8 ステージ1
左端の個室の前に立って、右隣――中央の個室の戸に手を伸ばし、ノックする。
こんこん、と響かせた。
応答も無ければ物音も無い。
もう一度、ノックをした。
やはり反応は無かった。
春子は閉じた個室への注意を維持しながら、トランシーバーを取り出す。
「こちら春日。至急の応援を頼みたい。二名ほど、一般棟四階女子トイレまで、すぐに。誰も入らないよう見張っていてほしい」
応援を要請した。犯人を無力化する要員ではなく、他の客を近づかせないための見張り役としてだ。春子に他の生徒を危険に巻き込むつもりはない。
しかし、これは同時に攻撃でもあった。個室内に潜む犯人を焦らすことができる。
逃げ場は無い。出てこなければジリ貧だ。焦るに違いない。
焦れば行動が衝動的になる。
衝動に駆られた人間は単純になる。
単純な人間は
通信の返事はすぐに来て、十秒もしないうちに見張り役の男子が二人決まった。
「――むっ」
インカムを付けてない側の耳が人の接近を捉えた。大きな笑い声を響かせる女子が二人、いや三人。
春子が個室の前から離れ、洗面台のあたりに移動したところで、予想どおり彼女らはトイレに入ってきた。
他校の制服だが、春子はあえて敬語をやめた。
「すまない。今は取り込み中だ」
背を向けて仁王立ちをした春子を前に、女子グループは顔を見合わせる。
「あ、あのぅ……何かあったんですか?」
「危ないから離れててくれ。間もなく応援も来る」
あえて犯罪者が居座っているかもしれないと伝える必要はない。要らぬ混乱を招くだけだ。
有無を言わせない春子の迫力に、女子グループはもう一度顔を見合わせた後、退散していった。
出入口で別のグループとすれ違ったらしく、「今使えないみたいですよー」などと会話が聞こえてくる。
それから一分ほど待ったが、進展は見られなかった。
ジリ貧になることはわかっているだろうに。
実際、見張りも一人は到着した。手短に用件だけを伝えて、早速見張らせている。その会話は個室内にも聞こえているはずだ。
「……そうだな」
春子は嘆息してみせた。
そもそも長期戦に持ち込む意味などない。時間も惜しかった。
さっさと決着をつけようと、脳内で行動を描く。
まず声を掛けて、あらかじめ断った上で、下から覗く。足が見えれば確定だし、隠れるにしても何らかの動作が必要で、必ず音が出る。その程度は相手もわかるだろう。つまり覗いたという事実でプレッシャーを与えるのだ。これで飛び出してくれば確保。
出てこなければ、今度はトランシーバーで教員を呼ぶ。腕に覚えのある数名の教員が駆けつけてくるはずだ。その間、今度は手鏡を持って、腕を伸ばして上から覗く。それで犯人の姿がはっきりとわかる。
無論、覗こうとする間に逃げられるようなへまはしない。いつ飛び出してきても即座に攻撃できるような位置取りと意識は維持する。
春子は左個室の前あたりに立ち、こう言った。
「いいかげん出てきたらどうですか。もう逃げられませんよ」
往生際が悪い、とはこの事だろう。
もしかして中には誰もいないのでは、と不安を抱いてしまうほどに、個室はただただ無音を漂わせている。
声はもちろん、物音も、足音も、呼吸さえも聞こえてこない。
「すみません。中を拝見させていただきますね」
春子がしゃがもうとして、このままでは体勢が甘くなると気付く。考えて、少し後ろに下がった後、アキレス腱を伸ばすような姿勢を取った。
ぐぐっと足を後方に伸ばしつつ、上体を落とす。戸の下側から内部が見えて――その時だった。
爽やかな風音が届いた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
しかし、視界の隅には、たしかにそれが映っていた。
誰もいなかったはずの、右端の個室から出てきた何者か。
乱暴な足音は響かない。だからこそ聞こえたのだ――洗練された身体の動きから生み出された、風圧の音が。
身の毛がよだつ。
