4 真剣勝負 後編

「いやぁ、満足満足」


 新太は上裸でステージの隅に腰を下ろし、汗を拭っていた。

 憎らしいほどに幸せそうな笑顔が浮かんでいる。


「どこがちょうどいい塩梅なんですか。新太さん結局全部ドロップしてたじゃないですか」

「普通なら連続で五回もしないけどね。さっきは怖いほどに調子が良かった。ゾーンって知ってる?」

「ゾーンという言葉は知りませんが、要は超集中状態ですよね。体験します」


 ゾーンは撮り師としての日向が持つ武器の一つであり、本来なら誰かに喋ることなどありえない。しかし日向はあっさりとカミングアウトした。


「ははは、さすが日向君。アマチュアでくすぶってるのが本当にもったいない」


 普段の新太なら嫉妬の一つでも湧き出るところだが、今は気分がいい。幸か不幸か、深く捉えずにスルーできていた。


「上機嫌ですね新太さん」

「まあね。さっきのは僕の人生至上一番集中できた時だった。楽しくて気持ちよかったよ。日向君には感謝しないとね。ありがとう」


 あぐらをかき、両の拳を地面に下ろした新太が頭を下げる。

 それを日向は無表情で見下ろし、やがて頭を上げた新太と目が合った。


 日向はにやりと口角をつり上げてみせた。


「お礼を言うのは俺の方ですよ。久々にスリルを味わえそうです」

「……スリル?」


 その問いには答えず、


「あと十秒でスタートします。九、八、七――」


 カウントを口ずさみながら、その場で足踏みをする日向。

 新太はストップウォッチを構えた。


「六、五」


 日向のカウントが途絶える。

 その横顔は砦を見据えていた。


「……まさか、もう入ったのか?」


 元々マイペースで緊張とは無縁の日向だが、いつもにも増してリラックスしている。

 いや、急激にリラックスし始めた。


 あまりの変わり身の早さに、新太は生唾を飲み込む。ゾーンの余韻も吹き飛んでいた。


 間もなく日向が走り出した。


 ベンチをストライドで飛び越えて砦に突っ込み、二段続きの壁の、一枚目をウォールラン。続く二枚目はジャンプからのクライムアップ。

 地味なのに正確で、安定していて、何より滑らかだった。クライムの動作が入っているにもかかわらず継ぎ目がない。人間の限界や物理法則を無視したアニメキャラの動きを彷彿とさせた。


(これだ。これが日向君の真髄――)


 並のトレーサーには『まあ上手じゃないの。地味だけど』程度にしか見えないが、新太は違う。


 高みにいるからこそわかる、有象無象との些細な差。

 その蓄積によって表現されている圧倒的な完成度は、他の追随を許さない。


 いつでも、どこでも、誰が何をしていようとも。

 彼は変わらず同じ動きを繰り出すだろう。

 機械のように。コンピューターのように。

 猿も木から落ちるというが、日向が落ちる光景はまるで想像が付かない。


 凄い。

 堅い。

 強い。


 富も。友も。名声さえも。全てが霞む。


(僕もそういうのが欲しかった)


 新太が日向を羨むのは一度や二度ではなかったが、今日はいつもにも増して、気持ちがたかぶっていた。

 深呼吸をして、落ち着かせる。


(……とはいえ瞬発力は僕に分がある)


 ゾーンにも入ったのだ。間もなく勝利の二文字がもたらされるだろう。

 日向は訳あり施設育ちだが、せっかくの機会である。勝者と敗者を理由に、日向のルーツを訊いてみよう。

 新太がそう思った時だった。


 日向が展望台から飛び出した。


 B地点であるレールの上に飛び乗ったのではない。

 ダッシュの勢いを落とさないままレールの手前で踏み切り、跳び箱を越えるようにレールを飛び越えたのである。


「も、モンキーギャップッ!?」


 モンキーヴォルトというヴォルト飛び越え技がある。


 これは障害物に両手を付き、抱え込んだ両足をその間に通して飛び越えるという動作で、跳び箱でいう『抱え込み跳び』のような飛び方だ。スピードと勢いを殺さないヴォルトとして知られ、他の動きに繋げることも少なくない。


