7 ぞろ目

 土曜日。日向は朝一でスポーツジムに訪れていた。

 受け損ねたスポーツテストを受けるためだ。

 日向としてはサボっても良かったのだが、自分の身体能力を定量的に測れる機会はそうはない。ましてこのスポーツテストは専門のスタッフと高価な計測器を用いた、高級なものである。


春日野かすがの高校の者です。スポーツテストを受けに来ました」

「生徒手帳を見せていただけますか」


 受付に提示する。


「渡会日向様ですね。こちらへどうぞ」


 リッチなホテルのように広いロビーを抜けて外に出る。案内板には中庭と書いてあるが、グラウンドと呼んでも違和感のない広さだ。

 そこも素通りして別館に入り、一つの小教室に案内されて、ようやく説明が始まった。


 計測種目は屋外では50メートル走、ハンドボール投げ、シャトルランの三種目。屋内では握力、長座体前屈、上体起こし、反復横跳びの四種目。計七種目だ。

 スムーズにこなせば三十分もかからず終わるらしい。


「――以上となります。何かご質問はございますか」

「二つあります」


 日向は挙手してみせた。


「どうぞ」


 手を下ろし、身を乗り出して問う。


「一つ目ですが、結果を今日帰る前にもらうことはできますか?」

「できません。結果は学校側に渡すことになっています。生徒に配布されるのは来週月曜日です」

「……橋本さんを呼んでいただけませんか」

「橋本、ですか」


 日向はチーフのポジションにいるスタッフの名前を挙げた。


「日向が呼んでいると言えば来てくれます。お願いします」

「……わかりました。少々お待ちください」


 しばらく待っていると、案内スタッフが橋本を引き連れて戻ってきた。


「日向君じゃないか。元気がやっているかいアッハッハ」

「橋本さんも元気そうで」


 陽気で人当たりの良さそうな表情と声音。そしてタンクトップから惜しげもなく晒される肉体美が眩しい。このジムのチーフスタッフを務める橋本元気はしもとげんき

 実は日向と同じく児童養護施設『村上学校』の出身であり、パルクールのプロを目指す日向のためにと施設長が紹介してくれて知り合った、という経緯がある。


「それで、わざわざ呼び出してどうしたんだい?」


 日向は改めて質問をぶつけた。


「――それは可能だけど、正直言うと面倒くさいんだよアッハッハ。理由を教えてもらえるかな?」

「目立つからです。俺は学校では誰にも知らせてないんですよ。練習に集中するために、対人関係すらつくらないようにしてるんです。もしスポーツテストの結果配布時に、うっかり誰かに見られでもしたら、俺はあっという間にヒーローになってしまう」

「アッハッハ、大した自信だねぇ」


 バンバンと橋本が日向の肩を叩く。

 完全に蚊帳の外となっている案内スタッフも胡散臭そうな目を日向に向けていた。


「ついで二つ目の質問も言っておきますが、俺が出した結果は誰にも漏れない、噂とかされて安易に広められないと考えていいんですよね?」

「そうだね。少なくとも我々スタッフが広めるような真似はしない」

「了解しました。一つ目の質問についてはいかがですか」

「そうだなあ――わかった、こうしよう」


 橋本が人差し指を立てる。


「全種目でA判定を取るか、一つ以上の種目で校内順位一位を取る。そうしたら日向君の要求を呑もう」

「構いません」

「おっ、自信アリアリだね。結果が楽しみだ。じゃあ人を待たせてるからもう行くよ。――櫻井さくらいさん、よろしく頼むね」


 案内スタッフの櫻井が応える前に、橋本は駆け足で立ち去った。


「それでは十分後に計測を始めます。あちらの更衣室で着替え、お手洗いも済ませてからここに集まってください」


 懸念を取り除いた日向の表情は晴れやかだった。






 広々としたトレーニングルームの一画にて、日向は屋内種目を淡々とこなしていた。

 ここまで握力、長座体前屈、反復横跳びの三種目を既に終えている。


 担当スタッフの櫻井が記録表に目を落とす。

 握力は66kg。A判定下限は56kgだから文句無しのA判定だ。

 長座体前屈は66cm。下限は64cmだからこれもA判定。

 反復横跳びは66回。下限は63回。やはりA。


 A判定はさして珍しくはないが、その狙ったかのような測定値が目につく。


(もしかして遊んでいるの?)


 日向に目を向ける。

 半袖から覗く前腕は決して太くはないが、筋肉の付き方が素人ではない。しかしスポーツ選手や筋トレマニアのそれでもない。よほどマイナーなスポーツか、あるいは武術系だろうか。

