7 火蓋

 報知くん――火災報知器型カメラはめざましい活躍を見せていた。

 四階女子トイレ内に並ぶ三つの個室のうち、真ん中を除く左端と右端の、その天井に一つずつ設置されたそれ。点検業者が見れば一瞬で違和感を抱くような、強引な配置だったが、文化祭の熱気にやられた無知な来場者が気付くはずもない。

 無論、詳しい者が来場する可能性もゼロではないが、業者の男性率の高さを日向は知っている。要らぬ心配だった。


 そんな最中、報知くんが再び面識のある女子を捉える。

 報知くんの役目は盗撮対象の容姿を映すことだ。視聴者の興奮を引き立てるための前菜。主菜を深く味わうためのウォーミングアップ。

 加えて、盗撮対象ターゲットの身体的特徴と言動の傾向を把握するためでもあった。

 映像はリアルタイムに日向の左目――レンズの左側に投影されている。その姿は、見間違えるはずもない。


 春日春子だった。


 身体能力はさておき、物理的な戦闘能力とスタッフの指揮管理要領で言えば春高随一の人物。

 いくら日向がパルクールに優れているからとはいえ、武術に長けた者を力尽くで押し切れるはずもない。それは報知くんの開発者、佐藤とやり合ってみたことで十二分にわかっていた。

 仮に逃げ切れたとしても、すぐさまスタッフと連携して対策を打ってくるに違いない。再侵入のチャンスはまず潰えると言って良い。


 日向は左手でメガネを外し、前方のバッグ――レバーの上に置いて壁にもたれさせている――に素早く収納する。同時に、バッグ内から別のメガネを取り出し、装着した。

 もう一度バッグに手を伸ばし、細いケーブルを取り出す。一端をメガネに繋ぎ、もう一端をパラサイトくんの胴体――折りたたみ式ケータイくらいの箱型をした頭部に繋ぐ。この頭部を日向は右手で握る。

 胴体からは針金のような極細の円管が伸びており、先端が丸みを帯びていた。ここにレンズが取り付けられ、これを対象物に向けることで盗撮を行う。映像はリアルタイムに記録され、ケーブルを通して配信。メガネにも投影される。これを見ながら撮影設定パラメーターを微調整するのだ。


 女子の排泄は存外素早い。少なくとも男子の大便時よりも圧倒的に早く、それでありながら焦燥や性急の様子を少しも感じさせない動作である。長年の習慣によって洗練された機能美とさえ言えた。

 日向はたまに鑑賞しに行くこともあるほど、この光景が好きだった。

 しかし洗練と言うなら、日向にとっても十八番である。日向はその上を行く。


 左手で胴体から伸びた円管をつまみ、びゅんっと風圧が届きそうなスピードで動かす。パラサイトくんの先端――眼を左隣の仕切り壁、その下に持っていった。

 女子の身体構造――特に日向が記憶する春子の身体構造と、さっきまで報知くんで見ていた所作の情報から判断して、春子の頭部の位置を推測。春子に憑依したかのように、春子の視点を思い浮かべる。

 個室の奥、右下を見下ろしてみる。パラサイトくんの眼が見えたらアウトだ。見えないような位置に、パラサイトくんを配置しなければならない。

 日向は円管をミリ単位で、しかし素早く動かして微調整を行い――

 半秒と待たずに、ぴたりと静止させた。


 左側のレンズが、拡大された光景を映す。

 ローファー、瑞々しいふくらはぎ、太もも。

 その先、局部はまだ見えない。


 便器にまたがった春子が脱ぎ始める。

 ショーツが下りてきた。黒色の無地。見覚えのある銘柄だ。激しい運動にも耐えられる下着として知られ、オーダーメイドが基本の高級品ではあるものの、キャリアウーマンやアスリート、インストラクターなどに好まれているものだ。高校生が履くブランドではないし、仮に持っているにしても、日常で履いてくるものではない。

 春子は明らかに動きやすさを重視している。

 巡回のためか。それとも戦闘にも備えてのことか。


 そんな反射的な考察を日向は打ち切った。

 全神経と全感覚を研ぎ澄ませ、自らを超集中ゾーンに落とし込む。


 日向は瞬時に最高の集中を手に入れることができる。何しろ普段は少し踏み外しただけで転倒死、あるいは転落死してしまう世界で遊んでいるのだ。集中できないことは死を意味する。

 そんな極限エクストリームを幾度となく重ねてきたがゆえの特技であり、どころか日向にとっては単なる手順ルーチンでしかなかった。これが類い稀なる資質であるという自覚は皆無である。


 局部を撮ろうと、パラサイトくんの眼を奥へと押し込む。

 どの程度押し込めばちょうど局部が映り、かつ春子からも見えない位置を陣取れるかは一瞬で理解できている。調査もした。練習もした。調子も問題ないし、集中もしている。造作もないことだった。

 そんな日向の感覚が出した答えは、甘くなかった。


 ――そんな位置はない。


 つまり、局部を映せる位置にまで眼を持っていくことは、同時に相手からも眼が見えてしまうことを意味する。眼は、サイズでいえば針金のようなもの。視界に入れば、気付かれる可能性が高い。


 しかし、日向は押し込んでいた。


 局部が映る位置に眼が浮かぶ。これをブレないよう体幹で固定する。

 左手を離した。しかしパラサイトくんはぴくりとも動かない。

 空いた左手は、まるで頬に止まった蚊を仕留めるかのような速さで動く。それはメガネのふちで止まった。ふちには操作ボタンが付いている。そのいくつかを操ってピントを合わせた。


