8 目撃者
スポーツテストを受けに来ていた春高生は日向だけではない。
「
兄の大会を観戦するために休んだ沙弥香もその一人だった。
普段は派手でおしゃれな沙弥香だが、今の服装はラフである。長い髪も束ね、メイクもしていない。去年校内二位だった雪辱を晴らそうと、その目は闘争心に満ちあふれている。
ロビーを抜け、グラウンドのように広い中庭の端を通行する。複数箇所で50メートル走、ハンドボール投げ、シャトルランといった種目が計測されていた。
沙弥香は立ち止まり、お兄ちゃんだったらどんな記録が出るのかな、と愛する兄のことを想う。
午後からはデートする予定だ。本当はこのスポーツテストにも同伴させたかったが、兄がいると集中できないし、そもそもスポーツテストに勤しむというはしたない姿を見せたくはなかった。
「新井さん?」
「あ、はい! ごめんなさいっ!」
案内スタッフに声を掛けられ、慌てて後を追う。
しかし別館に入ろうとしたところでスタッフが足を止め、グラウンド側を向いた。
つられて沙弥香も見る。
「……シャトルランですか?」
「はい。249の限界を突破した方がいらっしゃるようです」
「249?」
「シャトルランで流すBGMですが、少しずつテンポが速くなっていくのはご存じですよね?」
沙弥香は頷いた。
去年のスポーツテストでは琢磨と誠司の二人がしぶとく残っていたはずだ。聞いているだけでも疲れそうなほど速いテンポだったのを覚えている。
「テンポのスピードアップは249回が上限です。以降は速くなることはありません」
沙弥香の記憶では二人とも249回はおろか200回にも届いてなかったはずだ。
そもそも手元の説明用紙によると、男子のA判定は125回。上限の半分であった。
「世の中凄い人がいるんですね」
「ですよね。私も久しぶりに見ました。――ずいぶんとお若い方のようですね」
その人物がどんな容姿をしているか沙弥香は知りたくなり、目を凝らした。
位置的に横から見る角度になっており横顔しか見えないが、白線から反転する時にちょうどこちらを向いたため、はっきりと見えた。
「え、アイツって――」
――去年も同じクラスだったんだよ。なー、日向ちゃん。
去年は琢磨と同じクラスだったらしい男子で。
今年から沙弥香と同じクラスになったが、根暗で寡黙でクラスの隅っこにいるような奴で。
――それよそれ! どうしてそこで黙るのよ? 言いたいことがあるなら言ってみなさいよ!
先日も委員会を決める際に、ついイライラしてキツイことを言ってしまった相手。
「お知り合いですか?」
(あれが渡会日向? 何かの見間違いよ)
沙弥香は目をゴシゴシとこすってから改めて凝視する。
残酷なテンポをものともせず軽やかに走っている。その動きは春高随一の運動能力を持つ琢磨や誠司を超越していた。
無駄が省かれ、効率が突き詰められ、正確性と安定性も感じさせるような、そんな卓越。
(お兄ちゃんみたい)
一方で、その横顔や折り返し時に覗く顔面はどう見ても渡会日向であり、沙弥香のイメージする日向ではどう考えてもあのような動きを繰り出せるはずがなく、強い違和感を覚えずにはいられなかった。
「……クラスメイトです」
「何かの選手だったりしますか?」
「ただの地味で根暗な帰宅部だったはずよね……」
「……」
「どういうこと? あれが本当にアイツなの? あの渡会日向なのっ!?」
「あ、新井さん……?」
「アタシはアイツに
心配そうに覗き込むスタッフと目が合う。気まずさが一挙に押し寄せてきた。
「……えっと、ごめんなさい」
「うふふ、お兄さん想いなんですね」
しっかり聞かれていたとわかり、沙弥香は両手で顔を覆う。
しばし羞恥に堪えていたが、平常心はすぐに戻ってきた。
(何かの間違いに違いない)
しかし現実を受け入れられないでいる。
