3 待ち伏せ

 沙弥香は日向という人物が気に入らなかった。


 日本一と名高い兄、新太から親友と呼ばれるほどの実力を持っていながらも、それを見せようとしない。練習会の時もそうだし、学校生活でもそう。

 トレーサーであることは沙弥香の都合もあって隠すにしても、日向は極端すぎる。五月中旬にもなるこの時期に長袖長ズボンで体育を受けていたし、動きも狙ったかのように女々しくて情けなかった。さっきもその件で琢磨や誠司にネタにされた。あの新太が一目置いているのに。どうしてそれほどの人物がそんな境遇にくすぶっているのか。

 小言の一つくらい、ぶつけないと気が済まなかった。


 沙弥香は遠目に日向の後を追っていた。

 日向は一般棟四階の教室から渡り廊下を通過して特別棟に向かい、さらに階段を上がって五階に着くと、なぜか男子トイレに入っていく。


「人が少ないからかしら」


 さすがに男子トイレに押し入るわけにはいかない。

 沙弥香は渡り廊下の、特別棟寄りの位置に陣取り、壁にもたれて待つことにした。

 道行く生徒――ほぼ一年生である――からちらちらと視線をおくられる。制服を着崩した校内一の美少女が腕を組んでいる格好は沙弥香自身が思っている以上に様になっており、目立っていた。本人は気にもしない。


