第1章 帰省

1 相談

 週末二日に渡った春日野高校文化祭『春高祭』が終わり――


 翌日、六月十九日の月曜日を迎える。

 残念ながら休日ではない。春高では午前中だけ登校し、後片付けを済ませることになっている。


 祐理はいつもどおりに登校したが、二年A組の片付けは早かった。

 出し物がアトラクション型なだけあって、午前十時にはホームルームまで終えていた。


 祐理は沙弥香らとの雑談も程々に切り上げ、日向にもまとわりつくことなく一人で下校する。

 ただし、行き先はいつもの居候先ではない。


 児童養護施設『村上学校』。


 とある田舎の廃校が丸々施設化されており、空間的には潤沢かつ贅沢な故郷である。

 放課後の小学校を連想させるグラウンドの喧噪、古びた木製の校舎、敷地を取り囲む森――その景色は数ヶ月前とちっとも変わっていない。


 祐理は野球で遊ぶ子供たち、もとい弟妹たちの邪魔にならないようグラウンドの隅を歩いて正面玄関へと向かう。

 お目当ての人物はちょうど廊下を通りがかった。


「おう、早いじゃないか」

「ただいまー……」


 祐理はため息交じりにランニングシューズ――転校直後はローファーを使っていたが肌に合わず替えている――を脱ぎ、100を超える穴が並ぶ下駄箱の一画に差し込む。


 一瞬だけ視線を隣の穴に向けた。ほこりは積もっていないが、使われた形跡も無い。


「文化祭は楽しかったか?」

「うーん……うん」

「行けなくて悪かった。慎太郎ときららの件で忙しくてな」


 今年で中学生になる二人は、愛し合うあまり性行為に至ったと聞く。施設長直々に教育しつけを施したに違いない。


「もう大丈夫なの?」

「見ての通りだ」


 施設長――村上烈むらかみれつが、祐理の背後を見やる。

 祐理も振り返ると、ちょうどバットの金属音が響いた。打ったのは慎太郎。文句無しのヒット。

 男女混合のため女子も混ざっている。きららはサードとして突っ立っていた。慎太郎が一塁に着いた後も、二人が意味深に目を合わせる様子はない。


「信じられないくらいさっぱりしてるね」

「きつくしつけたからな」

「うえー」


 露骨に嫌そうな顔をした祐理に対し、烈は一瞬微笑を寄越した後、再びグラウンドを見る。

 その表情には安堵が漂っていた。


「――間に合って良かったよ」


 祐理は施設長パパのことを知っている。

 鬼のような厳しさも、親のような優しさも。


「この後はどうする? コーヒーでも飲むか?」

「ううん。裸の付き合いがしたい」

「おう、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」


 裸の付き合いとは、烈と二人きりで大浴場――村上学校には大浴場しかない――に入って話し合うことである。

 施設としてのルールではないが、古くから続く伝統であり、施設の子供たちは誰にも打ち明けられない悩みを相談してきた。息子だけでなく年頃の娘と入ることも珍しくない。


 無論、烈から誘うことはなく、常に子供側からの要請で開始される。

 中でも祐理は多い方で、小中合わせれば五回を超える。


「なに? 欲情してんの?」

「そういう話じゃねえ。父親冥利に尽きるって言ってんだ」


 烈は祐理の全身を眺めて、


「しかし相変わらずえげつない身体だ。サボらず鍛えてるのか?」

「うん。主にパルクールだけどねー」


 烈は祐理の身体的魅力をいち早く見抜き、性に乱れたり暴漢に襲われたりしないよう指導してきた。その内容は知識や筋トレ、心持ちや習慣など多岐に渡り、祐理には継続的に続けるよう言い聞かせている。


「――日向は落とせたか?」


 ぴくりと祐理の肩が揺れ、恨めしげな目を向ける。

 烈は豪快に笑った。


「青春じゃねえか」

「全然だよぅ」


 祐理が肩を落としてみせると、頭をぽんぽんとなだめられる。


「今夜はゆっくりしていけ。洗濯があるなら早く出しておけよ」

「はーい」


 烈の背中が見えなくなってから、祐理はランドリールームに向けて歩き出した。






 施設内に存在する浴室は一カ所――元々体育倉庫があった場所を改修して建てられた大浴場しかない。

 男子も、女子も、職員も、施設の関係者全員が毎日ここを利用する。

 掃除する時間帯と利用可能な時間帯は厳密に定められており、生活に規律性とメリハリを生んでいる。


 当然ながら一人きりで独占することなど許されないが、唯一の例外が施設長こと村上烈であった。


 そもそも大浴場は烈が銭湯好きゆえに実現したものであった。建前では教育のためとなっており、烈が執筆した教育論の本にも『大浴場から生まれるコミュニケーション』と題した章が設けられていたりするが、本音は単に毎日銭湯を味わいたいだけである。


