5 食前

 正午から長針が九十度ほど経過した中庭には、初夏を思わせる日光が照りつけていた。

 ずらりと並ぶのは簡易的なテーブルと椅子、そしてパラソルやテント。昨日とは打って違い、客席エリアは中庭を突き抜けている。

 席が次々と埋まっていく。成人であればビヤガーテンのような既視感をおぼえるだろう。

 そんな中、沙弥香は新太と琢磨が座る四人テーブル席を離れ、中庭の端に設置された仮説トイレに足を運んでいた。両の手指では数え切れない程度には並ぶ列を見て、すぐにきびすを返す。


 少し悩んで、一般棟の四階――つまりは普段二年生として最も馴染みのあるトイレを使うことに。

 下駄箱を越え、階段を四階まで登ったところで喧噪が緩んだ。

 二年生の出し物はアトラクション系が多い。今の時間帯は客が少ないのだろう。あとでお兄ちゃんと来よう、などと考えながら沙弥香がトイレに向かおうとしたところで、


「沙弥香さん」

「あら、志乃じゃないの」


 上の階から志乃が降りてくるところだった。手ぶらだ。


「ちょっと緊張しちゃって……ぶらぶらしてたんです」

「往生際が悪いわね。あと一時間もないでしょうに」


 志乃が降りきるの待ってから、並んで歩く。


「沙弥香さんはお一人で何をされているんです?」

「外のトイレが混んでてねー……」


 志乃はとりあえずついてくるようだ。といっても、女子トイレはすぐそこである。間もなく着いた。

 そんな沙弥香の視界が、志乃の後方を捉える。


 身長が高く――170cmはある――メガネをかけた女性だ。

 動きやすようなランニングシューズと、ゆったりとしたワイドパンツを履いている。片手にハンドバッグをぶら下げる彼女の目は出入口に向いていた。「あ、ごめんなさい」道を塞いでいたことを自覚した沙弥香は軽く会釈をしながら、足早にトイレに入る。志乃もすぐに続いた。

 その後、沙弥香は洗面台側に寄り、志乃もそれにならった。

 女性はおとなしそうに歩いてきて、通りがかりに微妙な会釈をした後、三つあるうちの真ん中の個室に入っていった。左右の個室はどちらも空いている。


「うちのイベント、沙弥香さん達は見に来られますか?」

「うーん、どうかしら」

「ぜひ見に来てほしいです!」


 志乃がずずいと顔を近付けてくる。


「そうねぇ……お兄ちゃん次第ね」


 きらきらと目を輝かせる志乃に内心ひきつつ、沙弥香は手前の個室に向かい始めながら答えた。


「前向きに検討してください、とお兄さんにお伝えください!」

「はいはい、わかったわよ」


 ばたんと戸を閉める。

 間もなく志乃の分も閉まった。


 沙弥香はてきぱきと便座にまたがり、スカートを脱いで、ショーツも脱ごうとしたところで、その手を止める。

 いつもより派手で、扇情的なデザイン。布面積も少ない、いわゆる勝負パンツだった。

 兄と一線を超えるビジョンなどまるで思い浮かばないが、恋人気分を味わうためにあえて履いてきたのだった。


 沙弥香は足元を見た。次いで前後左右、最後に天井。全方位を何度か確認した後。

 片方の手を胸へ、他方の手を下腹部へと伸ばす。


 兄を思い浮かべる。

 兄に包まれる想像をする。

 兄自らが求めてくる。貪ってくる。そんなシチュエーションを妄想する。


「……ううん」


 沙弥香は頭を振った。

 いつものように、妄想すらできなかった。


 兄はどこまでもパルクール一筋で、ストイックだ。変態、いや狂人と言ってもいい。本人は上手く隠しているつもりだろうが、最も近くで、最も熱を持って見続けてきた沙弥香にはわかる。兄は、パルクールに取り憑かれている。

 そんな兄だからこそカッコ良くもあり――憎らしくもあった。


 兄は日向を機械のようだと評したことがあったが、沙弥香は兄こそが機械だと思う。

 兄が自分に対して性的に迫ってくる様をまるで描けない。妹の自分ではなく、他の女性を当てはめてみても同様だった。無論、妄想であるから、兄が自分に迫ってくるよう無理矢理脚色することはできるものの、脚色した後の兄はもはや兄ではない。


