第4章

1 隠れ家

 五月十一日、木曜日の放課後。

 中間テストまで残り五日に迫っている。間もなく座席のあちらこちらで自習の雰囲気が形成されるだろう。

 そんな空気から逃げるかのように、日向は足早に教室を出た。

 背後から「あっ、わたしもう行くね!」と祐理の声。直後、明らかに走っているとわかる足音が近づいてきて、背中に軽い衝撃を受けた。


「どこ行くの?」

「……今日はクラスメイトと喋らないのか」

「たまには日向と帰ろうと思ってねー。――で、どこ行くのー?」


 何かを疑うようなジト目。

 誰にも聞かれないよう、日向は小声で、


「トレーニングだよ」

「またそれ。……ねー、本当は何してんの?」


 早歩きする日向の真横をキープしながら、祐理が上目遣いで覗き込んでくる。

 真剣な面持ちが浮かんでいた。表情が豊かだな、などと軽口を叩ける雰囲気ではない。


「だからトレーニングだよ。祐理は何を気にしてる?」

「べっつにー」


 祐理の視線を感じながらも早歩きを続け、すっかり歩き飽きた下り坂の大通りを下る。

 どうやら下校の一番乗りらしく、前方に春高生は見当たらない。


 日向は走り出していた。


「あっ、ひなたーっ!」


 すかさず祐理も走り出したことを足音から察知した。半秒も経っていない。男子顔負けの反射神経と運動神経は相変わらずらしい。

 祐理が伸ばしてきた手を、少しだけスピードを上げて回避する。日向は走りながら振り返り、


「悪いな。もうトレーニングは始まってるんだ」


 さらにペースを上げた。

 祐理との距離はぐんぐん離れていき、間もなく足音が聞こえなくなった。


(ふっ、意外と冷静じゃないか)


 下り坂の全力疾走は負担がかかる。勝ち目がほぼ無い上に、負担もかかるとなれば損もいいところだ。祐理はその辺りの勘所にも鼻が利くらしい。早々に諦めたのだ。

 日向は感心しつつ、背後から届く叫び声は無視して、駆け続けた。






 日向は春日野町から一駅先にあるマンションを訪れていた。

 ジンが住むタワーマンションと比べると規模も広さも雰囲気もチープだが、戸数はそこそこ多く、100を超えている。


 オートロックを開錠してロビーに入り、郵便受けをチェックする。

 開けたのは703号室の分。表示名は『浅田』。偽名である。

 中身は全てチラシだった。そばにあったごみ箱に捨てた。


 エレベーターで七階へ行き、703号室に入る。


 ――盗撮活動用の拠点が欲しいんですけど。


 日向が以前からジンに頼み込んでいたことだった。

 実は祐理が押しかけてくる前から利用可能になっており、家具家電や日用品は既に揃っている。といってもストイックな日向ベースであるため最低限だ。生活感はない。

 しかし部屋が寂しいかというと、そうではなかった。むしろ華やかでさえあった。


 衣服だ。

 まるでアパレルショップのように業務用ハンガーが並び、服が掛けられている。

 特にワンピースやスカートといった女性用の衣類が目立った。


 日向はシャワーを浴び、よく拭いた後、裸のまま化粧台の隣に立った。

 姿見スタンドミラーに全身が映る。鋼のように引き締まっているが、見慣れた自分の身体だ。何の感慨も無い。

 日向は片足を上げ、すねを撫でてみた。

 ざらざらした感触がある。日向は毛深くない方だが、それでも高校生男子である。見た目でわかる程度には生えている。


「どうせ隠すことになるだろうけど、念のため処理しておくか」


 化粧台からワックスを取り出す。

 ブラジリアンワックスと呼ばれる、脱毛用のワックスだ。これを脱毛したい部分に塗り、その上からペーパーを被せて一気にげば、ワックスの粘着力で根こそぎ抜き取れる。

 痛みは強いが、剃毛ていもうや除毛よりも肌の負担が少なく、美容面でメンズに流行っているらしい、とジンから聞いた。ワックスもジンが愛用するメーカーと同じものだ。


 しばしワックスと格闘し、両足とも足首からすねの部分まで脱毛した。

 力強そうな肉付きを除けば、女子の生足と大差無い、つるつるな仕上がりだった。


 ワックスをしまう。

 部屋の隅からキャスター付きハンガーラックを引っ張り出す。ラックを転がしながら、服をピックアップしては掛けていく。

 一通り集め終えたところで、再び姿見のそばに戻ると、日向は一着ずつ着用を試みた。


 まずはスカートを履く。

 露出した両脚に目をやる。


「……肉付きが良すぎるな」


 ボリュームの過多ではない。単に大きいだけなら身体の大きな女子としてコーデすればいい。

 問題は筋肉だ。

 日向の目には凹凸おうとつが目立っている。素人でも注視すれば不自然に見えるかもしれない。


 黒のストッキングを重ねてみた。

 素肌がシルエットと化したが、まだ凹凸が目立つ。逆に際立っているようにさえ見えた。


「やはり生足を晒すのはダメか」


 続いてスウェットを着用した。

 スウェットと言えばパルクールウェアである。軽くて通気性にも優れ、肌も隠してくれながらも、そこそこおしゃれだ。国内はさておき、海外では女性実践者トレーサーも当たり前のように履く。


