3 水入らず

「捕まえてくれ、と叫んだそうだな」


 校長室の窓からはグラウンドのキャンプファイヤーがよく見えた。

 室内にな上質のソファーがあり、春子が座っている。俯いていた。


「お前を出し抜くほどの相手だ。ただの生徒では歯が立つまい。どころか返り討ちに遭うだろう。そうは考えなかったのか?」


 男が振り返る。

 春日一久かすがかずひさ。春子の父親であり、春日家の頂点に君臨する傑物。大物の芸能人や政治家よりも権力を持つとさえ言われる象徴シンボルとして、富裕層や一部の界隈で知られている。


 今は商店街をふらついてそうな軽装をしている。足元もサンダルだ。加齢具合も年頃の娘を抱えた父親にふさわしく、何も知らなければ「偉そうなおじさんだ」と反発したくなるかもしれない。

 しかし春子にそんな気は起こらない。この父親のことはよく言っている。春日家を支える、この人物は形式が嫌いなのだ。


「生徒会長を目指しているのだろう? 生徒の安全は考えなかったのか」

「……申し訳ありません。私情をはさんでしまいました」


 春子は盗撮を嫌悪している。

 小学生の時に自ら被害に遭ったこと。知人も被害に遭ったこと。動画共有サイトに見覚えのある制服を来た女子の盗撮動画があったこと。そこに気持ち悪いコメントが多数寄せられていたこと。その手の動画が何千何万と存在する事実に、日本警察では取り締まりが難しいという現実――

 歪んだ性欲も。

 弱者を食い物にする所業も。

 手間暇を惜しまない巧妙な手口も。

 すべてが嫌悪の対象だった。

 いや、憎悪とさえ呼べるかもしれなかった。春子は安直に悪口を言わないよう、また思い浮かべることさえないよう教育されているが、それでも「死ねばいいのに」と独り言を呟いてしまうほどに、彼らが許せなかった。


「判明している被害状況は?」

「少なくとも私はやられたと思います」

「それだけであんなに必死だったのか」


 春子が顔を上げる。

 父親の双眸は冷たい。娘が被害に遭った可能性を前にしても少しも取り乱さない。仕事モードの父親に私情という概念は存在しない。


「結局逃走犯は見つからなかったよ。やり手なのか、はたまた町内に潜んでいるのか。結構な手間を割いたのだがな」


 春子は言わば父親の権力を乱用したのである。

 裏で何人、何十人、もしかするとそれ以上の人員が動いているはずだった。


「なぜだ? 感情論は無しだぞ」


 父親が理由を問う。

 既に知っている嫌悪や憎悪は抜きにして、自分を納得させる理由を申してみろと。そう言っているのだ。


「……直感です」


 父親は黙ったまま春子の対面に腰を下ろす。


「直感で、絶対に逃がしてはいけないと思いました」

「勝負に負けたから、という悔しさから来た、安直な行動ではないのかね」

「そんなものはございませんっ!」


 春子はだんっとテーブルを叩き、前のめりになって父親を睨む。


「そんな次元は超越していました。一言で言うなら――おそれです」


 言い終えた後、自分の暴走に気付いた春子は少し顔を赤らめ、ソファーに座り直す。

 父親はかすかに頬を緩めていた。


「良い。直感は大事だ」


 一久は背中を深くソファーに沈めた。

 許してもらえたのだ。春子は安堵のため息を漏らす。


「にしても他にやり方は思いつかなかったのか。さすがに無茶が過ぎるぞ」

「ごめんなさい……」


 春子は苦笑しながら答えたが、すぐに真顔に戻る。


「春高として行うべきことはあるか?」


 春子は少し考えてから、


「いいえ、ありません。今回のようなイベント限定の出来事ですし、まさかトイレに監視カメラを仕掛けるわけにもいきませんから」


 盗撮は社会問題として一応認識されており、トイレ盗撮が少なくないことも警察は知っている。それでもトイレ盗撮を減らせないのは、ひとえに個室に干渉できないからだった。人権を尊重した上で盗撮を防止する仕組みは、今のところ生み出されていない。

 代案として利用者側に警戒を促すことも考えられるが、「盗撮注意!」などと張り紙をするわけにはいかない。危険スポットだと自白しているようなもので、客足が遠のいてしまう。唯一の例外は、評判に左右されない駅のような場所くらいだが、春高はそうではない。採用するわけにはいかなかった。


「ならばこの件は終わりだな」

「はい……」


 警察による聴取や検証はまだ残っているが、春日家はこれをスルーしている。

 この父は不正を許さない権力者ではあるが、同時に『時は金なり』を強く体現した時間ケチでもあった。時間を浪費する者は誰であろうと、何だろうと容赦はしない。事実、その権力を行使しているからこそ、こうして親子水入らずでくつろげていた。


 しばらく無言の時が流れる。

 一分ほどだろうか、父親が立ち上がり、再び窓際に寄った。

 春子もその隣に移動する。


 キャンプファイヤーを見ていると、頭から声が降ってくる。


「春高祭は楽しかったか?」


 春子は答えられなかったが、消化不良の面持ちを浮かべていることは自覚していた。

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