2 お兄さん
――いいか、友達とか勝手に連れてくるなよ。
――必ず事前に俺の許可を取ってくれ。必ず。
そんな日向の言葉を思い出す祐理だったが、頭の隅に追いやった。
どうせ今日も遅いんでしょ。
トレーニングとか言ってるけど絶対何か隠してるよね。
たまに本棚でドアを塞いでる時もあるよね。
怪しい。怪しすぎるよ。
何してるの?
トレーニング? 嘘じゃん。誤魔化せると思ってるの?
そんな鬱憤を晴らすため、祐理は日向にボディタッチしたり、風呂上がりに声を掛けてみたりといったアプローチを何度も試みたが、まるで反応が無かった。
かといって日向が無関心かというとそうではなく、食事は文句を良いながらも要望を取り入れてくれるし、分担している家事を手伝ってくれるし、休日には一緒にパルクールで遊んだりもする。でも、そんなちっぽけな優しさでは満たされない。
日向は何を隠しているのだろう。気になるが、教えてくれそうにはない。ボロも出しそうにない。
いいもんね。そっちがその気なら、こっちだって考えがあるもん――
祐理は身勝手に正当化して、二人の友人を
「春日野街に住んでたとはね。近くて羨ましいわ」
「綺麗な町並みでしたよね。車道も上手く分離されてますし、過ごしやすそうです」
三人は祐理の居候先であり、日向の自宅でもあるアパートに着いていた。
「ここがアンタの家?」
「う、うんっ。家というか、実は居候してるというか……」
「それって、お兄さんとかですか?」
「うん、そう! お兄ちゃんの家なの。忙しいみたいで、ほとんど帰ってこな――あっ」
志乃のどこか気遣うような問い掛けと視線で、祐理は思い出す。
志乃と初めて出会った時のことを。
日向が家族のような存在であることは既に話してしまっている上、一つ屋根の下で暮らしていることも臭わせてしまっていたはずだ。
「そ、そうなんですね」
「そうなのっ! あはは……」
祐理は冷や汗をかきながらも鍵を開けた。
「ささ、どぞどぞ」
開いたドアを支え、二人を通す。
入り
「……殺風景ね」
リビングに入った沙弥香が感想を漏らす。
間取りは2LDKで、リビングも四人家族がくつろげる程度に広い。整理整頓と掃除は行き届いているが、物が圧倒的に少なく、テレビも無ければソファーも無かった。
「し、神経質そうなお兄さん? ですね」
「で、でしょー。わたしも参ってるんだよねぇ」
「居候が偉そうに言ってんじゃないわよ。ここで勉強するのかしら?」
「ううん。わたしの部屋に行こう」
祐理が自分の部屋へと案内する。
「意外と普通ね」
本棚、ベッド、学習机に、中央には座卓。こたつも設置できそうなほどに広い。
特段ファンシーではないが、クローゼットに掛けられた衣類やカーテンの色、ベッドや枕のカバーあたりに女の子らしさが漂っていた。
「沙弥香ちゃんは何を期待してるの……」
「もっと頭がお花畑な部屋をイメージしてたわね」
「志乃ちゃん。沙弥香ちゃんがいじめる」
「よしよし」
抱きついてきた祐理の頭を、志乃は子供をあやすように撫でる。撫でた瞬間、声には出さなかったものの目を見開いた。
その顔芸がおかしくて、沙弥香はくすくすと笑いを堪えつつも、
「気持ちいいわよね、祐理の髪」
「そうですね。何をどうしたらこんなサラサラで透き通る髪質になるんでしょうか」
志乃が夢中でショートボブを撫でる。
「くすぐったいよ志乃ちゃん」
「うふふ。ごめんなさい。もうちょっとだけ」
「もう、仕方ないなぁ」
微笑ましい光景を眺めつつ、沙弥香は座卓のそばに腰を下ろす。
バッグから教科書やノートを取り出し、広げてみせた。
「さあ。やるわよ」
「志乃ちゃん。沙弥香ちゃんがいじめる」
「アンタねぇ……」
「ふふっ。頑張りましょう」
名残惜しそうに祐理から離れ、志乃も座卓について準備を始めた。
