6 食後
食事を終えた一同は図書室――ビブリオバトルの会場に向かっていた。
室内は定期試験中のような静寂が保たれている。入退場は自由だが、出入口にも室内にも大きな赤文字で書かれた私語厳禁の警告が並んでいる。
見学者はまずカウンターの案内書を読む。用紙はA4サイズだが、過ごし方や質疑応答の方法など事細かく記されていた。
聴講者は社会人が多い。ここを見ただけでは文化祭とは思えないだろう。理知的な雰囲気をまとっている者が多く、研究会というフレーズがしっくり来る光景だ。
一同はと言うと、客席後方の一列に沙弥香と新太が並び、その一つ後ろに琢磨が座っていた。
沙弥香はバカップルと指摘されてもおかしくないレベルで新太に身を寄せている。それを咎める者もいなければ、疎む者もいない。諦めた新太も含め、皆、壇上の発表に注目している。
「以上のように、この絵本は子供ではなく、学生や大人こそが読むべき、人生のバイブルだと私は思います。ちなみにインターネットでは考察ブログが多数存在していて――」
本とは無縁そうな垢抜けた女子大生――壇上のプレートに名前と在籍大学名が印字してある――がはきはきとプレゼンしている。
持ち時間五分という尺を考慮するだけでなく、読み手の心に訴えるような喋り方やジェスチャーも多用されていて、本にさほど興味の無い新太も退屈を感じない。
間もなく彼女がプレゼンを終えた。
拍手は起こらない。代わりに司会役の志乃が口を開く。
「それでは質疑応答に入ります」
言い終えると同時に天高く伸ばされる腕が数本。
「はい、そちらのスーツの方」
当てられたスーツ姿の男性はすぐに立ち上がり、
「その本は翻訳だったと思いますが、原著との主な違いは何でしょうか」
「大差はありません。一部、英語圏独特のニュアンスが日本語圏向けに変換されていますが、趣旨を削ぐほどのものではありません」
「翻訳版だけ読めば十分とお考えでしょうか」
「はい」
てきぱきと交わされていく。
発表者一人あたりの質疑応答時間は二分である。発表者と参加者の双方、そして進行役も含めて全員がストイックに意識しなければ、すぐに乱れてしまうだろう。
こんな世界があるのかと新太は感心していた。
隣の妹に腕を引っ張られているが、これをスルーして、新太はしばし楽しんだ。
ビブリオバトルの後は、新太の希望で二年生フロアをうろつくことに。
道の邪魔にならないよう、琢磨は新井兄弟の後ろを歩いていたが、ふと先行して、新太に持ちかける。
「お兄さん、オレと勝負しませんか?」
ちょうど通りがかっている教室を向く琢磨。その視線を新太が追う。「メイズアタックねぇ……」とつぶやいた後、一歩近づいて来て、
「断るよ」
「目立つから?」
「うん」
「別にパフォーマンスするわけでもないし、問題無いと思いますけど。意外と臆病なんですね」
小声ながらも、琢磨は挑発の色をしっかりと乗せた。
「そうだね。
「あー、そう来たかー……」
そんな二人を見ていた沙弥香だったが、思いついたと言わんばかりの表情を浮かべた後、二人に割って入った。
「王様ゲームをするわよ」
「……唐突だね」
反応した琢磨には見向きもしないで、沙弥香は兄に訴える。
「三人で勝負して、勝った者が命令できるのよ。命令は絶対。命令は、そうねぇ……AがBに抱きつく、とかどうかしら」
「どうかしら、じゃないよ」
「何よ? 文句ある?」
「文句しかないね……」
自分をスルーし、兄への好意を隠そうともしない沙弥香を見て、琢磨は思わず声に出して笑った。
今までの沙弥香は、その運動能力と性格でスクールカーストの頂点に立つ、怖いギャルといったキャラクターであったが、今やその影もない。普段の、どこか作り物めいた態度の中に、こんな本質が隠れていたのかと思うと、おかしくて仕方がなかった。
「頼んだわよ琢磨」
唐突に話を振られる琢磨だったが、思考しながら話を聞くことなど琢磨には朝飯前。
「オレたちの愛を試そうって?」
「バカなの? AがアタシでBがお兄ちゃんよ」
「Aがお兄さんでBが沙弥香でもいいのでは?」
「お兄ちゃんは思い切り抱きついてこないからダメよ。アタシがAならその心配もないわ」
