10 ステージ3

 三階の渡り廊下から校門を見下ろしていると、間もなく憎らしい背中が姿を表した。

 街中を逃走するシーンは映画で見たことがあったが、眼前の光景はそれらよりもはるかに容赦が無かった。既に複数人が威嚇され、突き飛ばされていた。

 彼女が親子連れの間を突き抜ける。

 幼児とおぼしき女児が派手に転倒、後頭部を強打した。

 泣き声がここまで届いてきた。逆を言えば、泣き叫べる程度には軽傷だと言える。不幸中の幸いだった。


 春子は歯噛みしながらも、片手にはスマホを握り、耳に押し当てていた。

 忙しい人物であることは知っているし、焦っても意味がないことは理解していたが、それでももどかしかった。


 しばらくして、通話が繋がった。

 春日一久かすがかずひさ

 春子の父親であり、春日家の頂点に君臨する権力者。


「お父様。お願いがあります」


 開口一番、不躾にも程があることは誰よりも春子がわかっていた。

 だからこそ、あえてそこまでして依頼することの意味も通じるはずだと春子は信じた。


「――言ってみなさい」

「今すぐ包囲してほしい人がいます」


 春子は現状と、それを踏まえた上での大胆な依頼を端的に伝えながら、ダッシュで生徒会室に向かう。

 戸を破壊する勢いで開けて中に立ち入る。現生徒会長の寧音ねねがまだくつろいでいた。何か声をかけてきたが、春子はこれをスルー。そのただならぬ様子に寧音も気付き、慌てて席を立ってテーブルを空ける。その配慮がありがたかった。


 父親に用件を伝え終えた春子は紙とペンを手にして、何かを描き始める。

 右手でペンを走らせつつ、左の肘で紙を押さえながら、その手にはスマホ。カメラを起動しているらしいことが寧音にはかろうじて見えた。

 紙に描かれた線の集合が、間もなく意味を成す。人物の模写らしかった。

 春子はいったんスマホを置き、美術部顔負けのスピードで模写を仕上げていく。手早く仕上げた春子はそれをスマホで撮影した後、しばしタッチパネルと格闘。両手持ちの、鮮やかなフリック入力だ。


 相変わらずの技のオンパレードは、見慣れた寧音でも思わず苦笑するほどだった。


「ふぅ……」


 春子は一息ついてみせた。その顔はまだ曇っていたが、一応一段落したことを伝えているのだと寧音は理解した。


「何があったの、春子ちゃん」

「盗撮犯です。とびっきり凶悪の」


 春子の表情が歪む。嫌悪でも敵意でもなく、憎悪とも呼べそうなほどの凄み。おそらく自覚は無いのだろう。寧音はそれ以上話しかける勇気を持てなかった。


 頬杖をつきながら春子は考える。

 強引ではあるが、クリティカルな一手を取ったはずだ。


 ――春日野町を丸ごと包囲します。


 それが春子の作戦だった。


 まず、あの盗撮犯は町の外に逃げるものと仮説した。

 心理的に自宅の近所で盗撮に及ぶとは思えないし、春日野町に隠れ家があるとも思えない。仮にあったとしても、この町は閉鎖的なニュータウンであり、あの風体では目立つ。加えて、町は春日家の制御下でもあり、たとえば目撃証言を集めることも容易い。

 なるべく早めに町の外に出ることを優先する――そう考えるのが自然だ。


 ならば、これを封じてしまえばいい。

 春子は無茶を承知の上で、一久かずひさに包囲網を敷いてもらうよう要請したのだ。手がかりとなるイラストは自ら描いてすぐに送る、とした上で。

 そして実際に描き、送ってみせた。


 つまりは盗撮犯の指名手配であった。


 今頃、手配は町全域に及んでいるだろう。

 この後、どんな叱責を食らうかは想像もつかないが、そこまでしてでも捕まえておく意味があると春子は信じてやまなかった。






 しかしながら、そんな春子の期待も虚しく。

 検問の網には何も引っかからなかった。




      ◆  ◆  ◆




 道の無いところに名前は無い。

 日向はここがどこであるかを一言で表す語彙を持っていない。ただ、地名を言うことはできた。


「春日野町も広いもんだ」


 日向は山中に潜んでいた。

 春日野町は山を切り拓いてつくられた地形だ。綺麗な町並みではあるものの、周囲は身長の数倍以上はある擁壁ようへきに囲まれている。そして擁壁の先にあるのは、手つかずの自然。道ですらない、草木の茂み。

