9 ステージ2

 それは一瞬の出来事だった。

 一般棟四階、女子トイレの出入口を見張る二人の間を、何かが通り抜けた。

 それは壁に激突しそうだったが、バットで打たれたボールのように一瞬で方向転換をした後、階段のある方へと疾走していった。


「うぉ」

「うわっ!?」


 見張り役の男子二人――うち一人は尻餅をついた――が呆然と見送り、すぐに我に返ったところで、もう一度何かが抜ける。

 自分達を寄越した張本人、春日春子だった。

 その手にはトランシーバー。こちらを見向きもせず、何かを叫びながら追いかけているようだ。その顔は苦痛に歪んでいた。


『盗撮犯を発見した! 至急すべての校門を固めてくれ! 身長の高い女でベージュ色のハンドバッグ。アスリート並に逃げ足が――』


 インカムに春子の声が届く。

 途中で切れたかと思うと、がたんと耳障りな音が響いてきた。


「投げ捨てたな。ってて」


 尻餅をついていた男子が起き上がりながら、呑気に呟いた。






 春子は死力を振り絞って逃走犯に食らいついた。

 自分の負傷も軽くはない。こんなに動いてしまえば完治は遠のいてしまうかもしれなかった。しかし、止まるつもりはなかった。


 ――あれは逃がしちゃいけない。


 ただ者ではなかった。

 プロの盗撮家。そんな造語が春子の頭に浮かんだ。

 彼女は明らかにそこいらの性犯罪者とは頭一つ、いや二つも三つも飛び抜けている。そんな存在を野放しにするわけにはいかない。


 春子は四階フロアの階段にさしかかった。

 手すりの隙間から下を覗くと、盗撮犯は三階に下りたところだった。意外と距離が詰まっている。盗撮犯は人混みを避ける必要があるのに対し、春子は彼女によって開けられた空間を突っ切るだけで良かった。今も階段の手すり側が綺麗に開いている。この差は大きい。順当に行けば確実に追いつける。


「逃がさないぞっ!」


 周囲の人垣が揃ってびくっとするほどの声量を出してみせる。

 逃走犯に効いたかどうかはわからない。春子は階段を下りていた。

 三階と四階の踊り場に着く。手すりを握って方向転換しつつ、その間から下を覗く。


「くっ……」


 盗撮犯は二階に下りていた。その移動スピードは単純計算で春子の二倍。

 春子は階段の降り方に習熟しているわけではないが、女子高生離れした地力は遠慮無く発揮した。これを抜ける者は男子でもそうはいないと自負している。にもかかわらず、二倍という圧倒的な差を叩きつけられた。


 追いつけないことを直感的に悟った春子は、手すりを掴んだまま体を無理矢理停止させ。

 息を吸い込んでから――叫ぶ。


「誰か! そいつを捕まえてくれっ!」


 生徒を危険に巻き込まないとする配慮は、今の春子からはすっぽり抜け落ちていた。






 その悲鳴のような懇願が聞こえた時、成瀬誠司なるせせいじはキーワード『金髪』のオーリーとして、校舎一階の階段前をぶらついていたところだった。

 声の主には覚えがある。こんな勇ましい女声はそうはいない。

 彼女が表彰されている光景が蘇った。あの春日春子に、こうも叫ばせる相手とは。


 ――ヒーローになれるかもしれない。


 誠司はずっと消化不良だった。

 佐久間琢磨のように一位を取ることもできなければ、一ノ瀬祐理のように夢中になれる対象もないし、渡会日向のように見栄と体裁を気にしないマイペースを貫くこともできない。

 かといって現状から脱しようと努力する気は起きない。しかし脱したいのである。

 そんな都合の良い出来事がそうは起こらないことを誠司は知っている。しかし、まったく起きないかというと、そんなことはないはずだ、と甘くて淡い期待を持っていた。


 たぶん、今がそうなのだ。


 誠司が反射的に見上げた先、一階と二階の踊り場には女性がいた。品定めする余裕はない。覆面をつけていることと、身丈があることくらいか。それが鬼気迫る様子で、何かから逃げているらしい。おそらく春日春子だろう。

