第4章 文化祭二日目
1 早朝
朝六時。辺りは薄暗いが、それでも快晴の模様が見て取れる。
絶好の文化祭日和だが、祐理は早速ブルーな気持ちになった。
「……やっぱりいない」
日向の姿が見当たらない。朝食の書き置きが残されているだけだった。
今日は春高祭の二日目。一般来場者も多数訪れるメインデー。
昨日遊んだ祐理と日向は、今日はスタッフ要員として忙しなく働くことになる。
祐理は二年A組の出し物『オーリーを探せ』のオーリー役として。
日向は図書委員の出し物『ビブリオバトル』のサポートスタッフとして。
図書委員と言えば山下だ。美人だがおっかない司書の顔を想像する。サボれるとは思えない。
次いで日向を思い浮かべる。こんな早くから準備しに行くとも思えない。そもそも学校も開いてないだろう。
となると考えられるのは一つ。
「サボり……」
怒られるのを覚悟の上での行動だろうか。
日向ならそうしてもおかしくはないが、この二ヶ月の学校生活を見るに、日向はおとなしかった。よほどのことがなければこんな真似には出ないはず。
ということは、よほどのことなのだ。
「やっぱり怪しいなぁ」
祐理は冷蔵庫から牛乳を、冷凍庫からフローズンフルーツを取り出し、書き置きが記すシリアルを準備。
棚からフレークも取り出してきて、皿に盛る。牛乳をかける。
「おいひい」
ひんやりしていながら食感はざくざく。加えて栄養満点でもある自家製シリアルを味わった。
日向のことは頭の隅に追いやった。
追いやるしかなかった。
こんな行動に出れば、後でどうなるかはわかっているはず。なのに一言も言わず、匂わせることもなく実行した。よくよく書き置きや具材の準備状況を見返してみると、これが事前に計画されていたものだともわかる。
ただでさえ尻尾を見せない日向なのだ。今更調べたところでどうにかなるわけではない。
今日は春高祭の二日目。祐理はオーリー役として来場者を楽しませなくてはならない。
沙弥香の兄である新太も来るらしい。もしかしたら
日向のことは後回しにするしかないのだ。
昨日、存分に落ち込んでいたのが幸いだった。
◆ ◆ ◆
白いクロスのかかったテーブルで向かい合う親子。
片側、大きな振り子時計の正面に春日春子が座る。
対面には大きな窓があり、広い敷地の自然が切り取られている。そんな見慣れた景色を背景として、父親の
見る者を萎縮させる顔つきも相変わらずだ。
そばには三段の小さな棚があり、ケーキやチョコレートといったスイーツ――それも一目で高級品とわかるものが並んでいる。一久がその一つをつまんだ。
「お父様は、今日は来られないそうですね」
「うむ。外せない仕事があるのでな」
春日家と言えば、春高こと春日野高校の経営者のみならず、春日野町全体を牛耳る大地主である。街から数駅離れたこの敷地は、そこいらの大学よりもはるかに広い。出入りする時は常に車である。
「昨日も帰りが遅かったそうじゃないか」
「生徒会長に従事するためにも必要な経験です。ベストを尽くしたいのです」
「良いことだ」
しばし無言が続く。
テレビもなければラジオもなく、デジタル時計さえもない。一久の方針で、ダイニングルームには一切のデジタル機器が無い。
「今日も遅くなるのか?」
「はい」
「お前は愉しまないのか?」
春子はふっと微笑んで、
「楽しんでますよ。とても楽しいです」
そんな娘を見て、一久は苦笑がちな笑みを返す。
「ふっ、仕事中毒の器だな。体を壊すんじゃないぞ」
「わかっています。それにそれは私の台詞です」
そもそも一久がスイーツを摂取するのは、糖分を補給するためだった。
日々相当量の頭脳労働をこなしており、今日も既に一仕事を終えた後のはずだ。
「そうだ、夏美さん」
父親は娘の追及をスルーして、少し離れたソファーでくつろいでいた家政婦の名を呼ぶ。
ジーパン姿の夏美が顔を向ける。
「今日は仕事がない。遊びに行ってきたらどうだ?」
「遠慮しておきます。身内がいては、やりづらいでしょう」
「そんなことを気にする娘ではない」
「それに春子様は――どうやらボーイフレンドと楽しむご予定もあるのだとか」
「ありません」
春子がすかさず否定する。
「冗談ですよ。初心な反応が見たくて、つい」
「ははは、その辺にしてやりなさい。――で、誰かめぼしい男はいるのか?」
「言葉と行動が噛み合っていませんよお父様。そんな男などいま……いません」
一久と夏美は思わず顔を見合わせた。
「これは朗報だ。話してみなさい」
「いません。以上です」
春子が思い出したのは、一人の下級生だった。
二年A組、渡会日向。
偶然いたところを捕まえて、手伝ってもらったことがある。
春子が山のように抱えていた書類に対し、日向は三分の一ほどを取ってみせた。
春子はそんなものかと挑発したが、それは動揺を隠すための、とっさの言葉だった。
――なんだこの男は。
春子は内心驚きを隠せなかった。
書類の運び方にはコツがある。春子のように正面が見えなくなる程の分量、それこそ何百枚ともなればなおさらのこと。繊細なバランス感覚はもちろんのこと、書類の束を支える物理的な筋力や、体勢を崩さないよう維持し立ち回る柔軟性などが求められる。少なくとも一朝一夕にこなせるものではない。
春子は幼少期から厳しく教育されてきたため可能であったし、また密かに自負する特技でもあった。
