5 放心
「コラッ! 待ちなさい!」
鉄門を強引に飛び越えた三人を係員が追う。
しかし三人――リイサ、祐理、沙弥香はいずれも男子顔負けの運動神経を持っている。その上、トレーサーだ。追いつかれる心配は無かった。
「あ、荷物置いたままだー」
駆け足で先行する祐理が呑気な口調で言う。
「大丈夫でしょ。優しいおじさん達が見てくれてるわ」
「めっさ怒ってたけどね」
「鉄門をゲートヴォルトで越えようって言い出したの、リイサさんですよね」
「あはは、ごめんごめん。後で謝ろうね」
リイサは悪気も無くはにかんだが、沙弥香は後で怒られる展開を想像してげんなりとした。
しかし、すぐにどうでもよくなり、顔がほころぶ。間もなく兄の秘密が暴かれる。
「リイサさん。お兄ちゃんはどこにいると思います?」
「んー、壁泉にいないならガーデンだと思うけど」
並んで会話する二人だが祐理と同様、息に大した乱れは見られない。
「国際庭園って広いんですよね? ――ほら、これ見てください」
ちょうど案内板を通りがかったところで沙弥香が足を止める。
リイサは平然とスルーした。祐理もリイサに続き、一人置いてけぼりとなった沙弥香は慌てて駆け出す。
横に並んだところで文句の一つでも言おうとしたが、リイサが先に口を開いた。
「急がないと終わるかもしれないからね。私の見解だけど、聞いて沙弥香ちゃん」
名前を呼ばれなかった祐理は、事情を隠していることがバレていると悟りギクリとしたが、沙弥香は気付かなかった。
「あなたのお兄さんはガーデンで何かをしている。よほど集中しなければならないような何かをね。そしてそれはおそらく勝負事で、相手は祐理ちゃんの彼氏さん」
「勝負? お兄ちゃんとアイツが? 話にならないわよ」
「本当にそう思う? 少なくとも私はそうは思わない」
「お兄ちゃんの実力はリイサさんも知ってるでしょっ!? あんなヤツが勝てるわけ、ない……と思う」
敬語も取れるほどに威勢が良かったが、最後は尻すぼみだった。
「……心当たりがあるみたいね。私は全然信じてなかったんだけど、新太さんやあなた達の反応を見てて、半信半疑になったんだよ」
「確かにアイツもそれなりに凄いみたいだけど……お兄ちゃんに敵うはずがない。お兄ちゃんは強いのよ」
「そのお兄ちゃんが何やら執心しているのが彼なんだけどね」
「うぅ、そうなんですよね……」
「とにかく私は二人が何か勝負をしている、に一票かな。それも人払いをするほどの真剣勝負をね」
リイサが一呼吸置く。
勝負の光景を想像しているのか、沙弥香も祐理も口を挟まなかった。
「邪魔しちゃ悪いのはわかるよね。二人とも、いい?」
先行したリイサが足を止めて振り返り、人差し指を唇に当てる。
「バレないようにこっそり近づいて見学すること。そして彼らの勝負が終わるまでは一言も喋らず、静かに成り行きを見守ること。守れる?」
「……ええ」
「うんっ!」
沙弥香が控えめに頷き、祐理が元気に手を上げた。じろりと二人に睨まれた祐理は苦笑しつつ「しー」と自ら口を塞ぐ。
もうガーデンが見える位置にいた。
三人はしばし休憩して息を整えた後、そろりそろりと近づいていく。
ガーデンの出入口に着いた。
正面には壁があり、ユニオンスクエアガーデンと書かれたプレートが張られている。その左右に階段が伸びており、まずはリイサが足音を立てないよう一段ずつ上がっていった。
音が耳に届く。
ベンチの上をストライドで駆けていく足音。
壁をウォールランする際の蹴り音。
高所から飛び降りたであろう着地音――
規則的な動作音だった。
さっきまで遊んでいた場所だけに、何をしているかが容易に思い浮かんだ。
後続の二人も想像を膨らませている一方、リイサは慎重に顔だけを覗かせようとしていたが、不意にその動きが止まる。
「……」
どこかリズミカルだった旋律にノイズが混ざった。
まずはピッという電子音。続いて、乱暴な足音が発生して、遠ざかっていく。まるで何かから逃げるかのように。
(……――気付かれたっ!?)