 そこに躊躇無く近づく男子が一人。


「さーやかっ。何してんの?」

「何よ琢磨。そっくりそのまま返すわ」


 爽やかな笑顔を浮かべた琢磨がしれっと沙弥香の隣にもたれる。

 校内屈指のイケメンが登場したことになり、通りがかりの女子がざわついたが、琢磨も意に介さなかった。


「――日向ちゃんをつけてるんでしょ?」


 沙弥香が思わず振り向くと、琢磨はニコッとはにかんだ。並の女子ならクラッとくる微笑みだが、沙弥香には見慣れたものだ。むしろ図星なだけあってイラッとするまである。


「……別に。何でもないわよ」

「トイレから出てくるところを待ち伏せしている感じなのかな?」

「鋭すぎてキモい」

「あはは、よく見てるからね」


 この男はこういうところがある。よく気が利くのだ。

 それほど鋭いなら日向の真実にも気付けそうだが、まだ気付いている様子はない。それともあえて気付いていないふりをしているのだろうか。

 答えを言うなら前者で、日向の演技が琢磨に勝っているだけの話なのだが、二人が知る由はない。


「で、日向ちゃんに何話すつもりだったの?」

「関係ないでしょ」

「気になるなー」

「っさいわね」


 つっけんどんに答えながらも、沙弥香はどう言おうか考える。すぐにひらめいた。


「見ていてイライラするから言ってやろうと思ったのよ。もっと男らしくしろってね」

「あの場で言えば良かったのでは? いつもみたいに」


 沙弥香がぴくりと肩を揺らす。

 盲点を突かれた。沙弥香は自分の偽る日向を一応尊重するために、あえてこうして知り合いのいないタイミングを狙ったのだが、琢磨には知らない事情である。


「祐理もいい顔をしないでしょ」

「――ああ、なるほど」


 その一言で琢磨は納得したようだった。

 琢磨なら祐理が一方的に日向を好いているという状況を既に理解しているだろう。とっさにしては出来た言い訳だなと沙弥香は自画自賛していた。

 もっとも反応してしまったのは事実で、琢磨もどちらかといえば納得してみせたのだろうが。


「オレも一緒に待ってていーい?」

「勝手にすれば」


 会話が止む。

 渡り廊下の隅に佇む美男美女。控えめに言っても絵になっていて、通行人の二度見も珍しくはなかった。


 一分ほど経ったところで、琢磨が沈黙を破る。


「日向ちゃん、遅くない?」

「そうね」

「大だったりして」

「下品なこと言うなっ」


 沙弥香がその横顔を小突こうとして、あっさりとガードされる。いつもならじゃれ合いが始まるところだが、二人とも意識は日向に向いている。

 琢磨はあっさりと手を離し、


「見てくるよ」


 男子トイレに入っていき、間もなく出てきた。


「……琢磨?」

「うん。いなかったよ?」

「え、いない? そんなワケないじゃない」

「いないんだって。疑うなら見てきなよ」


 沙弥香は顎に手を当て、しばし考え込んでいたが、


「ねぇ。個室は全部見た?」

「見たよ」

「掃除用具入れは?」

「見てないけど、そんなとこに隠れてるわけないよね」


 思案を続ける沙弥香。

 手持ち無沙汰な琢磨はそんな沙弥香を眺めていた。


「琢磨。アタシ、まだ全部食べてないの。持ってきてくれない?」

「ここで見張るの? オレは見間違いだと思うけどね」

「……」


 沙弥香は真顔で男子トイレ側を見つめていた。






 結局沙弥香はパンを立ち食いしながら十分以上見張ったが、トイレから日向が出てくることはなかった。

 変化があったのは予鈴が鳴る数分ほど前。琢磨から「日向ちゃん帰ってきたよ」とのメッセージが来たのである。


 教室に戻ると、日向は自席で伏せていた。祐理に声を掛けられたり、つんつんつつかれたりしているが反応が薄い。

 沙弥香も出入口そばの自席に座る。琢磨が近づいてきて、


「やっぱり見間違いでしょ」


 一言で結論付けた。


「……アタシ、疲れてるのかしら」

「体育ではっちゃけすぎたとか? 一ノ瀬ちゃんと競ってたよね」

「あれしきでバテるほどヤワい鍛え方はしてないんだけど」

「あはは、鍛え方って」


 アスリートのような物言いがおかしくて琢磨は吹き出した。


「無理はすんなよ」

「うん。ありがと」


 予鈴が鳴る。

 琢磨も席に着いた。間もなくトイレから戻ってきた誠司と雑談を始める。

 沙弥香は机に突っ伏して、思考に集中していた。


 おかしい。

 沙弥香は確かに日向が特別棟五階の男子トイレに入っていくところを見た。少し遠目ではあったものの、見間違えるはずもない。

 パルクールで鍛えているからなのか、日向はやたらと姿勢が良く、歩き方も無駄がないというか洗練されている。有り体に言えばオーラがある。同じトレーサーとして、また兄という偉大なトレーサーを見てきたからこそわかる。日向は有象無象ではない。あれは日向だった。


 おかしい。

 春高の校舎はシンプルだ。空から見るとアルファベットの『H』から、横線をやや下にずらしたような構造をしている。横線部分が渡り廊下となっており、西側の特別棟と側の一般棟を繋ぐ。どちらの棟も一階を除き、行き来できる箇所は渡り廊下と繋がるT字路しかない。階段も唯一ここに備わっている。

 そして沙弥香は渡り廊下で待ち伏せ、絶えず特別棟側を注視していた。日向が通れば目にするはずである。

 日向は通らなかった。


 そうなると残る可能性は一つしかない。


 


 日向はトレーサーだ。それも相当の実力者。

 さすがに五階から直接飛び降りることは不可能だろうが、引っかけることのできる突起や足場があれば、降りることは可能なはずだ。


 でも、何のために?

 理由がわからない。日向は席を立つ前、スマホを見ていた。急な連絡が必要だったのだろうか。だとしても、わざわざ男子トイレを経由する理由が無い。普通に校舎裏や体育館裏、あるいは目を盗んで校外に出れば済む話なのだから。


 顔を上げる。琢磨や誠司に悟られないよう自然な姿勢と角度で日向を睨んだ。

 内心は疑念以上に不満が募っていた。身体能力を隠している件といい、いまいち気に入らない。もっと堂々とすればいいのに。まるで自らを隠しているような、そんな意図さえ感じる。


 なぜ隠すの?

 何を隠しているの?

 何がしたいの?


 沙弥香が射竦いすくめるように睨んでいた時だった。

 日向が立ち上がる。よろよろとした足運びだ。祐理も心配そうな顔を浮かべているようだ。体調でも崩したのだろうか。

 教卓で資料を整理していた先生が日向に気付く。日向が小声で何かを伝えている。よく聞こえないが病欠のようだ。

 日向は自席に戻り、荷物を整理したかと思うと、とぼとぼと重たい足取りで帰っていった。


「……」


 仮病。

 沙弥香の頭に浮かんだのはその二文字だった。

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