 誠司は身構えた。無意識のうちに、彼女が次に進むであろう、階段に目を向ける。


 そこに彼女は来なかった。


「なっ……」


 彼女が踏み出した先は手すり。

 そんなことをすれば転倒するに決まっていた。がくん、と彼女の高度が落ちる。しかしそれは転倒によるものではなかった。


 彼女は手すりの上を下っていた。走っていた。


「――はぁ?」


 階段を一足に飛び降りるのと大差ない時間で、彼女は一階に着地する。ほぼ同時に誠司が、捕まえようと半ば慌てて飛びつく。


 間に合わない気がした。

 誠司はゼロからのスタートで。

 彼女には既に勢いがあって。


 スポーツで培われた勘の良さは正しかった。

 振り回した腕が空を切り、直後、身体ごと地面に落ちる。

 痛みなど気にならない。慌てて顔を上げると、一瞬だけ彼女の背中が見えたが、何かにタックルをかまして方向転換を図り、下駄箱の先へと消えていった。

 その後、彼女に吹き飛ばされていた女子中学生が、思い出したかのように転倒した。勢いは非常に強かったらしく、ごろごろと横転していた。






「ああもうっ! 何なのよっ!」


 一般棟生徒玄関には新太と、それを囲む数十人の人だかりができていた。新太が熱心なファンに見つかってしまい、ものの数分でこうなってしまった。

 外に弾き出された沙弥香は苛立ちを募らせており、今まさに強引に割って入ろうとしていたが、


「きゃあっ!?」


 後方――下駄箱の方から女子の悲鳴が届く。

 沙弥香が振り返ると、まず目に入ったのは奥側、下駄箱の終点あたりで絶句している女子。その横顔は死体を発見したかのように青ざめている。視線の先は下駄箱で見えないが、沙弥香は淡白である。いちいち見に行くほど野次馬ではない。

 そもそもそんな場合でもないのは明らかだった。


 突進。


 その二文字を沙弥香は思い浮かべた。

 身丈の高い、ハンドバッグを手に抱えた女性が、こちらに向かっている。

 沙弥香には見覚えがあった。四階の女子トイレで見かけたばかりだ。


 容姿だけじゃない。その動きにも覚えがあった。


「キャシー……」


 彼女本人でないのは明らかだったが、その動きは彼女そっくりだった。

 壁を越えるのではなく、ぶち破るんじゃないかと思われそうな、異様に迫力のある助走。それでありながら女性的な柔らかさが残っているフォーム。そんなトレーサーは世界広しと、二人といないだろう。

 なぜ彼女のようなマイナーなトレーサーが。


 疑問は絶えなかったが、いったん思考を放棄する。

 なぜだか知らないが、目の前の彼女は逃がしてはならない気がした。


「ここは通さないわ」


 沙弥香はあえて立ち塞がってみせた。

 他の出入口は新太とその群衆で塞がれている。外に出たいなら沙弥香を越えるしかない。


 猛進する彼女は止まらなかった。沙弥香を気にした素振りもない。

 まるで競技トラックを走る短距離選手だ。全力は出しているが、障害が介入することを疑っていない。あるいは障害にもならないと踏んでいるのか。

 沙弥香はイラっとした。


「通さないわよ!」


 ファイティングポーズのような構えを取る。

 上半身も、下半身も、すべてを素早く動かせる体勢だ。元々はパルクール鬼ごっこ――いわゆるチェイスタグではなく、新太を中心に確立されつつある別の競技である――で鬼に追い詰められた時の、鬼のタッチを回避する技術であったが、これは護身術など術を確実に発揮するためのホームポジションとしても使える。

 誰にも喋っていないが、沙弥香には暴漢を撃退した経験もある。新太に見合う女性になるために。そして、いざとなれば力づくで新太を拘束し、また襲うために。沙弥香はこの手の戦闘能力を鍛えていた。


 彼女が肉薄した。肩を突き出す構え。タックルだ。

 沙弥香は体勢を落としつつ側方に回避。すぐそばを彼女の足が通り過ぎようとする。


「通さないって言ってんでしょ!」


 彼女の足を掴むのが沙弥香の作戦だった。

 掴むと同時に自らを滞空させれば、相手は沙弥香の体重を丸々片足で受けることになる。人間一人分の重さを食らったまま走り続けるなど、よほどの体格差でもない限りは不可能だ。相手とはそれほどの差はない。必ず転倒する。

 転倒した後は、寝技に持ち込んで拘束すればいい。


 沙弥香は勝利を確信した。


 タイミングはジャストだった。

 地面に突き刺そうとする彼女の右足――その軌道を読み、たしかに捉えたはずだった。


「え……」


 彼女の右足が消えていた。

 沙弥香の体が無防備に落下する。本来なら掴んだ彼女の足がクッションになるはずだった。そこまで計算していたから、受身は取っていない。沙弥香はもろに反作用を受け、慣性で地面上を滑り、複数の擦り傷ができたことを自覚する。

 痛みや擦り傷はどうということはない。パルクールならよくあることだった。

 すぐに起き上がり、彼女の背中を向く。


 その後ろ姿は、どこからどう見てもキャシー――キャシー・キャサリンのそれだった。

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