3 主体

 大浴場の名にふさわしい、大きな浴槽に、二人並んで浸かる。

 祐理の胸が少しだけ浮いているのを見て、烈が呟いた。


「良い胸だ」

「でしょ-。エッチしたくなる?」

「バカ言うな。よく鍛えられてるって意味だ」


 パルクールのおかげなのだろう。胸筋をはじめ、バランス良く引き締まっているから全体が浮かぶほどではない。しかし物量と柔らかさセックスアピールも同居している。それでありながら垂れてはいない。

 日々のメンテナンスからブラジャーの使い方まで、すべて適切に運用されていることがよくわかる。


「その様子ならモデルやグラビアアイドルもいけるな」

「えー、やだよそんなの」

「あくまで選択肢を掲示しただけさ。決めるのはお前だ」

「また出た。施設長パパって好きだよね。自分で決めろってやつ」


 烈は背中を預け、両手をふちに乗せて天を仰ぐ。あぁと年相応の極楽を漏らすと、何が面白いのか祐理がくすっと笑った。

 その祐理はちらりと茶目っ気たっぷりの顔を向けてきたかと思えば、頭を腕に乗せてきた。腕枕だ。


「私の教育方針は揺らがない。生きるとは主体的に生きることだ」

「ぶっちゃけめんどくさい時もありますよー」


 祐理は腕をぷにぷにと突いてきたり、縁をきゅっきゅとこすったりしている。


「大切なことはめんどくさいものさ」

「ですよねぇ」

「だから日頃から動かすんだよ、頭も手足も。そうすれば慣れてくる。耐性がつく。筋肉がつく。継続の重要性は、トレーサーのお前ならよくわかってるはずだ」


 飽きたのか、祐理はごろんと後頭部を押しつけてきた。特に筋肉があるわけでもない高齢者一歩手前の烈には、高校生の頭は重く痛い。

 しかし、それが心地良くもあった。


「そういう意味で、日向は非常に優秀だったな。あれは主体性の化け物だ。こうやって甘えられたこともないんだからな」

「一回も?」

「一回も、だ」

「化け物だね」

「ああ、化け物さ」


 吐息がくすぐったくて横を向くと、間近に祐理の顔があった。それがにししと微笑む。烈も思わず頬が緩んだ。

 空いた手で愛しい娘の頭を優しく撫でてやる。祐理は気持ちよさそうに目を細めたが、烈はすぐに止めて、わざと声音トーンを変える。


「この点を踏まえた上で祐理、お前が勝つためには――お前の価値を日向に示さなきゃいけない。わかるな?」

「……うん」


 祐理は頭を上げ、身体を起こすと、ちょこんと体操座りで座り直す。


「お前が持つ、日向にとって価値のあることはなんだ?」

「幼なじみであること?」

「なぜそう思う?」

「日向と一番一緒にいるのはわたしだもん。日向には恋人も親友も友達もいないけど、わたしがいる。日向もわたしのことは大切だって言ってた」

「ほう、意外だな。……いや、そんなものか」


 祐理が一方的に日向に突っかかる構図は、施設では一、二を争う名物だった。

 最初は邪険にしていた日向だったが、根負けしたのか、次第にぞんざいにしなくなった。困った祐理を助けたことも一度や二度ではない。


「なら告白したらどうだ。重さを演出しなければ、オーケーしてもらえるんじゃないのか。今の延長で、緩くも愛し合った関係になれるかもしれない」

「形式だけじゃ意味ないよ。わたしは本当に愛されたいの」


 烈に女の子の恋心はわからない。

 わからないことはどうしようもないが、代わりに選択肢やヒントを与えてやることはできる。


「少しいじわるな問いをするぞ。もし日向が何らかの事故を負って、半身不随になったとする。一生車いす生活で、もう以前のようなパルクールはできない。――それでも日向を選ぶか?」

「うん」


 即答だった。


「日向はね、大切な人なの。失いたくないの。でも、一方的に愛するだけじゃイヤ。愛されたい。わたしを見てほしい」

「ならばもう一つ。お前と日向が崖から転落して、何とかしがみついたとしよう。ぶら下がる順番は日向、祐理だ。二人とも力は残っていない。このままでは二人とも落ちて死ぬ。しかし祐理、お前が諦めて手を離せば、日向は助かる。――どうする?」

