第3章

1 交差

「今日からテスト週間だ。寄り道せずに勉強しろよ。それじゃ号令」


 春高では一週間前からテスト週間となり、部活も順次休止していく。

 ホームルームが間もなく終了すると、沙弥香が祐理の席にやってきた。


「アンタはどうすんの?」

「どうするって?」

「テスト週間になると教室で勉強する人が増えるのよ。図書館は使えないしね」

「へ-、そうなんだ」


 祐理は司書の山下先生から叱られたことを思い出しつつ、教室を見渡す。ノートや教科書を広げた机を取り囲む光景が既に複数できていた。


「沙弥香ちゃんはどうするの? サッカーしないの?」


 琢磨と誠司はサッカーで遊ぶと言っていた。


「アタシは天才でもなければバカでもないわ」

「天才? それって佐久間くん?」

「ええ。琢磨の成績は学年五位よ。ほとんど勉強していないくせに。そのくせスポーツテストでも二位なんだからホント腹立つわよね」

「ふうん。さすがに一位は取れないんだねー」


 祐理は荷物を片付けながら話す。


「そうね。勉強では春日春子かすがはるこがずっと一位だし、スポーツテストもアイツ――じゃなくて誰だか知らないけど今年は取れなかったみたいね。去年は琢磨が一位だったのよ」

「凄い人もいるんだねぇ……」


 沙弥香は日向の事を言いかけて、誤魔化した。日向とはバラさない約束になっている。もし破ったら、自分が兄想いブラコンであることもバラされてしまう。

 間延びした口調で感心する祐理を見て沙弥香は安堵していたが、一位の正体は祐理も知っている。実は二人とも同じ人物を浮かべていた。


「祐理。帰るのはいいんだけどアンタ、勉強はどうする気? たぶんできない方よね」

「ひどいよ沙弥香ちゃんっ! わたしそんなにあんぽんたんに見える?」


 沙弥香が「ええ」と即答する。祐理は「このやろー」沙弥香の胸を揉んだ。


「ちょっ、何してんのアンタッ!?」

「仕返しだよー。これでおあいこだね」


 沙弥香が教室を見回すと、顔を赤くした男子数名から目を逸らされた。普段なら鋭い口調で絡むところだが、今は羞恥心が勝る。

 祐理を引っ張って教室を出る。「はぁ」と祐理が嘆息した。


「ため息つきたいのはアタシなんだけど」

「日向が冷たくて辛いんだよぅ」

「知らないわよそんなこと」


 並んで廊下を歩く。


「……アイツ、仮病よね?」

「そだね。わたしもそう思う。日向は誰よりも健康だもん」


 ジンとの打ち合わせのために早退した日向の演技は、あっさり見抜かれていた。


「せっかく勉強を教えてもらおうと思ったのに」

「アイツ勉強できないでしょ」

「いいのっ。日向と一緒に過ごすことに意味があるんだよ沙弥香ちゃん」


 したり顔で語る祐理を見て、沙弥香は思う。

 祐理はなぜこんなにも日向を慕っているのだろう。やはりパルクール実践者――トレーサーとして非凡な力を持っているからだろうか。

 日向は沙弥香が愛する兄、国内を代表するトレーサーである新太が認めた存在だ。実際その実力はスポーツテストや練習会で目撃している。

 目撃と言えば今日も。


「ねぇ祐理……アイツって学校でもパルクールしてるの?」


 耳を近づけて小声で訊く。

 沙弥香はトレーサーであることを学校では隠している。祐理も小声で応じた。


「んー、まだ見たことはないけど、してると思う」

「そう……」


 昼休憩の時、沙弥香は日向を尾行し、五階の男子トイレに入っていくところを目撃している。結局日向は出てこなかった。にもかかわらず、教室に戻っていた。

 外から飛び降りたか、あるいは壁を伝って降りたのだろう。理由はわからないが。


「なんかもどかしいわね……」


 日向以外の男など眼中に無い沙弥香であるが、日向が気になって仕方がない。

 自分を隠すかのような言動。不可解なトイレ脱出。そもそも同い年でありながら、新太が認めるほどの実力者――

 アンタは何者なの。何がしたいの。答えるまで逃がさないわよ。そう問い詰めたい気分だったし、今後、衝動的にそうしてしまうかもしれない。


「もどかしい?」

「思うようにいかなくて落ち着かないってことよ」

「意味は知ってるよっ! 何がもどかしいかを訊いてるの」

「ふふっ、冗談よ。何でもないわ」


 自制しなければと胸中で決意しつつ、適当に誤魔化す沙弥香だった。


 玄関で靴を履き替える。

 沙弥香はピンク基調のランニングシューズだ。春高は風紀を乱さない程度に自由が認められており、沙弥香は歩きやすさを重視している。ファッション性にも富んだデザインで、派手に着崩した沙弥香にも似合っていた。