リイサは飛び出していた。
視界がベンチゾーンと、その先の砦を一部だけ捉える。人影は見当たらない。
急いで中に進み、ステージの前にまで来てみると――
隅に座っている人物が一人。新太だった。
あぐらをかいているが、首が垂れている。普段の様子が信じられないくらいに弱々しい。
「あ、アラタ、さん?」
リイサが声を掛けるが、新太はぴくりとも動かない。
それでも反応を待っていると、後方から二人分の足音が近づいてくる。「あ、いたいたお兄ちゃん」駆け足で近づいてきたのは沙弥香。その後ろ、祐理は誰かを探しているかのようにきょろきょろとしていた。
「ん、……ストップウォッチ?」
新太から少し離れたところにストップウォッチが落ちていた。
沙弥香に両肩を掴まれ、揺らされている新太から離れ、拾ってみる。
「8分5秒。……485秒か。何かのタイムアタックかな」
リイサが勝負内容を想像していると、
「放っといてくれよ!」
聞き慣れない怒号が耳を
「お、おにい、ちゃん……?」
沙弥香が涙目でおろおろしている。
新太はいつだって温厚で、余裕に満ちあふれていて、断る時もやんわりと回避する人格者のはずだが、今は怒りに満ちている。
リイサがそんな新太の表情を見たのは初めてだった。
「沙弥香。祐理ちゃんも。先にホテルに帰っててくれ。僕はもうちょっと練習する」
「れ、練習ならアタシも――」
「邪魔なんだよ! わからないのか!? 何のために人払いしたと思――ごめん。取り乱してた」
今にも泣き出しそうな妹を新太が抱きしめる。
口を開いたのは、数十秒経ってからのことだった。
「祐理ちゃん。リイサも。見苦しいところを見せてしまってすまない」
「い、いえっ!?」
まじまじと見つめていたリイサがあたふたと両手を振る。
対して祐理は押し黙っているだけだ。動揺はしていない。新太との付き合いは古そうだし、新太にあんな側面があることを知っているのかもしれない。
(アラタさんが取り乱すほどの勝負って……)
リイサが知る新太は、たとえ負けたとしてもあっさりと現実を受け止める。
落ち着いた口調で苦笑しながら喋るイメージだ。間違っても、あんなに取り乱した新太は見たことがないし、今でも同一人物だったことが信じられないくらいだ。
(どんな勝ち方をしたの? 彼はどこにいるの?)
周囲を見渡すが、対戦相手であろう日向の姿は見当たらない。
と、そこに、
「あれ。祐理と沙弥香と、リイサさん?」
当の本人――日向が登場する。
焦って来たのか、額に汗が浮いている。息も切れていた。
「なんでここに――」
「何したのよアンタッ!?」
ダッシュで迫ったのは沙弥香だ。鬼気迫る勢いである。
胸倉を掴まれた日向は、その両手首を静かに握り、強引に引き離す。沙弥香は抗ったようだが、まるで通用していなかった。
「それは俺の台詞だよ。天下のトレーサーが人払いしてまで新技の練習をしてたんだぞ。あともうちょっとのところで上手くいかなくて、かなり神経を尖らせてた。お前らの登場で完全に集中力が削がれたな」
女子三人が一斉に新太を見たが、口を開いたのは日向だった。
「すいません新太さん。俺がトイレ行ってた隙に……。誰も通さない番人役だったのに」
「……いや、いいんだ日向君。こんなことで取り乱す僕が悪い」
「新太さんは人が良すぎますよ。まだ世界で一人も成功したことのない大技なんですから、集中は大事です。周囲とか性格とかを気にする余裕なんてない」
「……ははっ」
新太は乾いた苦笑いを浮かべるだけだった。
「え、新技の練習? どういうこと?」
沙弥香が新太とリイサを交互に見た後、新太に詰め寄る。
「ごめん沙弥香。誰にもネタバレはしたくない」
「コイツにはしてんじゃん!」
新太は日向を指差す沙弥香の頭を撫でながら、
「日向君は特別なんだよ。親友のトレーサーなんだ」
「親友!? アタシを差し置いて?」
「いやいや沙弥香は妹でしょ」
「知り合いは多いけど親しい友達がいない、ぼっちのお兄ちゃんに親友? よりによってアイツ?」
「さらりとディスったよね今」
新井兄妹がそんなやりとりをする一方、祐理は日向のそばに近寄り、肘でつっつきながらジト目を向ける。
「へー、新太さんと親友だったんだねー」
「なんだその何かを疑ってるような目つきは」
「べっつにー」
事前に聞かされていたこともあって、祐理は日向がついた嘘を知っている。
本当に新技を練習していたかどうかはさておき、二人が勝負をして、新太が大敗したのは間違いない。
そこまでは問題無い。たまにあることだった。
問題は、勝負という事実を隠そうとしていること。
日向は勝敗どころか、勝負があったことすら隠そうとしている。新太はそもそも敗北を隠すようなタイプではないから、てっきり正直に話すと思っていたのに。
なら、これは日向のためなのだろう。
日向というトレーサーを。
新太を打ち負かすほどの実力があるということを、隠している。
そしてそれは日向の意思だけでなく、新太の協力によっても支えられている。
新太が自発的に行ったとは思えない。
日向が頼み込んだと考えた方が自然だった。
何のために。
なぜ? どうして、日向は隠そうとするの?