心臓がばくんと反応する。
春子は目の前の、それの本質を即座に理解した。嫌でもわかった。
「移動していたのかっ!?」
春子が左端の個室側に位置取っている間は、真ん中の個室から右側の個室に仕切り壁の上を経由して移動しても視覚的には見えない。無論、高度を最小限に保ち、かつ物音を生じさせないほどの身体能力は必要となるが、これほどの者ならば可能だろう。
相手は、見事春子を出し抜き、真ん中の個室という袋小路を脱出してみせたどころか、先制を仕掛けてきたのだ。見事な形勢逆転だった。
「くっ!?」
春子は全力を振り絞って足を滑らせ、すぐに引き寄せることで部屋の中央へと移動した。すり足という技術による高速移動である。
いきなりのフルパワーに、少しだけ筋肉が悲鳴を上げたが、やむを得なかった。そうしなければ逃がしてしまうほどに、犯人のスタートダッシュは素早かった。
幸いにも間に合い、犯人の進路に立ち塞がることができた。
同時に、真正面から突撃を食らわないよう、射線から少しずれることにも成功。
あとはこっちのものだった。
春子は複数の護身術、武術から格闘術まで習っている。加えて反射神経の鍛錬もしている。二重の意味で
素人にはまず負けないし、ただ力が強いだけの者にも負けない。あしらうことなど朝飯前と言えた。
相手がパンチするかのように腕を繰り出してくる。
空いた腕はバッグを抱えていた。
そこではじめて春子は相手を視認した。
その顔に覆面が装着されていること。
一見すると男性のようだが、格好が女性のそれであること。
動きの質もまた女性的であること。
――手慣れた女性だな。
それが春子の印象だった。
前進の勢いが非常に強い。身体能力にも、逃走能力にも覚えがあるのだろう。実際、個室からの飛び出しは神懸かっているとさえ言えた。
しかし、そのパンチと呼べるかも怪しい攻撃は、素人の動きだった。
対処は容易である。その腕を掴み、体勢を崩して投げるだけでいい。この勢いを流して地面に叩きつければ、それだけで相手は気絶する。
後遺症が残るかもしれないが、春子は躊躇の二文字を捨てている。
間もなく相手の腕を掴もうとして――春子の手が空を切った。
「は?」
思わず声が出た。
掴もうとした腕が、一瞬で引き戻されたのだ。
凄まじい風圧だった。砲弾が
両者の位置関係も変化していた。
春子は相手の直線上から一歩逸れた位置にいた。相手の突撃を避けつつ、その勢いを受け流せる絶妙の位置だったはずだ。
なのに、それが変わっていた。いや、一瞬のうちに変えられた。
まるでボールが壁に反射したかのように、相手の進路が切り替わり、春子を真正面から捉える角度になっていたのだ。
ぶわっと再び身の毛がよだつのと同時に「うぐっ!?」車にはねられたかのような衝撃が春子を貫いた。
そもそも格闘とは人間の仕様――もっと言えば限界について知ることでもある。
人間の仕様ならここまで動ける。ここからは動けない。
このスピードでなら動ける。これ以上は出せない。
そういった事実を鍛錬という経験にて蓄積し、染みこませていく。そうすれば、限界を超えた動きについては、最初から考えなくても良くなる。無限に思える可能性が、有限の、わずかな選択肢へと狭まる。つまりは判断の効率化になる。
格闘とは、選択と判断の効率化でもあるのだ。
しかし、通じなかった。
相手の動きは、春子が知る前提を超越していた。
春子はタックルを食らったのだとわかった。後方に吹き飛ばされる。壁が無ければ五メートルは飛んでいただろう。
春子はとっさに両手を後頭部に持っていき、顔を前に突き出す。
直後、壁と衝突。
内臓に衝撃が響く。声にならない嗚咽が漏れ、くらりと目眩がした。
足腰も言うことを聞かず、汚い地面の上に倒れてしまう。
出入口を見るまでもなく、相手の足音は遠ざかっていた。
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