 隣で履き替える祐理の足下をチラ見する。ローファーだった。春高の支給品ではない。転校前の学校で履いていたものか。


 二人とも履き替えて、歩き出そうとした時だった。


「あっ」


 こちらに向けられた声。

 振り向くと、お下げを垂らした膝下スカートの女子が立っている。片手には文庫本。


「おっ、志乃ちゃん」

「こんにちは」


 志乃が丁寧に会釈する。


「この子は?」

東雲志乃しののめしのちゃん。わたしと日向の友達」

「ふうん……――え!? アイツも?」

「うん。図書委員なんだよね」

「は、はい……」


 志乃の柔らかな雰囲気には怯えが混じっている。沙弥香に対してだ。

 派手な女子には慣れていないのだろう。しかし沙弥香はまどろっこしいことが嫌いだ。手を差し出す。


「新井沙弥香よ。祐理と同じA組。よろしく」


 志乃はぽかんとしていたが、慌てて文庫本をしまってから、


「東雲志乃と申します。お隣のB組です」


 沙弥香の手を握る。


「アイツと同じ図書委員なんだってね? 大丈夫? 何かされてない?」

「いえ。むしろお世話になりっぱなしで……」

「お世話に? ……そう、意外ね」


 握手を解除し、あごに手を当てて考え込む沙弥香。


「誰かにかまうような人間には見えないんだけど……もしかしてこういうのが好みなのかしら?」

「え、えっと、新井さん?」

「沙弥香」

「……さ、沙弥香、さん?」

「そっ。堅苦しいのは無しにしましょ。アンタのことも志乃と呼ぶわね。いい?」

「は、はい。よろしくお願いします」


 ぺこりと会釈。


「――それで沙弥香さん。何を悩んでおられるのですか?」


 沙弥香のペースに戸惑っていた志乃だったが、もう慣れたようだ。

 少し不安そうに静観していた祐理も会話に加わる。


「沙弥香ちゃん。さっきから日向のこと気にしてるよね」

「気になるというか目障りなのよ。何なのアイツ。謎すぎて腹が立つわ」


 志乃も靴――ちなみに学校至急のローファーだ――に履き替え、三人固まって歩き出した。

 沙弥香と祐理が並び、その後ろに志乃というポジションだったが、祐理が後ろを向いて、


「志乃ちゃん。遠慮は要らないぞよ?」


 志乃を真ん中に引き込もうとする。


「よくわからないけど、あまり卑屈になるのはよくないわよ」

「いえ、そういうわけでは」


 渋々二人の間にはさまりつつも、志乃は続ける。


「単に横並びで歩くのが苦手なだけです。幅を取っているという罪悪感がありませんか?」

「無いわね。狭い道なら配慮するけど、どうせふもとまでは広い歩道の一本道じゃない」

「わたしもあまり考えたことないなー。あっ、でも日向も同じこと言ってた」


 祐理が思い出したかのように言うと、「アイツが?」「渡会くんが?」沙弥香と志乃の声が被った。

 顔を見合わせる。好奇の宿った志乃の目がこそばゆくて、沙弥香は目を逸らしつつ、


「どんな風に言ってたの?」

「えっとねー、確か『トレーサーたるもの通行人は常に尊重リスペクトすべし』とか『尊重できない者は眼が備わっていない未熟者だ』とか、そんなことだったかなー」

「痛々しくてひくわ」


 それはパルクールに関する話題であったが、パルクールを知らない志乃には「トレーサー? 眼?」ちんぷんかんぷんだった。


「そっか、志乃ちゃんは知らないんだっけ。トレーサーというのはね――」

「祐理」

「あ、そっか。ごめんごめん」


 ちろっと舌を出す祐理に、沙弥香はため息をつく。

 志乃は気になって仕方がなかったが、掘り返すほど図々しくはない。キーワードだけしっかりと頭に焼き付けておいた。


「で、そんなことはどうでもよくて。祐理、結局テスト勉強はどうするのよ?」

「……」

「どうするのよ?」

「あ、明日から本気出す……」


 沙弥香はもう一度嘆息すると、スマホを取り出して目を落とす。


「沙弥香さん?」

「空いてそうな店を探してんのよ。テスト勉強で篭もれそうな場所ね」


 春高生が放課後に寄るところと言えば、広くて長い下り坂を降りた先、通称『ふもと』のエリアだ。ターミナル駅が構えられていることもあって、飲食店や商業施設が程々に集まっている。

