4 デート3

 午後は日向のターン。


「一度行ってみたかったところがある」


 乗り換えも交え、電車に揺られること数十分。大きめの公園にやってきた。

 幼めの喧噪が微かに届く。小綺麗な広い通路を志乃と並んで歩くと、音量も増していき――目的地の広場に到着した頃には、賑やかなBGMにまで成長していた。

 日差しはますます鋭さを増し、遊具で遊ぶ子供達の顔には汗が浮かんでいる。我が子を見守る母親達は木陰に集まり、視線を頻繁に飛ばしつつも談笑に花を咲かせていた。


「お目当てはここですか?」

「うん。あれ」


 日向が指差した先には滑り台があった。

 しかし、規模が違った。

 巨大だった。小さな丘を覆うように、ぐねぐねと伸びている。


 頂上には六組を超える親子連れが見えている。

 先頭の小さな女の子が滑り始めた。その背中を母親が優しく包み込んでいる。

 傾斜は緩やかで、普通の滑り台ほどのスピードは出ていないが、滑らかな滑りだ。ローラーがついているだからだろう。からからと回る音が聞こえてくる。


「……」


 そんな滑り台を、志乃は黙ったまま見つめていた。


「それじゃ行こうか。それともここにいる?」

「滑るのですか?」

「うん」

「飛び降りたりしないですよね?」


 語気が少しだけ強い。


「もちろん。しない」


 志乃はもう一度滑り台を見た後、言った。


「私も滑ってみたいです」

「じゃあ行こう」


 先導する志乃の背中を見ながら、日向は内心で苦笑した。


 小丘の端に設けられた通路を歩いて頂上へ。

 頂上には鉄柵で仕切られた木製の足場があり、親子連れが並んでいた。


 最後尾につく。出番は数分ほどで回ってきた。


「渡会くん、お先にどうぞ」

「いや、東雲さんから行くといい。俺の後だとやりづらいと思う」

「……」

「その何か言いたそうな目に応えておくと、俺はだよ。ただ、滑り方にもコツがある。俺はクールな滑り方をする。注目も集まるかもしれない。その後だと、変な期待を持たれるよ?」

「いえ、そういう意味では……」


 志乃は丘の下の、滑り終えたばかりの親子を見ていた。がたいの良い父と、小さな女の子。愛する娘を抱えて、楽しそうに滑っていたはずだ。


「後ろが押してる。行こう」


 志乃の背中を軽く押して促した。

 志乃は一瞬、何かを期待する眼差しを日向におくったが、日向はその意図がわからず、気付かないふりをして流した。


 志乃はすぐにてきぱきと行動し、頂上から発進。

 ワンピースの裾を押さえながら滑っていく。その仕草は色っぽいが、下降スピードは誰よりも明らかに速い。羞恥により赤みがかっていた顔は、間もなく涼しげで楽しそうなものに変わった。

 その姿だけを切り取って見れば、ジェットコースターでも楽しんでいると言われても不自然ではなかった。


(滑るスピードが明らかに速い。意識か、無意識か……)


 日向は志乃の滑り方のからくりを見抜いていた。

 斜面を速く滑るにはいくつものコツがある。志乃はそのうちのいくつかを発揮していた。


(やはり要領というか勘が良いな。さすがは学年屈指の好成績者)


 志乃が滑り台の終端に着く。


「ねー、まだー?」


 後方から急かす声が聞こえた。直後、「こらっ」とたしなめる母親。

 日向は振り返り、愛想笑いと会釈を返す。母親も応じてくる。その完了を待った後、日向は視線を落とし、


「お詫びに面白いものを見せてあげよう」


 無垢な男の子に微笑んでから後方――滑降路の伸びる方に飛ぶ。

 その身体が宙に浮いて。


 足場としては鉄棒並に細い。常人ならば着地することすらおぼつかないが、日向は不自然を感じさせなかった。

 つま先の一部のみ接地させたまま、重力に従い、滑っていく。


 滑らかで、速い。

 不自然なほどの加速が生じている。

 それでも日向に慌てた素振りはない。器用に方向転換を行い、入り口で待機しているはずの親子に背を向けたところで「すげえっ!」幼い感心が耳に突き刺さった。

 日向には聞き慣れた音声だった。何の刺激もなければ感慨もない。

 そんなことよりも目下、気にするべきは――


(……見惚みとれてるな)


 惚けた表情を浮かべた志乃。口元が何かを呟いていたのも見えた。ぽろりと漏れている様子だった。

 読唇する余裕はない。この滑降術は余裕を持てるほど甘いものではない。そもそも読唇するスキルなど持ち合わせていない。


 日向はいったん集中して、滑り台のふちを滑り続けた。

 常人ならば一瞬で踏み外し、またコースアウトしてしまうようなスピードであったが、まるで磁力でくっついているかのように日向は安定していた。


(想像通りだ。これでまた一つ、移動の幅が広がった)


