6 ルーツ

 午後八時半。とあるホテル一階の喫茶店。

 出入口から死角となる奥のテーブル席にて、日向と新太が向かい合っていた。


 テーブルにはコーヒーカップが一つ。

 新太が一口すすり、カップを手に持ったまま、


「よくわからないな。PKロール転がり受身ランディング四点着地も本質的には大差ない。ただ筋肉で衝撃を受け止めるだけだよね?」

「その通りですけど、受け止め方がだいぶ違いますね」


 二人は真剣勝負の感想戦振り返りを行っていた。部屋やロビーを使わなかったのは、沙弥香や祐理に邪魔されると考えてのことだ。


「勝負の時、新太さんは展望台から真下にドロップ飛び降りしてランディングしましたよね。ランディングは両足両手だけに頼った着地です。それには健全な関節と、関節や内臓を痛めないように調整する技術と、何より衝撃に耐えうる体幹と四肢が必要ですけど、俺には最後の四肢がありません。もし俺が真似をしたら、四肢で吸収しきれず関節にダメージが入っていたでしょうね」

「日向君なら耐えられると思うけどなぁ」

「1、2回なら耐えられますが、22回は普通に無理です」

「そう? 日向君、かなり体幹が強いし、身体のコントロールも繊細だから、やってみたら普通にできると思うよ」


 ビル三階分の高さ展望台からのランディングは非常に高難度であり、安定してこなせるのは国内でも数えるほどしかいないだろう。

 しかし新太は日向もその中に入れると本心から思っていた。


「いや、できないですね。身体能力フィジカルが微妙に足りない」


 日向は即行で否定する。


「ゲームのパラメーターじゃないんだから。やってみないとわからないもんだよ」

「新太さんはそうかもしれないですけど、俺は違いますね。やらなくてもわかります」


 カップを置こうとした新太の手がぴたりと止まる。

 日向を睨むが、日向に気圧された様子はない。絶対の自信を感じられるオーラだ。逆に自分が気圧されそうだった。


 カップを静かに置き、両手をテーブルに乗せてから続ける。


「……話を戻そうか。とにかく日向君はランディングができなかった。でもそこを越えないと僕の記録には勝てない。だからPKロールを選んだんだよね」

「はい」

「それで日向君はモンキーギャップで展望台から飛び出した。言い換えるなら、走り幅跳びのように飛び出したとも言える。位置エネルギーはもちろん、前方向の勢いも付いちゃうよね。ランディングよりも着地が難しくなるのは明らかだ」

「まあそうですね」


 淡々と答えながら日向が

 新太も気付いていたが、日向はさっきから空気椅子をしている。注視してみても気付けないほどに綺麗な座り方であるが、その分、消耗も激しいはずで、汗が出るのも頷ける。


 ちなみに新太に同じ真似ができるかというと、できない。

 常識で考えれば重力に負けるし、抗えるほどの筋力が人間に備わっているとも思えない。人間という生物の構造的限界とさえ言えるのかもしれなかった。

 にもかかわらず、日向は平然とこなしている。


 何をどうすればそんな力が手に入るのか。


 新太は前々からそのルーツを知りたかった。勝負には負けたが、こうして半ば強引に日向を連れ出していた。


「でも日向君は平然とこなした。22回とも全部。あの高さからのランディングは極めて瞬発的だ。そんなにこなせるはずがない。ゾーンに入ってた僕だって終盤はバテてたからね」

「瞬発的、という認識が違いますね。俺のPKロールはどちらかといえば持久的ですよ」


 日向は「ふぅ」と背もたれにもたれてから続ける。


「PKロールは前方向の勢いを殺す受身、というのが一般的な認識だと思うんですけど、俺はちょっと違います。ランディングが両足両手と四点で着地するのに対し、PKロールは全身という多数の点や面で着地するもの――つまりPKロールはランディングの一種、いや上位互換なんですよ」

「転がれない着地先では使えないという意味で上位互換と呼ぶには大げさすぎると思うけど、なるほどね。理屈はわかった。そんなカラクリだったとはね」

「さすが新太さん、理解が早い」

「日本一を舐めないでよ」

「俺に負けましたけどね」

「過去の話だ。大事なのはこれからどう成長していくかだよ」


 新太は落ち着いた様子で話す。もう取り乱すことはない。

 数時間前に大敗してから、新太は既に吹っ切れていた。


 新太はトレーサーとして富も、人脈も、名声も欲しいままにしているが、決して才能に優れているわけではない。

 一つ挙げるとすれば、立ち直りの早さ――それが新太の武器だった。

 日向という化け物について精神的に払拭できた新太は、更なる高みに進むことだろう。


「僕のことはいい。今は日向君のことが知りたいんだよね」


 そんな新太の内心は、日向に対する好奇心だけだった。


「日向君の理屈はわかったけど、あくまで理屈でしかない。そんな神業みたいなことを易々とできるとは思えないんだけど、日向君はやってみせた。普段どんな練習をしてんの?」

「大したことはしてませんよ。最初は地面で転がって練習して、フォームが固まってきたら少しずつ高さと勢いを上げていって、少しずつ微調整しながらさらに上げていって……という具合でステップアップしているだけです」

「それが難しいって話だよ。PKロールをランディングとして使う? 気が遠くなりそうだ」


 普通のランディングであれば地面と接地させるのは両足と両手だけだが、それでもどの部分を、どのタイミングで、どの順番でどれだけ接地させるのかを考え、調整し、最適化しなくてはならない。