「……ダメか。浮くな」


 しかし普段着としてはいささか難易度が高かった。よほどおしゃれでなければ浮いてしまうだろう。


 スウェットを脱ぎ、レディーススーツを手に取る。スカートではなくパンツの方だ。「暑そうだな」嘆息しつつ、着替えた。

 いかにもフォーマルな装いだ。オフィス街や就活イベントであれば違和感は無いが、カジュアルな場ではかえって目立つに違いない。


「フォーマルな場での盗撮なら使えそうだけどな……」


 日向がこうして女装に精を出すのには理由わけがあった。


 美穴びけつコンテスト――通称『ケッコン』。

 盗撮動画販売サイト『カミノメ』において開催予定の動画コンテストである。穴とは女性器あるいは肛門を指す隠語であり、ケッコンが募集するのはすなわちトイレ盗撮動画だ。

 優勝賞金は300万円。三枠ある優秀賞でも100万円、と羽振りがいい。それだけでも優勝を狙う動機にはなる。

 日向も当然ながら狙っていたが、真意は別にあった。


 コンテストはカミノメ初の試みである。カミノメユーザー中の注目を集めることになるはずで、もしここで入賞できれば知名度は著しく上がる。

 知名度が上がれば、コンテンツを購入する客も増える――

 長期的に見て、利益が増えるのだ。


 しかし入賞が簡単ではないことは火を見るより明らかだった。

 トイレ盗撮はカミノメでも一、二を争うメジャーコンテンツであり撮り師も多い。もこぞって参加するだろう。

 必然、応募作品のクオリティは高くなる。少なくとも単に女性の穴を盗撮しただけではかすりもしないだろうし、そもそも日向にとっては――いや、男性の撮り師にとっては盗撮すること自体が難しかった。

 先日出会った撮り師『ビビ』を始め、女性撮り師であれば、堂々と盗撮の舞台に潜り込める。トイレはおろか銭湯の盗撮さえ可能だ。

 一方、男性は、入ることさえままならない。


 もっとも日向であれば、人目の隙を突いて女子トイレに侵入し、盗撮して撤退することなど容易い仕事だが、それでは警戒がメインになってしまい盗撮に集中できない。

 集中できねば、クオリティを高めることもできない。

 だからこその女装であった。


 この女装というアイデア自体は祐理が来る前――それこそ何年も前から考えていた。

 ジンに拠点を要請していたのもそのためだ。たとえ祐理がいなかったとしても、普段の自分と女装した自分が自宅を出入りしていれば、傍目には怪しく見える。その点、このようなマンションであれば、戸数が多い分、怪しまれない。マンションを出入りしても、外からは住民の一人にしか見えない。普段の日向と、女装した日向が結びつくことはない。


「……待てよ。そういえば」


 日向はスーツを乱暴に脱ぎ捨て、パソコンに向かった。

 検索サイトを開き、女性向けのパルクールコミュニティサイト名を打ち込む。ヒットした検索結果をクリックしすると、トップページが開かれた。


 クールな女性トレーサーの画像が表示されている。

 以前練習会で顔を合わせたリイサだ。

 メディア露出も当たり前の実力者で、女性向けの啓蒙にも積極的。まだ高校三年生一歳年上なのによくやる、と他人事のように思いつつ、彼女の履くボトムスに注目する。


「女性トレーサー向けのズボンで、スウェットよりもダサくないやつ。確か紹介していたはずだ」


 日向はしばしサイトを巡り、間もなくブログの存在を思い出し、過去記事を巡っていった。


「……見つけた」


 その記事では女性トレーサー用のパルクールウェアが紹介されていた。

 スウェットに代わるウェアとして『ガウチョ』が勧められている。ガウチョとは裾の広い七分丈パンツのことだ。


「七分丈か。もう少し隠したいな。そうだな、足首くらい」


 ぶつぶつ呟きながらも日向は検索サイトを巡っていく。ガウチョというキーワードを頼りに、似た服が存在しないかを調べた。画像検索にも頼った。


 数分ほど調べたところで結論が出た。


「ワイドパンツが良さそうだな」


 日向は早速通販サイトを開き、購入していった。

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