9 休息日9
同日、午後八時。
帰宅した祐理を待っていたのは書き置きだった。
そこには今日の夕食――サラダうどんが冷蔵庫に入っていることと、既に就寝したため起こすなという注意が書かれていた。無論、日向が祐理にあてたものである。
「むー……あやしい」
祐理はあごに手を当てて考え込んだ後、まずは冷蔵庫を開けた。
ラップにくるまれた容器がわかりやすく置いてあった。
サラダうどん――細かく刻んだ野菜のシャキシャキ感と、弾力のあるうどんの食感、そして冷たくコクのあるつゆとが組み合わさった絶品メニューだ。さっぱりしているので、疲れた時でも食べられる。
祐理の好きなメニューの一つだが、つくるのは意外と手間らしく、祐理のおねだりでもつくってもらえることは皆無だった。
ぱたんと優しく閉める祐理の口角は、緩んでいた。
続いて日向の部屋に向かう。
足音を立てないように歩き、物音を立てないようにドアを開閉する。
少し開けると、闇が覗いた。日向の様子はおろか、部屋の奥さえも見えない。
もう少し開ければ見えるだろうが、ふと安らかな吐息が鼓膜を撫でる。起こすのは
祐理は浴室に移動した。
洗濯かごに日向の衣服が入っているのを発見すると、ためらうことなく掴んで、鼻に近付けた。
「……いつもの日向だ」
トレーニングした後の、汗がたっぷり染みこんだ臭い。
よく嗅ぐ祐理にはお馴染みの臭い、もとい匂いだった。
下着にも手を伸ばす。
今度は鼻を接触させるほど近付けた。
「ひなたぁ……」
祐理は一応後方に意識を割きながらも、しばし下着を堪能した。
わき上がってくる欲望を自制する。
誘惑に出たところで、日向が応じるとは思えない。祐理としても、自分の身体という日向にとって未体験であるはずの切り札をみすみす捨ててしまいかねない。
祐理は学習していた。
普段の日向に色仕掛けは通用しない、と。
しかし性欲が死んでいるわけではない、とも。
仕掛けるべきタイミングで仕掛ければ、落とせる可能性はある。
そのチャンスはある。日向とは幼なじみで、こうして一緒に暮らしているのだから。
「……」
下着を元に戻し、服を脱いで風呂に入る。
手早くシャワーを浴びながら、心を落ち着かせた。
祐理もれっきとしたトレーサーである。
パルクールでは身体のみならず精神――特に自制心も鍛える。魅力的な障害物や高低差を前に、迂闊に挑戦することなく、まずは冷静に観察し、調査し、また自分の実力や調子とも向き合い、そうやって総合的に、理性で判断するのだ。そうすることでしか上達していけない。
逆を言えば、実力者であるということは、そういった自制心が優れていることも意味する。
それにしては祐理は以前、むきになって日向を襲っているが、その時も少なからず理性が残っていた。
頭で判断した上での、言ってしまえば打算的な行動でもあった。
祐理は間もなく平静を取り戻す。
女子にしては早い時間で、風呂を出た。
着替えを済ませた後、リビングで一人、テレビも付けずにサラダうどんを食べる。
物音一つしないリビング。元々防音性に優れたアパートであり、唯一隣接している部屋主も不在。そもそも春日野町という閑静な住宅街の、ファミリーエリアから外れた場所に位置しているのだ。
祐理はテレビをつけようとして、やめた。
この静けさが好きだった。
日向が先に寝ていたり、トレーニングなのか外出していたりする時は何度もある。テレビを持ち運んだのは祐理だが、こうして見ないことも多い。
日向もそうだった。
テレビに限らず、静寂を好んでは、身を任せていた。
施設内でも、近所の山でも、遠足先の川や海でも。
誰よりも日向のあとをつけ、しつこく追い回し、食らいついてきた祐理だからこそ、その気持ちがわかる。
静寂は、心地良い。
しかし祐理は、それだけではなかった。
何より日向が好きだった。
他には目もくれず、ただただ自分を鍛え、追い込み、また向き合い続けるその姿に興味を持った。
憧れて、羨んで、恋い焦がれた。
「ただトレーニングをしているだけ、だと思いたい――」
祐理は自らに言い聞かせるように、小声でつぶやく。
サラダうどんを味わいながらも、思考をぐるぐると回していく。
やがて完食し、頭も落ち着いてきた。
「――うん、だよね。今の日向は、日向らしくない」
食器をキッチンに運ぶ。
蛇口を
「日向なら、わたしなんて気にしないもん」
施設時代を一緒に過ごしてきて、見続けてきたからこそわかる。
確信を持って、断言できる。
日向は自身のトレーニングにおいて、祐理など気にしない。
どこであろうと、誰がいようと、変わらず自分を発揮し続ける。
安定感を。正確性を。
人間味の感じられないパフォーマンスを、機械のように淡々と実現する。
常に。何度も。何度でも――。
そんな日向だからこそ、祐理は憧れた。
そんな日向が、慣れているはずの幼なじみを避けているという事実。
理由を問えば、トレーニングに集中したいからだという。
祐理には日向というトレーサーの次元がわからない。
先月の練習会の、新太の新技練習の時のように、一切のノイズを許さない集中が必要なほどの高みにいるのかもしれない。
施設時代はそのレベルにいなかったが、こうして今年再開するまでの間にレベルアップしただけかもしれない。
「でも、そうは思えないんだよねぇ……」
そもそも新太と日向とでは練習の方向性が違う。
新太はトップアスリートとして、競技や演技という形で完成度を高める。ノイズが許されないのは容易に想像できる。
しかし日向は違う。
より高度な障害物や地形を越えるために、ただただ訓練するのみ。そして障害物にせよ地形にせよ、ノイズはつきものである。都会の通行人やセキュリティしかり、自然の気候や生物しかり。
かくいう日向自身からも聞いたことがある。
――アスリートは、言うならば動物園の猿だ。安全の保証された檻の中で、客のために芸を磨くだけ。
――俺は違う。トレーサーだ。
――パルクールはな、ここから見渡せる町や自然を……いや、ここだけじゃないぞ、ありとあらゆる環境すべてだ。すべてを掌握するための挑戦なんだ。
――生半可な覚悟じゃ相手にもならねえんだよ。まあ俺もそれが第一目的じゃないんだけどな。
意味は半分も理解できなかったし、今もできないが、アスリートとトレーサーの違い――日向が考えている差異はわかる。
そんな日向なら、むしろ祐理というノイズも『越えるべき障害』の一つとして訓練の道具にするのが自然ではないだろうか。
「何かある。絶対に」
蛇口をきゅっと止める。
「幸いにもヒントはごろごろあるよね」
日向が引っ越し先として、ここを選んだ理由。
日向をプロトレーサーにするべく、二人三脚で歩んでいる者の存在。
日向の部屋にある、開かずの金庫。
頑なに祐理を避け、あまつさえ逃げて見失わせるほどの用心。
そもそも学校で実力を隠している理由も気になる。
施設時代は何一つ隠すことなく、むしろ自分が楽しむためにイタズラや挑発を仕掛けては、鬼ごっこを楽しむような人間だった。
何かがおかしい。
何かがひっかかる。
何があるのかはわからない。
だけど、何かがあるのは間違いない。
「絶対に暴いてやるもん。……ストレッチして寝よ」
祐理は静かに決意した後、間の抜けたあくびをした。
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