「日向の考えてることがわかんない」
日向が注目を集めることを嫌い、また有名になりたいとか一番になりたいとかいった欲求に疎いことも知っている。
一方で祐理にはずいぶんと素を見せているし、春日野街では子供達からも慕われていた。
日向はやると決めたことは徹底的にこなすタイプだ。目立ちたくないなら、徹底的に貫くはず。
今回は目立ちたくない、隠したい事情があったということ。
だとしたらそれは何?
気に食わない。
何より、自分に隠し事をしているという事実が一番気に食わなかった。
「他人の考えてることなんてわかるわけがねえよ」
「他人じゃないもんっ! 彼氏だもん」
「彼氏じゃない。ただの幼なじみだろうが」
冗談にも少しも動揺しない日向が気に入らない。
「――えいっ」
祐理は日向の背中に飛び乗った。
「……何してんだ?」
「疲れたからおんぶしてもらう」
「もう高校生だろ。自分で歩け」
「日向、汗臭い。なんか全体的に湿ってるし」
「なら降りろ」
「やだっ。日向の匂い、嫌いじゃないもん」
「この匂いフェチめ」
祐理は遠慮無しに体重を預け、豊かな胸部も押しつけつつ、すんすんと日向の首筋を嗅いでいる。
それでも至って平静な日向を見て、リイサは胸中で感心し、沙弥香は羨み、新太は「仲いいね――おっと」妹のおんぶ攻撃を回避した。
「お兄ちゃん、アタシも疲れてるのよ?」
「練習会程度で疲弊するようなヤワな子に育てた覚えはありません」
「そうじゃないのよお兄ちゃん。アタシはね、ただお兄ちゃんに甘えたいだけなのよ」
「開き直ってもダメだよ沙弥香」
「うう……」
そんな仲睦まじい光景に、間もなく係員が割り込むことになる。
女子三人は叱られることを覚悟したが、新太が取り成したため一言
五人はガーデンを出て、岐路に向かう。
時刻は午後六時にも満たず、空はまだ明るい。一方で街から距離的に離れているため、夜道のような静けさがある。前を歩く兄妹と幼なじみの会話が妙に響いている。
その背中を、特に日向を眺めながら、リイサは思案していた。
(新技の練習なんかじゃない)
リイサは日向を信じていなかった。
決定打は祐理の台詞だ。
――日向、汗臭い。なんか全体的に湿ってるし。
それは直前まで新太と勝負をしていたからではないか。
リイサが二人を覗こうと接近した時、電子音の後、逃げるような足音が聞こえていたが、勝負をしていたとすると筋が通る。
新太と日向は真剣勝負をしていた。
内容はタイムアタックで、交互にタイムを測定する形式。
自分達が到着した時は、ちょうど日向のターンで、かつ測定を終える直前だった。
ピッと鳴った電子音はストップウォッチを止めた音。
そしてその後の足音は、目撃されるのを防ぐための逃走――
「……」
リイサは思わず足を止めていた。
ストップウォッチは8分を刻んでいた。瞬発的なパルクールにおける8分というのは、非常に過酷な持久戦だ。
にもかかわらず、戻ってきた日向は大して疲弊しているようには見えなかった。
息は切れていたが、すぐに持ち直していた。
「――リイサさん?」
祐理と目が合った。
「ごめんごめん、ちょっと考え事してた」
小走りで駆け寄り、祐理を背負っている日向の横に並ぶ。
その後は祐理と雑談しながら歩き、最寄りの地下鉄駅で解散した。
遠ざかる背中を見ながら、
「渡会日向――何者なんだろ」
日向への疑問と好奇が大きくなっていくのを自覚するリイサだった。
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