 烈が利用する時はKEEP OUT立入禁止の札が掛けられる。よほどの緊急かつ重要な用事でもない限り、何人なんぴとも干渉することはできない。


 しかし十数年ほど前、そんな烈の聖域に押し入った息子がいた。

 彼は当時の問題児で、誰にも知られたくない深刻な悩みを抱えていたが、烈は良き相談者としての役目を果たした。


 それが口コミとして子供たちの間で広がり、『裸の付き合い』として今なお続いている。


 午後九時の大浴場。

 出入口にはKEEP OUTの札がかけられている。


 脱衣所には綺麗に畳まれた男物の着替えが一セット。その隣に、いつもは無いはずの、女物の着替えも置かれている。

 そしてスモークガラスの引き戸に微かに映っているのは、一列に並んで座る、肌色のシルエット。


「背中。洗ってあげるよ」


 祐理は返事を確認することなくボディタオルをぶんどり、父親の背中をこすり始めた。


施設長パパ、痩せた?」

「少しな」

「無理しちゃダメだよー?」

「心配無用だ。それより、もう少し優しくこすれ」

「はーい」


 祐理が力を緩めると、烈は軽く座り直した。

 横顔をこちらに向けて、


「同居は上手くやれているのか?」


 その問いを聞いて、祐理の手が止まる。

 表面的な日常と感想については、たまにLIMEで送っているが、烈が聞いているのはそういうことではない。


「んー……いまいち」

「だろうな。日向の手強さは私も知っている」


 烈が陽気に笑うと、祐理は「むー」頬を膨らませて力を込めた。


「衝動的に行動するのはやめなさい。勢いだけで落とせる相手でもないのだろう?」

「うぅ、ごもっともです……」

「そうだな、状況を把握しよう。まずは祐理。お前のゴールを聞かせてくれ」


 背中を一通りこすり終えると、烈は手を差し出してきた。ボディタオルを返却しつつ、祐理は言葉を組み立てる。

 体の前面をみるみる泡立たせていく父親を鏡越しに見ながら、祐理は口を開く。


「――日向と結ばれたい」


 烈は頷いた後、


「日向と付き合いたいか?」

「うん」

「日向とエッチしたいか?」

「うん」


 施設では烈が直々に性教育――といっても本格的で体系的な座学だが――を施し、性的な話題に対する気恥ずかしさはそこで解消される。

 今さら返答を躊躇うことはない。


「日向と結婚したいか?」

「うん……うん? どうだろ?」


 祐理がうんうん唸る中、烈は淡々と体を洗う。


 続いて頭と顔に着手する烈。

 その間も祐理は答えを出せない。


「わかんない」


 祐理の降参を受けて、白く泡だった頭部がぴくりと止まった。


「わからないなら、決めてしまえ」

「……どゆこと?」


 烈はシャワーを被った後、カミソリを手に取ってひげそりを始めた。


「祐理。厳しいことを言うとな、あまり時間は残されていないぞ」


 しゅっ、しゅっ、と肌をなぞる音が鮮明に聞こえる。

 呑気な自分を急かすようで、祐理は少し苛立った。うあーとでも叫びたくなったが、さきほど注意されたばかりである。ぐっと堪えた。


「日向は夢に向かって突き進んでいる。社会性を養わせるために高校卒業を課してはいるが、それだけだ」

「夢……」

「あいつを縛れるのは高校まで、ということだよ」

「夢って何なの?」

「本人の希望もあって詳しくは話せない。察しはついていると思うが」

「うん。パルクールのプロでしょ」


 祐理は以前、日向から聞いたことをさらりと言ってみせたが、内心は不服を抱きっぱなしだ。

 そんな表面的な情報はどうでも良かった。肩書きに大した価値などない。


 肝心なのはその動機だ。


 なぜ、何のために、プロを目指しているのか。

 どうやってなろうとしているのか。

 プロになって、何をするつもりなのか――


 誰よりも日向と過ごしたはずの祐理だが、全くわからない。


 富や名声を求めているわけではなく。

 モテたいわけでもなく。

 新太のように、ただただ高みと深みを追い求める探求者というわけでもない。


 あえてプロを目指すタイプには見えない。しかし、目的無く日々を怠惰に生きることを許すほど凡愚な人生観でもないはずだ。


「日向がプロを目指すと言われても、まったくピンと来ないんだけどねー……」

「……」


 烈は何も語らない。


 その脳内では何が思い出されているのか。

 祐理より多くの情報を知っていることは間違いない。そもそも日向の一人暮らしを認めたのは烈である。子供の安易な一人暮らしを許さない以上、日向から相応の理由あるいは条件を提示されているはずだ。


 そんな烈の表情は、少なくとも晴れやかではなかった。

 天気が崩れるのを心配するかのように。ほんの少しだけ曇っていた。

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