「二人とも真面目だねぇ……」
「まずは祐理さんの実力を把握するところからでしょうか。科目は何から始めますか?」
ずらりと教科書を並べる志乃。
「……飲み物持ってくるねー」
祐理は苦笑を浮かべつつ足早に部屋を去った。
「逃げたわね」
「逃げましたね」
嫌いな勉強を思うと頭が痛くなってくる祐理だったが、そんな声を背後に聞いて、自然と笑みがこぼれた。
転入して間もないのに、二人も友達ができたこと。
祐理は誰とでも仲良くなれるが、プライベートで友達と遊んだ経験は少ない。もっとも
ただ、一つだけ不満を言うなら、ずっと隣にいると思っていた幼なじみがいないこと。そこだけは納得がいかない。
「今何してんだろ。……ばかひなた」
三人分の飲み物を準備しながら、祐理は独りごちるのだった。
◆ ◆ ◆
午後七時。ジン宅で早めの夕食を済ませた日向は帰路に就いている。
「今日も疲れたな……」
観察は疲れる。日向は
女性の身体構造、体の柔らかさ。胸が盛り上がっていることや、性器が外に出ていないことを前提とした動き方。髪の扱い方。視線。声音。口調――
情報として、サンプルとして、経験として、日向は自らに蓄積し、落とし込み続けた。
時間にして二時間もないが、入って集中すればその負担は計り知れない。
「予習しておくか」
あと十分も歩けば自宅に着くというところで、日向は寄り道をする。
春日野街に多数存在する公園の中でも、特に
リュックを下ろした後、今日とこれまでの観察結果の両方を想起しながら動く。
歩く。走る。座る。スマホをいじる。辺りを見回す。
公衆トイレの個室に入り、女性の仕草で用を足す動作をしてみせる。
個室を出る。鏡を見る。手を洗う――
女性らしい動き。
男と悟られない動き。
渡会日向だと気付かれない動き。
それが今の日向に――本番の時に求められる演技だ。
日向は鋭敏で正確な感覚を持っている。自分がどのように身体を動かし、それがどのように見えているのかを客観的に把握できるし、特定の動きを見て、どうすればそれを再現できるのかもわかった。
日向は非凡な運動神経を持っている。根本的に足りない筋力――瞬発力や持久力を要する動作でもない限りは
日向は人体を知り尽くしている。棋士が大量の定石や棋譜を記憶しているように、あるいは小説家が膨大な言葉や表現を記憶しているように、日向もまた身体の動かし方や性質、傾向や限界などを知っている。
日向には化け物じみた力が備わっている。これは日向の幼き頃からの経験によるところが大きいのだが、本人に自覚は無い。
しかし佐藤やジン、新太などがその片鱗を見抜いているように確かに存在しているし、今も平然と発揮されていた。
「……うん。イメージ通り。やはり
日向はくくッと顔をニヤつかせる。
「あとは実践で試しておく必要があるな。下着売り場、女子トイレと、そうだな――適当な女子校にでも紛れ込んでみるか」
決して人には聞かせられない独り言を呟いた後、日向は練習を再開した。
結局日向はトレーニングも併せて行い、一時間以上も公園で過ごした。
心地よい疲労感に包まれながら自宅に着く頃には、午後八時を優に過ぎていた。
「さて、風呂入って寝――」
ドアを開けようとしたところで、向こうから開いた。
持ち前の反射神経で一歩身を引きつつ、考える。祐理が待ち伏せしたのだろうか。
いやそれはないなと思い直す。日向はトレーニングがてら無音で歩いていた。接近に気付けるはずがない。
答えは間もなく示された。
志乃と目が合ったという形で。
「わ、渡会くん!?」
眠そうな目が一瞬で覚醒する様は少し面白かったが、悠長な感想を抱いている場合ではない。
「東雲さん? 祐理の家に遊びに来てたんだ」
「はい。テスト勉強を――」
「げっ。渡会。なんでアンタがここに」