 愛とは何だろう。自己犠牲や利他ともいわれるそれ。

 新太の幸せを願うなら、自分が身を引くべきなのは明らかだ。

 しかし、沙弥香はそうは思えなかった。


 自分に振り向いて欲しい。自分のものにしたい。


 利己的な欲求がぐるぐると体の内を駆け巡る。

 何度繰り返したかわからない、どうにもならない願望。


 沙弥香はもう一度頭を振った。

 今は春高祭の最中だ。それも兄と一緒に過ごせる貴重な機会。こんなところで油を売っている暇などない。


 我に返り、ショーツを脱ぐ。

 と、その時、「ん?」視界の端――隣の個室を仕切る壁の下側で、何かが動いた気がした。


 レバーを下げて洗浄音を流しつつ、下腹部に本来の働きをさせながらも、しばらく注視してみたが、出し終えて、拭いた後になっても、何も現れなかった。

 一応、全方位も確認してみる。足元。前後。左右。特に気になる点はない。天井も火災報知器がついているだけだ。


 個室から出ると、ちょうど志乃も出てきたところだった。


「ねぇ志乃。ゴキブリとか見なかった?」

「ゴキブリ、ですか……?」


 志乃がきょとんとする。


「ええ。視界をかすめた気がするのよ」


 沙弥香は真ん中の個室、その閉じた戸を眺めながら、わざとらしく言う。


「いないと言い切れる自信はありませんが、春高の生活で見たことはありませんね」

「アタシも無いわ。ちょっと気になっただけ」

「怖くないんですか?」

「虫は平気よ」


 個室からは洗浄音が流れてきただけだった。


 二人は手洗いを済ませる。沙弥香が念入りに身だしなみを整え、志乃もしばし会話しながら付き合っていると、体操服姿の女子が二人ほど入ってきた。その陽気な声量を合図に、沙弥香は鏡を離れ、志乃と別れた。




      ◆  ◆  ◆




「――警備状況については以上です」

「うむ」


 生徒会室では春子が、生徒会所属の男子から報告を聞いているところだった。

 その傍らには現生徒会長、中根寧音なかねねねが座っている。というより机に突っ伏していた。


「なんで春子ちゃんが頷いてるのよぉ。生徒会長は私よ?」

「すみません。会長は少しとろいので」

「辛辣ねぇ……」


 春子は胸ポケットからトランシーバーを取り出し、スタッフ全員に警戒を周知し始める。


「――階段下からバッグに入れたカメラやスマホを構える事例、不自然に女子の足元につま先を差し込んだり荷物を置いたりする事例、あとは屋外の席を遠隔から撮影する事例もある。今年は去年以上に盛況で、露出も多いように見受けられる。気を引き締めてパトロールに当たっていただきたい。不審者を発見した場合は、共有とマークを忘れずに。勝手に捕らえようとしないこと」


 春子が仁王立ちしたまま話しているのを見上げながら、寧音は「会長の風格だねぇ」のんきな感想を口にする。

 それは報告に来た後輩男子への雑談のつもりでもあったが、彼は特に応じず、「では」と真面目に会釈をして去ってしまった。

 来年は春子のもとでバリバリ働くのだろう。彼の背中を、つまらなそうに眺めていた。


 ゴトッとトランシーバが置かれる。

 そのそばには春子用のお弁当。春日家から差し入れられたもので、数千円をはるかに超えていそうな高級感がある。ボリュームも運動部の男子並だ。

 春子はそれをてきぱきと開封して、律儀に合掌した後、食べ始めた。食べっぷりも男子並だが、姿勢をはじめ礼儀作法はさすがと言えた。


「去年もあったわよねぇ、盗撮」


 春子はマイペースに咀嚼し、飲み込んだところで口を開いた。


「ええ。大胆にも前を歩く女子の真後ろで撮っていました。逃げようとしたところを取り押さえましたが」

「全治何週間だっけ」

「二ヶ月です」

「怖いわねぇ」

「まったくです。嘆かわしい世の中だ」


 あなたがよ、と返そうとする前に、春子は次のおかずを口に含んでいた。

 しばらくは満足に雑談もできまい。もっとも春子の食事がこうであることはわかりきったことだが。


「……」


 黙々と、しかし食事姿まで凜然とした春子は絵になっていた。

 何分でも眺められそうな光景だし、実際、寧音は飽きずに眺めていた。


 つかの間の休憩を満喫しながら、つぶやく。


「何にせよ、春子ちゃんがいるなら安心ね」

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