この世で最も尊敬し敬愛している兄と、何とも思っていない有象無象のクラスメイト。にもかかわらず、一瞬でも兄のようだと思ってしまった。ただの男子に浸食された――
自分勝手な被害妄想であることは自覚していたが、沙弥香は心底気に食わなかった。
今すぐにでも近づいて確かめようとしたが、
「新井さん。会場に向かいますよ」
「あっ、はい!」
反射的に返事をしてしまい、機会を逃した。
◆ ◆ ◆
スポーツテストを終えた日向は応接室にて橋本と向かい合っていた。
「オールAを取りました。取り計らっていただけますね」
「約束してしまったものは仕方ない。今回だけにしてくれよ」
日向が提示したお願い事は二つあった。
一つ、結果の配布を学校側に任せないこと。
一つ、自分の事を無闇に広めないこと。
どちらも注目を避けるための対処だったが、個人的な事情でしかなく、運営としては易々を引き受けるわけにはいかない。
しかし橋本にとって日向は
条件は易々とクリアされた。
まだ集計はしてないが、校内の総合順位も一位だろう。どころか一部種目では全国でもトップクラス、いやひょっとすると首位の可能性さえあった。
少なくとも橋本は日向ほどのポテンシャルを持つ高校生を他に見たことがない。
「それで結果用紙はどちらに?」
日向は当日に結果を受け取るものと想定していたが、橋本の手元にはそれらしいものは見当たらなかった。
「悪いが今すぐは渡せない。まだテストを受けてない生徒もいてね。全員揃ってから集計したいんだよ」
「約束が違います」
日向に睨まれ、橋本は内心たじろいだ。
おとなしそうな人相をしているが、規格外の結果を見せられたばかりだからか、妙な迫力がある。
「あー、言い方が悪かったね。日向君は来週月曜日に学校で結果が配布されるという状況がイヤなんだろう?」
「……ええ」
「結果は学校には渡さず、日向君の自宅に郵送する――それでいいかな?」
「構いませんが、今日渡してもらうのも可能なんですよね?」
郵送だと祐理に見られる恐れがあった。
もっとも、祐理は既に日向の身体能力を知っているため、見られてもどうということはないのだが、これは訓練でもある。
日向は撮り師として隠密に盗撮活動に勤しんでいる。隠す、誤魔化すといった行動はどうしても切り離せないが、これらの要領は筋トレとは違い、手軽に鍛えられるものではない。
だから練習機会を自らつくり、実践することでしか鍛えられない。
日向は今回の結果を祐理含め、誰にも漏らさないというルールを課していた。
「可能だけど、できれば全員揃ってから集計したいんだ」
「なぜです?」
「より正確な結果が知りたいからだよ。特に偏差値ね」
このスポーツテストは校内順位だけでなく偏差値も集計する。格付け機能が豊富ということで特にスポーツ名門校からの評判が良い。
「俺の、ですか?」
「そのとおりだ。上体起こしとシャトルランは80を超えると思うよ。どんな最高値が出るのか見てみたくなってね」
ちなみに日向の記録は上体起こしが55回、シャトルランが333回だ。
「職権乱用じゃないですか」
「アッハッハ、まあね」
悪びれもなく橋本が笑う。日向としても責めたつもりはなく、二人の親密さがうかがえた。
「ちなみに、学校側に俺の結果を渡さないことで、たとえば教員達が『校内一位の正体』が俺だと推測する――なんて事態にはなりませんよね?」
「結果は
「……ああ、そうでしたね」
日向は、というより春高生は去年も同じスポーツテストを受けている。
結果は封筒という形で渡された。やけに豪勢だと思ったのを日向はうっすらと思い出した。
「つまり結果配布時に俺の分だけ封筒が無い件については、『
日向はぶつぶつと呟きながら、もう一つ、確認しそびれていた事項を口にする。
「それともう一つのお願いですけど、ここのスタッフ達が俺の事を話題にして広めたりするリスクも、無いと考えていいですよね?」
