2 朝

 六月十八日、日曜日の午前八時。

 いつもならグラウンドは静寂そのもので、せいぜい熱心な運動部員がアクセントを添える程度だが、今は見る影もない。文化祭開幕直前の忙しさと熱気だけでも、平日以上の喧噪を見せている。

 一方で、読書に集中できるほど静かな場所が一つ――防音の整った図書室では、志乃と山下が準備にあたっていた。


 出入口の受付スペースから奥を見やると、多数の本棚が集められている。間隔は不自然に狭く、すれ違うのも大変そうだ。

 今日の催し――ビブリオバトルのために動かしたのだった。これも可動棚のおかげであり、もっと言えば先月のリニューアル作業のおかげだった。


 そんな本棚群の手前がメインスペースであり、客席と演説台が置かれている。

 演説台のそばにはホワイトボード。その前でキュッキュと手際よく書き込んでいた山下が「できたわ」マーカーを置く。


「志乃ちゃーん。クロスチェックお願いね」

「はーい」


 カウンターを整えていた志乃が小走りで向かい、ホワイトボードに目を通す。


 第一回春日野高校ビブリオバトル。

 開始は午後1時、終了は午後5時。

 参加者は20名で、4人1ブロックの計5ブロック。

 まずはブロック毎に戦って決勝進出者を決めた後、最後に5人で決勝戦。

 バトルは1ブロック30分で、1人5分の発表と2分の質疑応答――


 そんな情報が端的に書かれていた。


「クロスチェックは問題ありません」

「了解」


 山下は志乃の隣に並び、ホワイトボードを眺めた。

 志乃がつぶやく。


「結局ガチめになっちゃいましたねー……」

「仕方ないじゃない。初心者を対象にするには、人が足りないんだもの」


 ちなみに各ブロックでの投票は最後の2分で行う。てきぱき行動しなければあっという間にオーバーしてしまう。

 休憩は10分ほど確保してあるが、志乃はスタッフとしてその間に集計を行い、決勝進出者を確定させておく必要がある。忙しいのは明らかだった。


「どう? 今日はできそう?」

「はい。大丈夫です」


 心配そうに尋ねる山下に、志乃は穏やかな笑みを返した。


 一応文化祭の出し物ではあるものの、今回のバトル参加者はほぼ外部の人間――もっと言えばビブリオバトルコミュニティの人間だ。

 ビブリオバトルのコミュニティは狭いもので、志乃はともかく、山下は参加者の半数以上が顔見知りである。

 頼れる山下と、彼女の仲間たち。居心地が良いのは間違いなかったし、経験者揃いだから進行もてきぱき進む。


 ちなみに春高生の枠は一ブロックで、いずれも国際科の生徒だ。普通科の生徒は存在さえも知らないだろう。


「それはそうと、彼がいないのは残念ね。どんな司会進行をするか見てみたかったわ」


 日向が今日休む旨は志乃が伝えている。


「外せない用事って何かしらね」

「さあ……。私も気になりますが、ちゃんと働いてくれたので問題ないと判断しました」

「そういえば準備もサボりがちだったわよね。何か関係があるのかしら」

「どうなんでしょう」


 志乃がホワイトボードを見たまま答えていると、


「嘘が下手ね。白状なさい」

「……バレましたか」

「あまり隠す気がないように見えるけど」

「はい。これはお仕置きです」


 日向の事を思えば真面目に隠すべきなのだろうが、志乃はねていた。

 いくら事前に合意を取っていたとはいえ、図書委員としての仕事を放棄されるのは気分の良いものではない。そもそもこれは打算的な交換条件である。愛情も何もあったものではない。