顔を引きつらせている新太もまた面白いと琢磨は思った。
こうして二年A組の出し物、メイズアタックに挑むことになったが――
結果を言えば新太が勝利した。
沙弥香としては、目立つのを嫌がる新太が本領を発揮できないと踏んでいたのだろう。
しかし新太は沙弥香の記録を一発で追い抜き、続くトライで現在のハイスコア――つまりは昨日琢磨が出していたスコアをも抜き去った。スコアの差も、図ったのような僅差だ。
(ガチで出したスコアなんだけどなー……)
メイズアタックは毎回ルートが変化する迷路タイムアタックだが、変化は微差だ。慣れれば誤差にも等しい。したがって、慣れた者にとっては、いかに素早く移動できるかという身体能力の勝負になる。
琢磨は自信があった。スポーツテストも去年は一位だったし、今年は日向にしてやられたが二位。そこいらの運動部員を
にもかかわらず、あっさりと、赤子の手をひねるかのように打ち負かされた。
能力差がどれほど広いのかさえわからない。文字通りの、雲泥の差。
(さすがに世界は甘くないか。……だとしたら、この人に気に入られている日向ちゃんは一体)
想像を巡らせようとしたところで、新太が妹を引き寄せてくる。
「それじゃ始めてもらおうか。えっと、そういえば名前、聞いてなかったな」
「琢磨です。佐久間琢磨」
「AがBに抱きつく、だったよね沙弥香?」
ぷいっと顔を背け、逃げだそうとする沙弥香だったが、新太が一瞬力を入れただけで沙弥香のスタートダッシュが打ち消された。
「Aが佐久間君で、Bが沙弥香。これでよろしく」
「いいんですか?」
琢磨は意地の悪い笑みを浮かべながら、形式的に問う。
「沙弥香が言い出したことだ。トレーサーに二言は無い」
「アタシはトレーサーじゃないわよ。トレーサーという言葉は男性を指すのよ? 女性はトレーサーではなくトレーシーと呼ぶってそんなことも知らないの?」
「発音に準じればトラスーズと呼ぶべきなのと、トレーサーという言葉には性別を考慮しない総括的な意味合いもあるんだけどな」
沙弥香もそんなことは知っているのだろう。訴えたいことはそういうことではない。しかし新太は容赦せず、妹の抵抗を一蹴していた。
琢磨はふっと微笑み、合掌してみせてから、
「では、妹さんをいただきます」
背後から沙弥香に抱きつく。
その光景は映画のワンシーンのように映えていた。琢磨の容姿もあって、少女マンガのようなエフェクトを錯覚する。場の注目が一斉に集まったのが、新太は肌でわかった。
その後、妹の表情を見て苦笑する。その露骨な不快の表明がすべてを台無しにしている。
「こんなに近くで沙弥香を感じたの、超久しぶり」
「きもい」
「自分が持ち出した約束なんだから、ちゃんと守らないとね。お兄さんに嫌われるよ?」
「わかってるわよ……」
形式的とはいえ、かつて付き合っていたことがあるといっても誰一人信じないだろう。沙弥香の嫌悪という名の表情、いや形相はそれほどのものだった。
そんな妹の凶相に少しも怯まない琢磨を見て、新太が内心感心していると、そばで誰かが立ち止まる。
「君達を何をしているんだ……」
春日春子が、文字通りの白い目を向けていた。
琢磨は沙弥香から離れ、軽薄な笑みを浮かべたまま応じる。
「巡回ですか。お疲れ様です」
「場を弁えたまえ」
「罰ゲームですよ。あと三分です」
再び沙弥香に抱きついた。
「あと一分よ」
「あと二分十秒だよ。ちゃんと計ってるもん」
とんとんと腕時計を指す。デジタルのカウントダウン表示が一秒ずつ減っている。
「いつの間に……」
「仮にも彼氏だったからね。沙弥香の行動はお見通しだよ」
はぁと沙弥香が大きく嘆息する。
そんな様子を他人事のように眺めていた新太に、春子がアイコンタクトを寄越す。少しこちらへ来て頂けませんか、とでも聞こえてきそうな視線。
新太は頷いて、春子とともに数歩ほど移動。その間、琢磨は沙弥香に何かを言って怒らせていた。話ができるよう引き留めてくれたのだと新太にはわかった。
「何かご用ですか」
「ご迷惑を承知でお尋ねするのですが――――その、もしかして……アラタさん、ですよね。プロフェッショナルトレーナーの」
プロフェッショナルな