 しかし所詮はニュータウン――住むことに特化した住宅街であり、店舗数も規模もたかが知れていた。春高生だけであれば余裕だが、実際は何千と居住する住民も利用する。どの店もそこそこ混むのだ。

 だから春高生はツブヤイターを覗いて、生徒や住民のリアルタイムなツブヤキから混み具合を推し量ることが多い。


「二人とも頑張れぃ……」

「他人事じゃないわよ。少なくとも祐理、アンタは連れて行く」

「えぅー……」


 祐理は志乃にしなだれて、


「志乃ちゃん助けて。沙弥香ちゃんがいじめる」

「沙弥香さん。無理強むりじいは良くないと思うんですけど……」

春高うちが容赦無いのは知ってるでしょ。後々補習で苦しむのは祐理自身なのよ?」


 志乃が首を傾げる。


「赤点、ですよね。ふざけなければまず取ることはないと思っていますけど……」

「そうね。でも見た感じ、祐理はかなり危ない。誠司と同じ臭いがする。言ってることも同じなのよ」


 今頃サッカーで遊んでいるであろう誠司。運動では琢磨に次ぐ校内トップランカーだが、勉強はからっきしで、赤点の経験も一度や二度ではない。


「ちなみに前の学校ではどれくらいだったんですか?」

「んー、赤点を取らないくらい」


 呑気な口調で答える祐理を前に、志乃から笑顔が消える。


「赤点を基準に持ち出す時点で相当ヤバイわね。といってもアタシもそんなに余裕はないんだけど」


 沙弥香も良いところ平均レベルである。


「ちなみに志乃はどうなのよ?」

「わ、私ですか……?」


 言い淀む志乃を見て、沙弥香は確信する。


「アンタも同類なのね」

「いえ、そういうわけでは……その、去年は学年三位でした」


 志乃が恐る恐る目を向けると、沙弥香は顔を引きつらせていた。やや薄いがメイクもかかっており、いかにもキツそうな美人という雰囲気が強いだけに迫力がある。

 しかし、もう一人の脳天気には通じなかった。


「沙弥香ちゃん、恥ずかしいね」

「い、今のは忘れなさい……」

「フッ、アンタも同類なのネ?」

「誰の真似よそれ!?」


 志乃をはさんで祐理につかみかかる沙弥香。偉そうなところとか、意外と似ているなと思う志乃だったが、口には出さなかった。

 代わりに、別の勇気を出そうと決意して。


「あの、もし良かったら、わ、私も……ご、ご一緒してもよろしいでしょうかっ!?」


 志乃を間にはさんだまま動きを止める二人。


「その、放課後にお友達とお勉強とか、したことがなくて。お二人がよければ、ですけど――」

「よろしくお願いしますっ!」


 祐理がガバッと抱きついた。

 柔らかな感触が志乃の身体を包む。


「アタシからお願いしたいくらいよ。それに遠慮なんて要らないわ。ダメならダメって言えばいいんだから」


 沙弥香が優しく微笑んだ。

 温かな感情が志乃の心を満たす。


「あとは場所だけど、どこも混んでる感じなのよねー……」


 沙弥香が再びスマホとにらめっこしていると、不意に祐理が先行して振り返り、手を挙げた。


「はいっ! わたしに提案があります!」


 道行く生徒らが何事かと視線を向けてくる。


「もうちょっとおとなしくできないのかしら……」

「そこが一ノ瀬さん――ううん、祐理さんの良いところだと思います」

「二人で何ヒソヒソ話してるの?」

「何でもないわ。提案って何?」


 祐理は「こほんっ」とかしこまると、


「わたしの家がこの近くにあります!」


 元気な声でそう提案するのだった。

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