 滑り降りスライディング


 滑ることのできる斜面を利用し、高所から低所へと素早く移動する術。体系化されているわけではないが、日向が前々から注目していたアイデアである。

 今までは成功するイメージを持てなかったが、継続的なトレーニングもあり、先日ようやく持つことができた。


 日向が苦戦してきたのも無理はない。

 本質的に難しいからこそ、滑り降りという分野は今の今まで体系化されていないのである。摩擦とバランスの双方を制御しながら移動することなど狂気の沙汰とさえ言えた。

 しかし日向はぶっつけ本番でこなしてしまった。

 イメージさえできれば、あとは日向のものだ。幼少期から屋外で遊び続けた日向には、並外れた適応力がある――



 落ちたら大怪我は免れないような場所を――人工の建造物も、自然でも、狂ったように動き続けてきた。

 失敗の許されない遊び。

 生命を担保にした、極度の集中とスリルの消費。

 非日常は日常になり、刺激は嗜好品と化した。


 そんな生活はやがて日向を覚醒させる。

 集中の蓄積から最高級のリラックスゾーンを生み、負担の蓄積から鋼の肉体を生んだ。


 圧倒的な経験の物量と密度。

 これこそが日向の根源だった。


 その中でもとりわけ優れているものがある。世界屈指の天才エンジニア佐藤をして怪物と言わしめるそれは――頭の処理能力。

 外界の事象を観測し、自身の身体能力で如何様いかように対処するかを判断した上で、行動に移すということ。

 観測。捕捉。変換。理解。認識――

 日向のそれは高速で、正確だ。


 知識や概念の記憶に優れているわけではない。

 物覚えも特段良い方ではない。むしろ不器用で、悪い方だ。

 それゆえに日向自身も自覚していなかった。己の理不尽なまでの限界突破オーバーフローを。

 日向は、自分が通ろうとする空間ならば、一度通っただけで記憶、いや把握することができる。現にこれまでの盗撮活動も、真っ暗闇の春高内で平然と行動してきた。

 そして今では、実際にこの身体で通らずとも、観察だけで再現シミュレートできるまでに至っている。人間離れも甚だしい暴力的能力だった――



 これらを出し惜しみせず発揮したのだ。当然ながら代償も大きい。

 あえていうなら、将棋やチェスのプロ選手が、最高の集中力をもって深読みするようなものだろう。


 地面に着地した日向は、子供たちの賞賛を浴びながらその場に倒れる。

 どさっと重量のある音。舞い上がる砂埃すなぼこり。「渡会くんっ!?」志乃が駆け寄った。

 日向は仰向けになってから、


「――悪かったね。また怒る?」


 満面と言っても過言ではない笑顔を浮かべた。

 それは主に滑り降りを習得した嬉しさによるものだったが、愛想笑いではない、本心の笑顔は、珍しいものだった。志乃にとっても。


「……今回は見逃します。プラマイゼロです」

「なら良かった」


 日向は苦笑を浮かべた後、むくりと立ち上がり、その場を離れながら滑り台の入り口を見上げた。次の子供が滑り始めていた。志乃も日向についていく。

 空いていたベンチに並んで腰を下ろした。


 志乃は日向を見つめた。まずは横顔。それから足。


「さっきのサーフィンみたいな滑り方。とてもクールでしたよ。どんなからくりが働いているのか想像もつきません」

「……」


 日向は応えない。

 雑談を無視するような冷たい人間ではないはずだ。志乃が顔を上げると、その横顔はしかめられていた。


「悪いけど東雲さん。手短に話す」


 志乃は滑り台を向いた。男の子が滑降路の途中で止まり、ふちに両足を乗せていた。明らかに不安定で、思わず両手で口を塞ぐ。


「俺は間もなく、あの子のお母さんと戦うことになる」


 直後、男の子が踏み外した。滑降路の中に転倒。尻餅しりもちをつく形だ。ローラーはアスファルトほど硬くはないが、硬いことに変わりはない。むしろ接地面積が小さい分、痛いはずだ。

 案の定、男の子は泣き出した。


「俺たちの選択肢は二つ。一つ目は、今すぐこの場から逃げること。戦わないという選択肢だね。二つ目は、戦うこと。あのお母さんと口論することになる」


 泣き声はよく響いた。防犯ブザーなど比較にならない。

 何十という親が、子供が、何事かと男の子を見た。そのうちの一部が、原因であろう日向にも向けられたことを日向は察知していた。


「……」

「東雲さん」

「あっ、はい!?」

「時間がない。選んで」

「えっ、えっと……」


 志乃は明らかに混乱している様子だった。視線を向こう側とこちら側とでさまよわせ、口元も何かを言いたそうに動きかけている。


「渡会くんはどうしたいんですか?」

「俺はどっちでもいい。これは東雲さんの問題だ。どっちを選んでも東雲さんが恥をかいてしまう。どっちが被害が少ないかを、東雲さん自身が判断してくれって意味だよ」


 もし逃げるとなれば、志乃は日向と一緒に走って逃げることになる。衆人環視のもと、必死に逃げることになる。

 もし口論するとしても、日向から折れることはない。となれば、傲慢ごうまんな男の彼女ということで、志乃も同類に見られてしまう。


「――任せます」

「任せる? 俺に?」

「はい」


 そう応える志乃の表情には迷いがなかった。

 童顔で、地味なのに、どこか凜々しさがある。


(俺は東雲志乃という人間について、捉え間違いをしているのかもしれないな……)


 日向は頷いた。

 立ち上がり、志乃の前で背中を見せる。


「乗って」

「はい」


 その意図を志乃はすぐに理解し、日向の背中に飛び乗った。

 日向が華奢な両足に腕を通すと、志乃は遠慮なく全身を預けてきた。華奢なのに柔らかく、二つの膨らみも控えめに自己主張していた。


 日向もまた遠慮なく発進した。

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