 住民――特に町の端に住む住民であれば、時折鹿や猿が現れる程度には自然が近いことを知っている。だからといってハンターを雇って討伐することもない。せいぜい電気柵などで自衛するだけであり、それで十分だった。また、この辺りは登山道としても整備されていない。


 結論として、この擁壁の先に人が潜んでいることなど誰も、考えもしない。

 だからこそ日向はここを選んだ。


 春高から無事逃走できた日向は、春日野町の外周を走り回り、人目につかないタイミングで擁壁を越えて、その先――道無き山中へと逃げ込んでいた。


 日向は改めて思う。

 春日野町の土地はすこぶる広い。

 公表されているデータによれば数千人が居住する町相応の面積であったが、体感的にはその数倍はある。

 山だ。人工的に切り拓かれていない、原始的な自然。人間ではろくに行き来すらできないほど草木が、枝が、花や葉が立ち塞がり、虫という名の番人も闊歩している、無慈悲な世界。これを日向は軽々と移動する。


 日向は自然が好きだった。

 誰にも邪魔されず、汚損や破損も気にすることなく、地形や形状や配置に規則性を持たない自然というフィールドは、決して飽きることのない、格好の遊び場であった。

 パルクールは都会や人工物をターゲットとした移動術であるが、日向の真髄はそこではない。むしろ自然環境を自由自在に行き来する総合力こそが日向を日向たらしめる武器である。


 そんな山中の一画に、拓けた部分がある。

 広さで言えば八畳くらいで、地面は岩石から成っている。中央には頑丈そうな枯れ木が一本伸びており、人がぶら下がっても耐えられそうな、太い枝を生やしている。その一本にリュックがぶらさがっていた。

 日向はこれを取り、己の女装を解いた。

 手早く着替え終えて、「ふぅ」地べたにどかっと座り込む。


 ここまでが日向の計画だった。


 ――ケッコンで入賞するために、春高祭で女生徒の局部を撮る。


 日向は普段から春高で盗撮を行う撮り師JKPJKぺろぺろであるが、JKPはそれなりの人気を誇っている。春高――もっとも視聴者はどこの高校なのかを知らないが――の女生徒という文脈はそれだけで武器になった。ブランドとさえ言えた。

 つまり春高生女子の局部には、ただの女子高生以上の価値があった。加えて接写である。局部を間近で、鮮明に映した接写はただでさえ数が少ない。優れた女性撮り師といえど、おいそれと撮れるものではないのだ。

 JKPブランドの接写動画――日向にしか生み出せない、貴重で、垂涎すいぜんものの作品と言えた。


 しかし接写にはリスクが伴う。

 設置型盗撮トラッピングとは違い、物理的に近いがゆえに気付かれやすいし、気付かれたら逃走しなければならない。捕まらない自信はあったが、目撃されること自体が大きなリスクだ。文化祭という、人の多い舞台ならなおさら。

 だからといって、日向に妥協の意思はなかった。そもそも妥協して入賞できるほど甘い世界ではない。


 日向はリスクを受け入れることを決意し。

 気付かれた後の逃走まで織り込んだ計画を立てて。

 こうして実行に移し、完遂したのだった。


「相変わらずヘトヘトだ。もうちょっと燃費を改善したいところだな……」


 地面に寝そべった日向はリュックを引き寄せ、ゼリー飲料の束を乱暴に取り出すと、飢えた獣のように吸い始めた。

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