志乃の後方から姿を表したのは沙弥香。さらにその後ろから祐理がひょこっと顔を覗かせ、悪気が無さそうにぺろっと舌を出す。
「……沙弥香もか。言っただろ、家が隣だって」
日向は向かいのドアを指差す。
「アンタ、さらりと嘘つくわよね」
「嘘? 何のことだ?」
「じゃあそっちのドア、開けてみなさいよ。自分の家ならできるわよね?」
「……鍵を無くして入れないんだよ。親が帰ってくるまでこっちで待つつもりだったんだ」
「ふうん。それじゃ今は誰もいないんだ?」
「ああ」
「明かりついてたけど」
「防犯のためだ。うちは電気つけたまま出かけるんだよ」
「往生際が悪いわね。なら、こうしましょう。そっちの家のインターホンを連打しなさい。誰もいないなら構わないでしょ?」
「知らないのか沙弥香。インターホンにも電気代がかかるんだ。それに上の階にも音が響く。いたずらに鳴らすものじゃない」
沙弥香の顔がみるみる険しくなっていき、最後にはため息。
後ろの祐理を向いて、
「単刀直入に聞くわね。祐理、アンタが一緒に暮らしてるのってアイツでしょ?」
「あ、アイツって、お、お兄ちゃんのことだよねっ? 帰ってくるのはもうちょっと遅――えうっ」
「そういうのはいいから。ね、志乃?」
祐理の頭にチョップを落としたまま沙弥香が同意を求める。
「……そうですね。私は知ってました」
「あはは、だよねぇ」
苦笑する祐理を横目に、日向は敷居をまたぐ。「東雲さん、ちょっとどいて」玄関からはみ出ていた志乃を誘導した後、ドアを閉めた。
その半ば強引な動作に三人の注目が集まる。
「こうなったら仕方ない。正直に話すけど、俺と祐理は二人暮らしだ」
「……」
沙弥香は訝しむような目つき。志乃は口に手を当てて「まぁ」とでも聞こえてきそうな反応。
「理由は詮索しないでもらえると助かる。他の人にも秘密にしてほしい」
日向はことさらに真剣な表情と声音をつくってみせた。
二人とも常識人である。こう言えば深入りしてくることはあるまいと目論んでいた日向だが、そこに入ってない人物が予想外の発言をする。
「ねぇねぇ日向。わたしは……――いいと思うよ。この二人なら」
この二人になら自分達が孤児であることを伝えてもいい、と。
祐理はそう言っているのだ。
正直のところ、そんなことはどうでも良かった。
日向が懸念しているのはもっと単純な損得――撮り師としてどっちを選ぶのが最善か、だ。
目下避けなければならないのは、日向の部屋を物色されたり、夜間に撮り師として行動中の日向を目撃されたりすることか。
もし二人が今後もこのように遊びに来るのだとしたら、日向としても行動しづらくなる。たとえ二人と仲良くならなかったとしても、祐理の同居人として少なからず関係性は深まるだろう。関係が深くなればその分、干渉されやすくもなる。そうでなくとも、孤児という繊細な事情を共有することは、それ自体がある種、親密の証となってしまう。
いつも一人で、誰からも声を掛けられることがなかった日向。
そんなぼっちの前提が、根本から崩れてしまう。
(いや、既に崩れているか)
内心で苦笑した。祐理や沙弥香とつるんでいる時点で今更だ。
「祐理。俺も別に構わん」
「……ほんとに?」
「ああ」
祐理の顔がぱあっと明るくなった。
元々隠し事が好きなタイプではないし、自宅――厳密に言えば居候の分際だが――に誘ってくるほどの友達であれば、なおさらいい気分ではなかったのだろう。
「えっと、それじゃ……」
祐理はこほんと咳払いをして自らを落ち着かせた後、
「もうちょっとだけ付き合ってもらってもいい?」
解散したであろう二人に延長を持ちかける。
沙弥香も志乃も、時計を見るまでもなく頷いた。
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