「全く無い、とは残念ながら言い切れないけどね」
スポーツテストの結果は厳しく管理されており、他のスタッフはもちろんのこと、計測に携わった橋本でさえ――計測直後と集計直後を除き――日向の結果を閲覧することができない。
しかし今日の計測風景は複数人のスタッフに目撃されており、日向の場合は特に上体起こしやシャトルランで目立ってしまっている。スタッフ全員の雑談を完全に封じるのは厳しい。
橋本はそんな事情や見解を話した。
日向はしばらく思索に耽っていたが、スタッフの目撃についてはどうしようもない。むしろ、今日体験した程度の注目がどれほどの影響を及ぼすのか観測できるという意味で、あえて放置するのもアリと考えた。
最終的に特に問題は無いとの結論を下す。
実は既に沙弥香に見られているのだが、クラスメイトに目撃されるという可能性は考えもしなかった。
用は済んだとばかりに立ち上がる。
「それじゃ俺はこれで。今日は便宜を図っていただいて助かりました」
「いいんだよ。烈さんからも言われてるからね。もっと頼ってくれたっていい!」
橋本がどんと胸を叩く。見た目も音も分厚い胸板だ。
「パルクールの方も頑張れよ」
「はい」
「いや日向君の能力なら心配は要らないかな? むしろその目立つことを嫌う性分を何とかする方が先決かもしれないね。プロは見せてナンボ、魅せてナンボなんでしょ?」
「そうですね、ははは……」
プロを目指しているのは嘘で、本当は盗撮で稼いでいる、などとは口が裂けても言えない。
日向は苦笑を返してから応接室を出た。
◆ ◆ ◆
日向が帰った頃、沙弥香はスポーツテストの真っ最中だった。
偉大な兄と同じ血を持つ妹として、今年こそは一位を取ると闘志に燃え、真面目にトレーニングに励んできた。
プロトレーサーでもある兄、新太に小さい頃からつきまとっていたこともあり、元々身体能力は申し分ない。トレーニングに対する理解と耐性もある。
そんな沙弥香のやる気は、運動部顔負けのハードなメニューを重ねるという形で昇華されてきた。
各種目をてきぱきとこなし、去年の二位が嘘だったかのように圧倒的一位を勝ち取った。
「オールA。校内順位もオール三位以内――素晴らしい結果です」
「ありがとうございます」
「お兄ちゃんに褒めてもらえるかな?」
「はいっ! ――もうっ、やめてください」
スタッフとも打ち解けて楽しく計測でき、結果も文句無しの上出来。
兄の新太に伝えるのが待ち遠しい。午後からは新太とのデートもあるし、思わず顔が緩んでしまう。
そんな沙弥香だったが、付いて離れない疑念を払拭できないでいた。
帰り道、電車に揺られながら思い出す。
――300回は超えてたぞ。あんな怪物、初めて見たわ。
――世界記録が確か370回くらいだよな。サッカーの長戸選手だっけ。
――長戸と言えば村伏レベルの
――結果見てみたいよなー。無理だけど。
スタッフ達が交わしていた会話であり、その対象は日向のシャトルランだ。
沙弥香は回数を数えていたわけではないし、少し見物した程度だが、それでもあの動きは異常だった。プロの
(もしかして有名なトレーサーだったりするのかも)
最寄り駅に着くまでスマホで調べてみたものの、日向らしき人物にヒットすることはなかった。
電車が到着し、ドアが開く。
スマホをしまってホームに降りた。
(お兄ちゃんに訊いてみようかな)
直後、沙弥香は首を横に振る。
せっかくの楽しいデートなのだ。ただでさえパルクールバカの兄に、わざわざパルクールの話題を与えるなど愚策もいいところである。
改札を目指しながら再びスマホを取り出し、通話ボタンを押す。
「あっ、お兄ちゃん? もうすぐ家に着くから」
新太の声を聞くだけで心が踊る。
日向のことなどすぐにどうでもよくなった。
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