ。もう変わらねえよ。何を迷ってる?」


 烈は胸中で応える。


 ――快楽の持続的消費などという非常識かつ不条理な価値基準を認めてもいいものかどうか。


 日向が既に手に入れている自立と自律、そして安定は、烈が子供たちに教えている原則でもある。

 何よりもまずは生活と心身を安定させる能力と環境を手に入れることが先決で、その上に自らの価値観に従った目標と哲学を置く。そのためには自立し、自律することが必要不可欠だ。


 自分の人生は自分で決める。


 烈はそうあるべきだと思っている。それができるようサポートをすることが自分の務めだと考えている。

 子供たちの人生は子供たちのものなのだ。自分はそれらを尊重し、ただサポートするだけでいい。


 しかし、だからといって何でも許すわけにはいかない。

 たとえば社会や道徳、倫理や人情に背くことは許さない。社会的動物である人間には必ず守らなければならないもの、越えてはならないラインというものがある。


 では、快楽の持続的消費はどうか。


 もしこれが己を顧みない消費であれば、それは破滅である。陣内の言うように、危険なドラッグや乱れたセックスと同次元の行動であり、許すわけにはいかない。


 しかし日向は違う。

 地形を掌握し、攻略するために、頭と身体を動かしているだけだ。

 その負荷に酔いしれ、溺れているだけだ。

 傍から見た限りでは自傷行為や自殺行為に見えてしまうそれも、日向にとっては持続可能な消費にすぎない。圧倒的な身体能力と繊細で正確な感覚によって実現された、当たり前の日常ルーチンでしかない――


 実際、日向はただの一度も負傷したことがなかった。

 結果だけを見れば、他の子供たちやそこいらの人間よりもよほど安全で、安定しているのである。


 ならば尊重してやればいいのではないか。


 しかし烈は、首を縦に振りきれない。

 それなりに人生経験を積み、多くの子供たちを見てきた烈の直感が、警笛を鳴らしている。


「――何でもない」

「話したくなったら、いつでも言えよ」


 陣内が大きく息を吐き出すと、白い吐息が霧のように広がった。喫煙者とは思えない肺活量だ。


「ただ、これだけは言わせてもらおう。日向はパルクールと出会えたことに感謝していたぜ。オレも、そんな日向と出会わせてくれたことに感謝している」

「そうか」


 烈は思わずくすっと来た。

 出会わせてくれた親ではなく、出会ったものに感謝しているという言い回し。言葉の綾なのかもしれないが、日向らしいと烈は思った。


「日向のこと、頼むぞ」

「おうよ。このお礼はいつか果たすぜ。任せて良かった、これで良かった、とれっちゃんが心から言えるような土産を持ってきてやる」

「ああ。楽しみに待っている」

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