 もっとも飛び降りる高さが低いうちは多少いいかげんでも無傷で済むが、これが身長分、身長の倍、三倍となってくるとそうもいかなくなってくる。

 実際、その点に気付かずにドロップを多用するトレーサーが膝などを壊し、引退せざるを得なくなるケースが過去に多発している。

 パルクール界隈では初心者に対し「高所からの飛び降りはするな」「パルクールは高さではない」「高さを求める奴はトレーサーじゃなくてただのクレイジーだ」といった注意や思想の推奨を行うが、それはドロップ――もっというとランディングの難しさを考慮してのことだったりする。


 両足両手のたった四点ですら、それほどに難しい。


 日向はそれを全身にまで拡張し、多数存在する点や面の全てを活用する、と言っているのだ。


「人間が自身を着地させるのに適した部位は手足しかない。確かにPKロールでは転がって腕や胴体にも衝撃を流すけど、それはあくまで前方向に残った慣性を殺すためだ。垂直方向のパワーを四肢で吸収することに変わりはない」

「それが固定観念じゃないですか。人間の身体って、他の動物や虫と比べると死にたくなるくらい弱いですけど、それらを補える程の優れた頭脳があります。練習を重ねれば、この部位にはこれだけ分散できる、というのが何となくわかってくるんですよ」

「だからそれが理屈なんだよ。全身に分散する? 習得するのにどれだけかかることやら。僕でも何年かかるか想像がつかない。――君はいつからパルクールを始めてる?」

「新太さんに教えてもらった時からです」

「……ああ」


 新太は高校生の時、経験の幅を広げるためにパルクール講師の仕事に手を出した。

 その対象が村上学校――日向や祐理の過ごす児童養護施設だったのだ。


「当時は小学生だったな。すると十年も行ってないか」

「パルクールそうですね」

「パルクールは? それ以前にも何かしていたとか?」

「していたというか、遊んでました」


 新太はふと思い出す。



 ――パルクールって要するに自分を律するための方法論や哲学の一種でしょ?


 ――厄介なのが一人いてね。彼にだけはぜひとも叩き込んでほしい。


 ――物心つく前からあちこち動き回り飛び回るような子でね。あんな両親から生まれたことが信じられない。いや、あんな両親だからこそか。



 村上学校で講師を務める初日に、施設長から話されたことだ。

 施設長は当時小学生だった日向を心配し、特別視し、どこか警戒している節さえあった。

 そんな大げさなと新太は思ったものだが、本人を目の当たりにして即行で考えを改めた。


「パルクールみたいに自分の身体一つであちこち動くのが好きだったんです。いつからだったのかは覚えてないですけど、少なくとも小学生になる前には既に楽しんでましたね」

「それは一人で?」

「ですね。強いて言えば祐理がよくひっついてきたくらいです……あれ、でも祐理っていつからいたっけ。施設に入ってからだよなぁ。施設入ったのいつだっけ……すいません、その辺よく覚えてないです」


(年季が入ってるな……)


 それが新太の率直な感想だった。


 新太がパルクールを始めたのは十年以上前、小学生の時で、それまではクラスで一、二位を争う運動神経という程度の能力だった。

 しかし施設で出会った日向は、当時の自分よりも明らかに優れていた。

 純粋な身体能力ではない。身体の使い方や地形空間の読み方が上手いというか、やけに実践的なスペックを持っていて、たとえばかけっこや力比べは平凡だが、鬼ごっこでは誰も敵わないといった様子だった。


 日向の根源を知りたい。

 それは幼少期にあると考えられる。


 しかし日向は孤児で、本人も覚えていないという。


「……」


 新太はコーヒーを飲み干し、腹をくくった。


「なあ日向君。君は普段、トレーサーとしてどんな過ごし方をしているんだ?」


 首を傾げる日向に対し、新太は自らの生活スタイルを語ってみせる。

 それは一流に恥じないストイックかつ洗練されたもので、日向は聞きながら何回も感心した。また新太の人生観も差し込まれ、基本的に人に興味のない日向でさえも引き込まれるものがあった。


 続いて日向が語り始める。

 さすがに盗撮など悪事については隠したが、自分が何を思い、どう過ごしてきたかを率直に語った。


 二人とも自覚は無かったが、優に三十分が過ぎていた。


「――要するに俺は生きるか死ぬかの世界で動き続けてました。それが一番楽しいから。集中できて、没頭できて、くだらない雑念の一切から解放されるんです。依存症みたいにのめりこんでましたね。でも人間の身体も精神も有限だ。そこで俺は自らを鍛え、観察し、考え続けて、出来るだけ満喫し続けられるように自分をカスタマイズしてきました」

「なるほどね」


 新太は腕を組み、しきりに頷く。


「日向君にとってパルクールはエクストリームスポーツなのかもしれないね」

「そんなものと一緒にされるのはしゃくですね」

「……ああ、そういうこと。エクストリームスポーツは刹那的刺激を求めるけど、日向君はそれを求めいるんだよね。でも、そんなことしたら普通は身も心もたないし、保ったとしても、一度しくじっただけで最悪死んでしまうから長生きできない。だから日向君はそうならないように――味わい続けるための力を追い求め、手に入れてきた、と」

「ですね。わかりやすくまとめていただき、ありがとうございます」

「いやいや、興味深い話を聞けたよ。こちらこそ感謝している」


 お互いに頭を下げるというシュールな光景が繰り広げられた。


 それから会話が途絶えると、お互い身じろぎ一つせず物思いに耽った。

 新太は参考にできそうなヒントが無いかを改めて振り返り。

 日向は再認識した自らの根源的欲求を意識した上で、今後の人生について思いを馳せていた。


 二人が会計を済ませたのは午後十時前――閉店の直前だった。


 部屋に戻ると、不機嫌オーラ全開の沙弥香と退屈そうな祐理に出迎えられたが、二人ともすっかり満足していたため、いいかげんに誤魔化した。

 顔を見合わせ、子供のように笑う二人を見て、妹と幼なじみはいたく嫉妬した。

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