最終章

1 手品

 午後四時の春高は未だ祭事の喧噪に包まれていた。地理に詳しい春高生でさえも人目の無い場所を探すのは難しいだろう。

 そんな中、貴重とも言える静寂な場所が一つある。校内北西部の、プールの裏だ。

 立入禁止のロープを二回ほど越えて、ようやく辿り着けるそこに、新太兄妹がいた。


 人目を避けて話がしたいという沙弥香の発案だった。

 沙弥香もまたトレーサーであり、校内で練習場所スポットを探そうと考える程度には熱心でもある。トレーサーにとって、このような場所を把握してしまうことはごく自然なことと言えた。

 問題はファンに取り囲まれていた新太であったが、沙弥香はLIMEを見ろとだけ告げた上で、ここに先回りしていた。しばらくして新太がやってきた。新太にかかれば、群衆から逃れることなど大差ない。沙弥香はこの場所への行き方を送っていたのだ。


「――キャシー・キャサリンか。知らない名だ」

「でしょうね。どうせお兄ちゃんクラスにもなれば新着動画なんて見ないんでしょ」


 キャシー・キャサリン。アメリカで活動する女性トレーサーである。

 パルクール歴も浅ければ露出も浅く、動画の再生数も数百という程度の有象無象。沙弥香が見つけたのも全くの偶然なのだが、その動きが特徴的で、一目見て気に入った。ブラウザでもブックマークしている。


「まあいいわ。そんなことより、本題はここからよ」


 沙弥香はことさら深刻な表情をつくってみせてから、言った。


「ねぇお兄ちゃん。今からアタシの言うことができるか、試してくれない?」


 沙弥香は逃走犯と戦った時の状況を共有した。

 彼女の足、その軌道を読んで捉えようとしたこと。

 タイミングはどんぴしゃであり、不可避の必殺であったこと。

 にもかかわらず、避けられてしまったことを。


 片足とはいえ、重力に抗ったのである。

 そんな人間離れした動きは、少なくとも自分にはできない。一生をかけても無理だろう。ある程度実力があり、トレーサーとして人間の身体と向き合ってきたからこそ、沙弥香は冷静に算定できた。


 彼女は何者なのか。どの程度の化け物なのか――

 この答えを知るべく、最も身近で、最も優れた化け物に聞いてみることにしたのだった。


 身振り手振りも交えながら沙弥香が説明を済ませた後、新太は端的に応える。


「無理でしょ」

「でも、できていたわ」

「……」


 新太の呆れるような眼差し。


「できていたのよ。やられたのよ。アタシが足を捕まえるタイミングは完璧だった。その足が、フッと消えたの」


 垂直落下するボールをバットで飛ばしたかのように、足の軌道が変わったのだ。

 忘れるはずもないし、見間違いであるはずもない。沙弥香は譲らなかった。


 新太は「なら」と一置きして、


手品マジックでしょ」

「そんなはずないっ! ……この目で見たもの」

「人の記憶ほどあてにならないものはないよ」

「アタシは間抜けじゃないわ」

「間抜けは関係ないよ。人が持つ脳の性質だ」


 納得のなの字もない表情を見た新太は、沙弥香の目の前に顔を近付け、人差し指を立てる。

 兄が妹にたまにやる、お説教モードだ。


「いいかい沙弥香。相手が何らかの手品を使ったことは間違いないんだ。僕はそれなりに鍛錬をしてきたから、人間の仕様上の限界というものがわかる。沙弥香の言っていることは、人間には不可能だ」

「でも……」

「人は思っている以上に騙されやすいんだよ。脳は単純だからね」


 新太は目の前に握り拳をかざす。それをいったん開いて手のひらを見せた後、ぎゅっと握りこみ、数秒ほどでもう一度開く。五百円玉がちょこんと乗っていた。

 沙弥香は驚いて見せたが、直後、ばつが悪そうに顔を背ける。


「ほらね」

「うるさい」


 語気は荒いが、勢いは無くなっていた。


「……文化祭、もう終わるよ。いいのかい?」

「良くないわ。デートの続きね」


 この妹は吹っ切れるのも早い。面倒な兄妹サービスはまだまだ続くのだろう。


「デートじゃないよ。兄妹で遊びに来てるだけだよね」

「親密な異性が二人きりで出かける。これをデートと言わずして何と呼ぶのかしら」


 沙弥香がいつものブラコンモードに戻り、新太は胸中でほっとなで下ろした。


 沙弥香の背中を追いかけながら、頭の片隅に置いていたネタを振り返る。

 沙弥香から話を聞いている時に、それは思い浮かんだ。買い物の漏れを思い出すかのような、突然のひらめきだった。

 しかし、そのようなものこそ重要なのだと、新太は知っている。

 脳は単純だと言ったが、同時に複雑でもある。これまでインプットされた情報が絡み合って、新たな知見や見解を出すことも珍しくない。ただ、普通はそれに気付かないか、気付いたとしても対応する言語表現や概念がないせいで捉えられない。夢みたいなものとも言えるだろう。


 新太はそういうものを見逃さない。真面目に向き合い、考えてみて、何とか捕捉を試みる。そのための知識や手法も学び、取り入れてきた。

 その甲斐もあって、逃さずに捉えることができていた。


 そうして新太が捉えたもの。それは――


 今日サボっているはずの図書委員だった。

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