 早い話、相手にされていないことが気に入らなかった。


 そんな志乃の心持ちを何となく山下は察して、柔らかく微笑む。


「悪い子ね。次会ったらいじってあげるわ」

「お願いします」


 二人してくすくすと笑うのだった。






 二年A組教室の、廊下側の窓には『WANTED』と題されたポスターが何枚も並べてあった。オーリー役の生徒が写っており、賞金ならぬポイントも併記されている。


 出し物『オーリーを探せ』は、校内に散らばるオーリーを探し、オーリー本人からスタンプをもらうというアトラクションだ。

 教室は受付案内となっており、スタンプの数に応じて景品交換が行える。


「うー……」

「一ノ瀬さん、機嫌直さなあかんで。スタンプは持ったか?」

「わかってる。持ってるけど……うがーっ」


 オーリー役の一人、祐理は手に持ったスタンプを乱暴にもてあそんだ。

 その手にはカラフルなネイルが塗ってある。祐理を探すヒントは『美少女』と『ネイル』であった。


「後夜祭、ワイと回るか?」

「やだ」

「タクマンも誘うで?」

「そうじゃないもん」


 二度断られると、成瀬誠司は「なはは」と大らかに笑った。

 祐理と並んで歩く。持ち場に移動するためだ。

 誠司のトレードマークは『金髪』。元々の体格と表情もあって、近づきがたさが一層増しており、生徒は自然と道を空けた。


 誠司が隣を見ると、しょげているのか怒っているのかよくわからない横顔が浮かんでいる。


「ほんまに好きなんやな、渡会君のこと」

「うん。大好き」

「ええなー、渡会君。ワイも幼なじみとか欲しかったわ」


 祐理は日向が無断で姿を消したことを根に持っていたが、いつまでもそうしてはいられない。

 あと数十分もすれば春高祭の二日目が始まり、大勢の来訪者が押し寄せてくる。オーリー役として果たすべき責任は果たさねばならない。

 それに、こうして励ましてくれている誠司にも失礼だ。


「……成瀬くん。ありがと」


 渡り廊下で立ち止まり、祐理は笑顔で礼を言う。


「構へん構へん。後夜祭デートでええで」

「いやって言ってるでしょ」

「なはは」

「佐久間くんもだけど、なんでそんなに軽いかなー」


 軽はずみで日向を誘惑する自分を棚に上げた台詞だったが、誠司が知る由はない。


「そんなの一ノ瀬さんが可愛いからに決まっとるやん?」

「成瀬くんって見た目だけ見る人?」

「見た目も、や。当然やろ。人は中身や、みたいなこと言う奴もおるけど、そんな恵まれた奴はそうはおらへん」

「恵まれたってどういうこと?」


 誠司は少し歩いて、窓に前からもたれた。視線は下を向いている。豪華絢爛ごうかけんらんに装飾された校門が見える位置。


「……一ノ瀬さんは渡会君が幼なじみなんやろ。ええことや。容姿とか能力とか、そういうの気にせず親しくなれるんやから」


 思春期が近づくと否応なしにステータスが気になってしまう。

 頭では容姿が全てじゃない、能力が全てじゃないとわかっていても、口や態度にしないだけで、気にはしてしまう。

 大人になったら、さらに多くのステータスを――たとえば経済力や立場も気にしてしまうのだろうか。


 誠司はそんなことを端的にこぼした。


「それは否定しないけど、こっちも良いことばかりじゃないよー」

「たとえば?」

「壁が高くてもね、登るしかないの」

「……」


 質問に反して、答えは抽象的だったが、誠司は何となく理解できた。


 今日という一大イベントに。

 こんな幼なじみがいて、好かれてもいるのに。

 それでも日向はサボったのだ。


 きっと一度や二度ではないのだろう。

 傍目では兄妹のように仲睦まじくも見えている二人だし、そういうものさえ持たない誠司にはひどく羨ましく見える。

 しかし、目の前の妹は満足していないし、満足させる唯一の方法が、容易には手に入らないそれなのだ。


「辛いなら諦めてもええんとちゃうか……いや、そう単純でもないか」

「うん」


 祐理は容姿はもちろん、人柄も良ければ運動もできる。体育で熱心に沙弥香と競う風景を見るに、努力も惜しまないタイプなのだろう。

 であれば、自分を満たす手段などいくらでもありそうだが、祐理はそうではないという。

 日向というハードルを越えることでしか満たせないのだと。


「難儀やな」


 他人事のように独り言ちる誠司。


 誠司は今まで努力らしい努力をしたことがない。

 勉強が赤点なのもそうだし、スポーツテストで二位を取れる運動能力もたまたま恵まれていたからにすぎない。

 部活に入っているわけでもなければ、一位の琢磨に勝つべく頑張る気もない。

 しかしながら、負ければやはり悔しいし、前回のテストでは正体不明の人物――実は日向なのだが――に一位をかっさらわれた。


 それでも頑張ろうとは思えない。

 頑張るという行為が、いたく滑稽で、気怠けだるく感じられる。そうすることでしか得られないものもあるだろうに。


 いや、そういうことでさえないのだろう。

 頑張るとか、頑張らないとか、そういう問題ではないのだ。

 そういったものそのものを誠司は欲していた。


 琢磨は人生はドライなものだと割り切っていたが、誠司はまだまだ捨てきれない。


「……まあええ。今はいったん置いとこか。ワイらはオーリーや!」

「うん。そうだねっ!」


 誠司が努めてテンションを上げると、祐理もジェスチャー込みで乗ってきた。

 そのまま春高祭の話題で過ごした後、二人は分かれて持ち場についた。

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