 そんなことを考えていると、日向と目が合った。


「次は上体起こしですよね」

「はい。いかがなさいましたか?」

「橋本さんを呼んでいただけますか」

「……なぜです?」


 その声に少しだけ苛立ちが混ざる。

 日向の計測は全て櫻井が担当することになっている。通常、スポーツテストの計測は複数のスタッフが分担して行うものだが、櫻井は全種目の計測を行える数少ないスタッフだ。

 先ほどの質問でも蚊帳の外にされ、今もこうして仕事を侮辱されるような真似をされていては黙っていられなかった。


「あなたではたぶん支えられない」


 上体起こしを行う時は、被計測者が動かないよう両脚を固定する必要がある。

 櫻井では固定しきれない、固定できるほどの力があるようには見えない――そう日向は言っているのだ。


「支えられますよ。計測の要領は把握しています。私なら100kgの男性でも支えられます」


 経験豊富な櫻井には自信があった。プロのスポーツ選手だって問題無く支えてきた。

 力士や一部の巨漢選手でもない限り支えられないはずがなかった。


「俺は集中して測定に望みます。もしあなたが俺を支えきれなくてやり直しになってしまったら俺のベストコンディションが水の泡です。人間の集中力は貴重なんですよ」

「ですから問題無く支えられると申しています」

「俺にはそうは見えません」


 感情はしばしば理屈を超える。日向の堂々とした言い方に、櫻井はついカッとなってしまい、


「女性だからですか?」

「いいえ、単なる力不足です。握力で言えば60kgは欲しいところです」

「60kgを提示する根拠は何ですか?」

「勘というか感覚ですね。これを言語化するのは非常に骨が折れます」

「でしたら承認致しかねます。申し訳ありませんが身勝手な変更はお受けできません」

「なら理由を追加します。俺は極度の照れ屋で、女性に直に触られると緊張してしまい、測定どころではなくなってしまいます」


 日向はことさら大きな声で、というよりほぼ大声でそう告げた。ぽつぽつと点在するスタッフや被計測者にも届いており、複数の視線が注がれる。

 櫻井はハッとして、周囲に軽い会釈で詫びた。


 それから日向に向き直る。

 少しも照れの見えない様子に心底腹を立てながらも、言い分としては至極妥当であるため反論のしようがない。


「……少々お待ちください」


 櫻井がルームを後にする。


 橋本は近くにいたらしく、間もなく入ってきた。

 日向は改めて説明を行い、ついでに担当者の変更を打診する。橋本はこれを受け入れた。


「――いつでもいいぞ日向君」


 仰向けになった日向の両脚を橋本が支えてみせる。

 抱き込んで潰すかのような強烈な固定であり、身長も重量も明らかに勝る橋本にしては過剰な固定と言えた。隅で様子をうかがう櫻井は眉をひそめていた。


「あと十秒後にカウントダウンを開始してください」

「わかった」


 橋本は体内時計で十秒を数える。

 日向はというと、深呼吸を行い臨戦体勢に入った。


 物凄い集中力だ。

 それが橋本の感想だった。

 上体起こしという普段馴染みのない計測においては、多かれ少なかれ緊張するものである。それは被測定者の様子や固定先の足から通じるりきみ具合でわかるのだが、日向からは全くと言っていいほど感じなかった。


 十秒を数え終える。

 そばに置いたリモコンのボタンを押し、専用装置の音声にカウントダウンを開始させた。

 橋本はリモコンを置き、全力で固定に専念する。


 3、2、1――計測開始。


 直後、綱引きのような鋭い引きが橋本を襲う。

 同時に物凄いスピードで日向の顔が迫り、すぐに離れたかと思うと、また近づいてきた。


(秒間二回ペースだと!? これは速い!)


 高速で遠近感が変化する日向の顔を見ながら、橋本は感心していた。

 抱え込むような固定の仕方もあって、接近時は吐息がかかるほどに近いが、日向に怯んだ様子はない。その事が更なる感心を生んだ。


 離れた場所から見ていた櫻井が口を開く。


「めちゃくちゃね。すぐバテるに決まってる」


 隣にいる後輩スタッフに向けたものだ。


「上体起こしって確か60回は未達なんでしたっけ?」

「そうよ。60回どころか50回も滅多に見ないわね。プロのアスリートがたまに超えるくらい。だから秒間2回なんて続くはずがないのよ」

「でも1秒に2往復するだけでも凄いですよね」

「そうね。高校生にしては出来、過ぎ――え?」


 櫻井が言葉を失う。

 後輩スタッフがその視線を追うと、変わらず日向が上体起こしを繰り返していた。

 既に終盤であるにもかかわらず、ペースに乱れがない。

 実は少しだけのだが、集中して見ていなかった二人は気付けなかった。


 終了のブザー音が鳴り響く。


 不自然な沈黙が訪れた。その原因を示すかのようにスタッフ達の注目が一点――日向に注がれている。


「ご、55回……」


 橋本もまた日向の足を固定したまま唖然としていた。

 日向がぐいぐいと引っ張ってみせたことで、ようやく我に返る。


「ひっ、日向君! 君は一体――」

「別に珍しいことじゃありませんよ。体幹はパルクール実践者トレーサー十八番おはこみたいなものですから」


 疲れを感じさせない軽快な動作で足を振り解き、立ち上がる。


「た、たしかにそうかもしれないけど……」

「それにトレーサーは、失敗したら死ぬ状況下で動き続ける生き物でもありますからね。集中力も凄まじいんです。そうですね、海外のトレーサーがやったら、60回くらい軽く超えるんじゃないですか」

「……」

「素人から見たら高校球児の肩力は化け物ですよね。それと同じです。パルクールはマイナーな分、びっくりされやすいだけですよ」


 日向は矢継ぎ早に適当な事を言いつつ、


「屋外の計測がまだ残っています。行きましょう」


 有無を言わせない口調でそう締めくくった。


 ルームを立ち去ろうとする日向の後を追いながら、橋本は思う。


(最初のペースを維持していれば60回、いや66回も届いていた)


 歴史的瞬間が見れるのではと密かな期待さえ抱いていたのだ。

 ところが途中、明らかにペースが落とされた。限界だからやむなく落ちたというよりも、余力を残していながら意図的に落としたように感じられた。


(目立ちすぎるからとセーブしたのかもしれない)


 しかしそんなことはどうでも良かった。

 一介の高校生による未達ライン60回への到達――到底信じられないことだった。


 もしかすると自分が知らないだけで、トレーサーという生き物はそうなのかもしれない。

 あるいは目の前の高校生が特別なのか。


 橋本はパルクールについて詳しく調べてみようと固く決意したのだった。

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