 活用例として、障害物を飛び越えつつ、離れた足場に正確に着地する『モンプレ』こと『モンキープレシジョン』、そして特に障害物と足場間の距離や高さが露骨に離れている場合に、確実に届かせるための『モンキーギャップ』がある。


 モンキーギャップは、優れたトレーサーにもなると素人の立ち幅跳びよりも遠くに跳び、また身長以上の落差でも正確に着地できるが、当然ながらこなすのは難しい。

 身体能力フィジカルも、技術も、安定性も、全てが求められる。

 パルクールの神様として知られる創始者でさえも、この技に失敗したことがあるくらいだ。新太クラスのベテランしか知らない頃の話だが、神様の失敗動画はパルクール界隈に激震を走らせた。


「そんな動きをこのタイミングで!?」


 モンキーギャップは離れた足場に届かせるための技であって、展望台のような高所から飛び降りるためのものではない。

 むしろ、ただでさえビル三階分の位置エネルギーがあるのに、全力疾走にも等しい前方向の感性――運動エネルギーも加えてしまうなど危険にも程がある。

 有り体に言っても自殺行為だ。


 しかし、誰よりも安定したパフォーマンスを持つ日向がそんな無謀を犯すとは思えなかった。

 実際、無謀ではなかったのだろう。レールを飛び出した日向のフォームは相変わらず、惚れ惚れするほどに美しかった。


 凶悪なエネルギーが日向に襲いかかる。

 新太でさえも容易には捌けない衝撃なのは間違いなかったが、「……は?」新太は自分を疑った。


 まず目を疑った。

 受け身のためPKロールをする転がるのはわかる。

 しかし着地先は段差だった。ベンチ群に着地するわけにはいかないため、その隅に着地するしかないのだが、地形はステージから砦に向けて微妙な傾斜があり、それが階段という形で吸収されている。

 PKロールは水平な地面に対して行うものだ。まして今は三メートル、いや四メートルは軽く飛ぶほどに前方の勢いが付いている。地面が水平でなければ、新太でさえも負傷するレベルだ。


 そこに着地音という名の追撃が走り――続いて耳を疑った。

 けたたましい着地音がまるで生じない。

 音だけを聞いたなら、あんなドロップをしたとは思えないだろう。

 それほどに小さく、綺麗な音だった。


 PKロールで吸収し終えた日向が勢いを利用して起き上がり、走り出す。

 着地点で言えば、垂直に落下した新太よりも明らかにステージ寄りだ。数字にして五メートル以上。歩幅にして数歩以上。

 しかし落下時間には大差が無い。どころか新太がいったんレール上に飛び乗ってから飛び降りたのに対し、日向はレールを飛び越える両足を触れさせていた。


(触れてなかったから無効だったのにな)


 そんな他人の失敗を祈る気持ちが湧いて出たが、そうでないことは観測者である新太自身が一番わかっている。

 確かに触れた。

 モンキーギャップの勢いを殺さないまま、勢いが殺されないように両足を触れるなど、器用を通り越して曲芸の域だったが、確かに新太は自分の目で確認していた。


 キュッ、と地面をこする音。

 それで新太は我に返る。

 日向がステージに両足を接地させ、すぐに折り返したのだと把握する。


「タイムはっ!?」


 数字を見た途端、新太の手から力が抜けた。


 ストップウォッチが地面に落ちる。


「じゅ、19秒……」


 身体が震える。

 腰が抜ける。


 どかっと不器用に尻餅をついた。


 新太はストップウォッチを拾いに行く気力すら起きず、ただただ放心したようにディスプレイを見つめていた。

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