日向が運んだ量は、一見すると平凡。
しかし、上側の書類は、特に滑りやすかった。春子も並々ならぬ神経と体力を酷使して、ようやく運べていたのだが、無茶をしすぎたと後悔した。疲労が蓄積して、バランスを保ちづらくなっており、誰かの手を借りるしかない状態。
そこを偶然通りがかったのが日向だったのだ。
正直言って誰でも良かった。
書類を滑らせて落とされることも覚悟した。
そんな予想を、彼は見事に裏切った。
あれはただ者じゃない。
まだ高校生ながらも、多くの人間を見てきた春子には、人を見る目が養われている。
彼は少なくとも何らかの世界で、プロフェッショナルとして活躍している――それが春子の印象だった。
それからも父親と家政婦の興味を交わしつつ、和やかなモーニングを過ごす。
のんびりしたいところだが、そうもいかない。今日は春高祭二日目。春高生活でもトップクラスの頑張り所だ。
いつもより早めにダイニングルームを出た。
「確か図書委員だったな」
春子の予定が一つ追加された。
◆ ◆ ◆
時は少し遡り、午前四時。
「こんな朝になんじゃ」
日向は佐藤宅を訪れ、
「報知くんを預けに来ました」
日向は何も所持していない。
これから回収しに行くのだという予告であることを、佐藤は瞬時に悟った。
「元々ワシのもんじゃろうが。金庫はどうした?」
「訳あって家には帰れません」
佐藤は間の抜けたあくびの後、再びキーボードを叩き始める。
「事情を話せ、というのは野暮か」
「野暮ですね」
「かいつまんで教えろ。気になって仕方がないわ」
「明日、うちで何があるかはご存じですか」
「知らんわ。要点を話せと言っている」
佐藤は天才ハッカーと称されるほどの人物だが、意外と健康には気を遣っており、人並に清潔でもあった。
それが見た目からしてわかるほどに疲弊している。にもかかわらず、そのタッチタイピングにはよどみがなく、日向との会話も並行してこなす。
身体能力はさておき、頭脳に関してはまるで桁が違うな、と日向は苦笑した。
「……文化祭があります。そこで女装して、女子トイレに侵入して接写します」
「――ほう」
佐藤が日向を向きかける。
直後、作業途中だったのか、しばし目も止まらぬスピードで何かを入力した後、再び向いた。
その目は続きを促している。
「見つかって逃走すること前提の、アグレッシブな盗撮です」
「パラサイトくんを使うのか?」
「はい」
「捕まったらどうする?」
『パラサイトくん』――佐藤が日向のために開発した盗撮用カメラであり、非売品である。
第三者に知られるわけにはいかないのだと言っていた。
「捕まりません。問題はそこじゃないです」
捕まらない保証などあるはずもないのだが、佐藤は納得した。
日向の力は買っている。この男は、忍のように現実的に物事を見て、しかし非現実的なパフォーマンスを発揮する。
日向が問題無いと言うのなら、それは信用していい。
ならば何が問題なのか、と佐藤は問おうとしたが、すぐに思い当たった。
「……学校側に対策される可能性があるっちゅーことか」
「ええ」
誰かが盗撮に気付いたとしても、たいていは本人の内に留められる。下手に大事にしたくない心理が働くためだ。
しかし、絶対にそうとも言い切れず、文化祭であれば学校側に報告する被害者がいてもおかしくはない。場合によってはその先――警察への通報などもあり得る。
ここで日向が懸念しているのが、学校側だった。
春高には既に『報知くん』を始め、盗撮を行うための仕掛けが施されている。もし学校側が何らかの対策を講じて、校内を調べ始めた場合、仕掛けも見つかってしまう。
「そこまで考えを巡らせる学校とも思えんがな。ガシアにも気付いておらんし」
「俺もそうだと思いますが、まあ念のためです」
佐藤の指摘どおり、考えすぎなところはあった。
もし日向の盗撮が見つかったとしても、それは春高祭というイベントに湧いた盗撮犯でしかない。そこから『春高にカメラや盗聴器が仕掛けられている』と発想する、酔狂な思考回路を持つ者はそうはいまい。
「で、金庫を使えない理由は?」
佐藤は作業を再開した。
三枚並んだディスプレイに、一斉に何かが表示されたのが見えた。素早く視線を飛ばしている。速読と読んでも差し支えないスピードで、スクロールが進んでいた。
「実は文化祭の仕事をサボってます。上手い言い訳をつくれなくてですね、無断でサボるつもりです」
「それでこの時間か。傍迷惑な話よの」
「すいません」
佐藤はいったん動きを止め、ため息をついた後、
「ワシはまだ眠れそうにないの。五時には終わるじゃろ」
「しれっと厳しい制限時間を突きつけますね。できますけど」
「……」
佐藤との会話が途絶えた。
それを日向は、話は終わりという合図だと受け取った。
しかし佐藤は、言葉を失っていただけだった。
報知くんの取り扱い方、ここから春高までの距離、ガシアを操作して侵入して、何カ所も仕掛けている報知くんを回収して――聡明な佐藤だからこそ、一時間以内に終わらせることの難しさをリアルに算定できた。
それを日向はできると言ったのだ。
改めて日向の底力を突きつけられたのだった。
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