 左目に春子の密林が映し出された。

 目の前で直視しているかのように鮮明で、生々しい。間引かれてはいないが、よく整えられていた。

 間もなく花園も開帳されるだろう――と、その時だった。

 春子の右脚が微動したのを日向は察知して、パラサイトくんをわずかに引く。


「ふぅ……」


 春子のため息が漏れてくる。下を向いているのが明らかな聞こえ方だった。

 映像は局部ではなく脚部を映している。日向がとっさに眼を引き下げたためだ。パラサイトくんの眼が春子の視界に入ってしまうのを防いだのである。


 映像に映る脚から情報を読み取る。


 ――動揺は見えないが、少しだけ筋肉の動きが堅い。


 呼応するように、隣個室からの気配が引き締まった。

 もう一度、春子が息を吐く。疲労のため息などではなく、自らを落ち着かせるための呼吸だと日向にはわかった。


 ――警戒されている。


 盗撮には気付いていないが、隣の様子に不審を抱いているのは間違いない。

 もっとも警戒心自体は大した問題ではない。問題は春子の目線が下を向いていることだった。春子が顔を上げた気配はまだ感じ取れていない。ということは、まだ下を向いているのである。

 春子の動体視力は不明だが、武術で鍛えているのならば悪くはないはず。眼を出せば、すぐに気付かれてしまうだろう。しかし、眼を出さなければ局部は撮れない――


 日向は既に十分な戦果をあげていた。

 仮に今帰ったとしても、ケッコン――美尻びけつコンテンツの優勝に届く作品をつくれる自信があった。リスクを犯すべきではないのは自明だった。


 それでも日向は眼を押し出した。


 迷わなかった。

 逡巡さえも見せなかった。


 一秒でも長く撮るために。


 勇猛なお嬢様の、貴重な花園を収めるために。


 角度も。ピントも。

 すべての撮影設定パラメーターが瞬時に、最適に合わせられ、密林が再びあらわとなる。

 今度は留まらない。その先に隠されていた花園――彼女の恥部も捉えた。


 純粋。


 その二文字が頭に浮かんだ。

 けがれもなければよごれもなく、必要十分にして必要最小限に整備されたそれ。

 まるで庭園のような、芸術的な完成品がそこにあった。


 ――踏み出して良かった。


 左目に映し出された絶景を、目にも、頭にも、心にも焼き付けながら、日向はそう思った。

 感傷に浸れたらどんなに至福なことか。

 無論、そんな暇はないし、そんな状況でもないらしい。


 強張こわばっている。


 春子の下半身が、大型のゴキブリを目にした女子のように強張っている。

 間もなくびくんと震えた。ゴキブリが飛んできたかのような、露骨な反応だった。いや、実際の恐怖はそんなものではないだろう。盗撮されていると気付いた時の恐ろしさは、虫とは比べものにならない。並の女子なら一発で腰が抜ける。そんな場面を、日向は何度か見たことがある。加害者として、目の前で。

 だからこそ信じられなかった。


 ――化け物だな。


 三秒。

 たったの三秒。

 そんな刹那で、春子は平静を取り戻していた。

 恐怖したのは紛れもない事実だった。身体に現れていたから。にもかかわらず、意図的に、意識をもって鎮めてみせた。


 春子は心得ているのだ。平静を保つ術を。


 そしてその頭は既に入っているに違いない。

 隣の不埒者ふらちものを成敗する算段に。






 春子は戦慄せんりつと羞恥にこらえながらも、気付かないふりを心がけた。


 いつもどおり、しっかりと拭いてから再びレバーを引く。

 洗浄が始まる。妙に耳に響いた。

 隣が撤収する様子はない。どころか、ちらりと見た限りでは、まだカメラが構えられていた。

 巧妙なカメラだと感心することはない。ただただ嫌悪感がこみ上げてくる。


 同性の盗撮犯か。それともこっそりと忍び込んだ男か。午前の盗撮騒ぎの後、警備は強化したはずだが、足りなかったのか。

 しかし春子にはどうでも良いことだった。


 絶対に逃がしてはならない。


 一切の表情を無くし、閉ざされた個室の中にいるであろう容疑者の確保に意識を振り切った。

 男ならば問答無用で無力化。

 女ならば持ち物検査。もし逃げるようなら無力化。仮に応じてきた場合でも、不意打ちには要警戒。


 もしかしたら気のせいかもしれない――そんな選択肢は即座に捨てていた。

 そもそも隣の個室に、あのような細い物体を潜り込ませてくる意味がわからない。正当な理由があるとは思えない。

 おそらく盗撮だろう。あんなカメラがあるとは一瞬信じがたかったが、しかし最先端の胃カメラが予想外に細いことは知っているし、盗撮犯が思いもよらぬ手段で仕掛けてくることもまた知っている。


 犯人はどんな醜悪なつらをしているのだろう。

 個室の下から見上げるつもりもなければ、上から見下ろすつもりもない。そのような下品なことはしない。

 堂々と攻めるつもりだ。それで打ち勝つ自信が、春子にはあった。

 だって盗撮犯は軟弱なのだから。軟弱に決まっているのだから。


 そもそも性犯罪者は脆弱なのだ。弱いからこそ、このようなことをする。

 しかし、弱者だからといって、他の弱者を性的に貶めていいはずがない。


 あの恐怖は、体感した者にしかわからない。


 あんなことがあって良いはずがない。


 性犯罪者クズは――懲らしめなくてはならない。


 春子は淡々と履き直し、自分が居た左の個室から出た後。

 真ん中の個室にノックを入れた。

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