新太は自らをそう名乗っているが、トレーサーという言葉はトレーサーか物好きでもない限り使わない。それをあえて使っているところに、春子のパルクールに対する習熟度がうかがえた。
「僕のファン?」
「はい。大ファンです」
新太はスポーツや自己啓発の分野でも書籍を出版していたり、著名人のみが出演できる名物インタビュー番組への出演も果たしている。春子を始め、意識の高い層にもよく知られた人物であると言える。
「悪いけどファンサは受け付けてないよ。きりがないからね」
「そうですか……」
新太はあえて敬語をやめて、年下の後輩を諭すような口調を使った。
一時期はファンサ――ファンサービスに応じていたこともあったが、今はサインにさえも応じない。ツブヤイターを検索すれば「アラタにサインを拒否された」という類の不満がいくつかヒットするが、新太は気にすることをやめていた。そもそもそんな些細なことが気になる性分でもない。
むしろ内心では、芸能活動の自粛も検討しているまである。
既存のメディアではやりたいことの半分もできない。今まではパルクールや自身の知名度の無さゆえに、頼る必要があったが、今やその必要はない。ただ義務と収入に縛られて、惰性で続けているだけだ。
「そういえば新太さんは彼を――渡会日向君を懇意にしているとか」
春子がやや強引に話を変えてきた。ファンとして少しでも食い下がるつもりでいるらしい。
よく鍛えられた娘と聞いている。実際目の当たりにしてもそうだと思うが、中身は凡人だなと新太は失礼な感想を抱く。
「ひょんなことで知り合っただけだよ」
「私が思うに、彼もただ者ではないと思うのですが――いかがでしょうか」
新太は恐る恐る尋ねる春子を
顔を近付けてきた春子に、呟いた。
「彼は障害者だ。そしてその欠如がたまたまパルクールにマッチしていたというだけ」
「……」
固まった春子に耳打ちを続ける。
「仕事で知り合ってね。日向君はずいぶんと生活に苦労していたんだけど、パルクールのおかげで落ち着きを取り戻してくれたみたい。個人的にも気にかけてる。放っておいてくれると嬉しい」
「……すみませんでした」
「ううん。これから気を付ければいいさ」
新太は息を吐くように嘘を重ねた。
ともあれ、これで春子が自分に絡んでくることは――日向から回り込んでくることも含めて――なくなっただろう。
ちょうど春子との会話が途切れたところで、沙弥香が戻ってきた。
「アタシを放置して何浮気してんのよ」
「これが浮気に見えるかい?」
「ええ。耳をあむあむしてたじゃない」
「あむあむ?」
春子が沙弥香に問うたが、沙弥香は兄だけを見ていた。眼中にない、とはこの事だろう。
代わりに新太が答えた。
「君は気にしなくていい」
「ほらっ! 敬語が取れてるじゃない!」
沙弥香の視線はやはり新太だけに向いていた。
春子は思わず苦笑する。しかし穏やかな微笑みだったのが自分でもわかった。
春子はそのステータスや言動ゆえに一目置かれることが多く、また本人もそんな扱いに慣れていた。こうも蚊帳の外に置かれたことが新鮮だったのだ。
新太が沙弥香の両手に肩を置く。妹を
「さて、次はどこ行こうか」
新太は沙弥香を押しながら、春子に背を向ける。肩越しに振り向いて、
「それじゃあね。お疲れ様」
春子は会釈で返した。
「……またね、ではなかったな」
完全に脈がないことを悟り、もう一度苦笑する春子だった。
二人の背中が見えなくなったところで、巡回を再開――する前に、トランシーバーを手に取る。
「こちら春日。しばし小休止をはさむ」
小休止とはトイレなど応答しづらい用事をはさむことを意味する。実行委員を始め、春高祭の運営スタッフ間では、常識の範囲内で各自適当に使っても良いルールだった。
春子はこの階――四階の女子トイレに入った。
三つ並ぶ個室のうち、真ん中のみが閉じている。ちょうど洗浄音が流れてきた。無論、排泄音をカモフラージュするための行為であることは春子も知っている。というより、女子にとっては当たり前すぎて気に留めることさえない。
春子は左側の個室に入った。
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