「その前提なら、わたしは死ぬと思う」


 またもや即行で返ってきた。


「――そうか」


 一抹の不安をおぼえた烈だったが、「そっか」祐理も何やら得心した様子だ。


「わたし、日向が心配なんだ」

「愛されたいのに、か?」

「もうっ!」


 ぽかぽかと右肩が集中的に叩かれるのを笑って受け流しながら、烈も決心する。

 日向を諦めろと言ったところで祐理が応じるとは思えないし、現状、人の道を外れているわけでもない――実際に撮り師として既に外れているが烈は知らない――から止める道理もない。


「お前の人生だ。お前が決めればいい」


 ぽかぽかの勢いがしぼんでいく。

 やがて手が止まり、肩に乗ったまま静止した。するりと腕が伸びてきたかと思うと、祐理がぴったりと抱きついてきた。


 右腕に二つのボリュームが押し当てられている。


「ありがと施設長パパ。お礼によ。最近ご無沙汰なんでしょ?」

もてあそぶのは私と日向だけにしておけよ」

「うぅー……」


 烈から離れた祐理はざぶんと立ち上がり、自分の胸を揉みしだきながら首を傾げている。


「そんなに魅力ないかなー、わたし」


 下乳という概念が形成されている光景を見上げながら、烈は助言を試みる。


「そんなことはない。むしろ十分すぎるくらいだ。自信を持て」


 祐理の恨めしげな視線はスルーして、


「その様子だと一緒に風呂に入れる仲ではあるんだよな。なら色々と誘惑して試してみるがいいさ」


 普段ならこのような発言はしない。

 烈は施設内の恋愛は認めているが、性行為は固く禁止しており、先日の慎太郎ときららの件も含め、違反者は厳しく罰してきた。


 性は人を狂わせる。ゆえに教育にも力を入れている。


 ただし日向に関しては例外だ。


 ――あの子は危ない。


 いくら主体性を重んじるとはいっても、それは人の範囲内での話である。化け物として羽ばたくことを許すわけにはいかない。

 そして日向という人間は、いずれは脱皮してしまうだろう。


 烈は言いようのない不安を抱き続けている。


 しかし烈自身では止められなかった。

 だから当時高校生の新井新太にパルクールの指導を頼んだし、悪友ではあるが確かな手腕を持つ陣内にもプロトレーサーとしてデビューさせるための監督役を託した。


 また、烈はこうも予感している。


 ――それだけでは足りない。


 人を人たらしめるのは社会性である。

 これを身に付けさせない限り、止まらないだろう。圧倒的な能力と動機を持つ、既に人間離れしているであろう息子は。


 そんな日向を食い止め、人として、社会的動物として、あるべき姿に留めておけそうな、おそらく唯一の選択肢が祐理である。


 日向もなんだかんだ男だし、祐理に対してはある程度気を許している。

 上手く結ばれてくれれば、それに越したことはない。

 たとえ日向と祐理が性に乱れても構わなかった。そんなことは脱皮に比べれば些細な問題だし、それで日向が全うな人間に成り下がるのならば、むしろ歓迎するべきことだ。

 それに、これは決して口にはできないことだが、生まれた子供については、最悪この施設で引き取れば良い。


「うーん……」


 もっとも祐理の浮かない顔を見れば、進捗は芳しくないようだが。


「祐理。継続の重要性を忘れるな」


 途端、祐理の表情が生き生きしだした。


「そっか、そうだよね……うん。まだ時間はある。日向のやろう、ちょっとだけど反応してたもん」


 感情を言動に乗せながら独り言ちている娘を見上げながら、烈は時間を意識する。

 まだ仕事が残っているが、明日に回しても良いことだった。


 烈は続行を決め、提案する。


「なんなら作戦会議するか? 一人の男として、フィードバックしてやるぞ」


 見下ろしてきた祐理の目は、胡散臭いものを見るような色を持っていた。


「他に相談できる奴もいないだろ。日向のことはわからんが、普通の男としての感想は言えるぜ」

「普通って……うそくさい」


 烈に自覚は無いが、烈は性的な事柄に振り回されるような男ではない。表面的にはしっかりしつつも、微かに男としての反応をしてしまう他の男性職員とは一線を画する。

 だからこそ祐理を始め、施設の女子は施設長パパを信頼している。裸の付き合いを請うこともあるほどに。


 祐理は渋々といった面持ちで湯の中に腰を下ろした。


 作戦会議はそれから三十分も続いた。

 のぼせかけていた烈だったが、すっかり明るさを取り戻した祐理を見て、満足そうに頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る