4 好意と戦意
暖かい日差しが降り注ぎ、爽やかな春風が肌を撫でる。
始業式の翌日、朝八時半。
制服に身を包んだ新一年生。
それを見届けんとするフォーマルな格好の保護者。
受付や誘導を行う教員たち――
今日は入学式である。
式は九時から始まるが、喧噪の発生源は他にもあった。
二、三年生の教室だ。既に大半の生徒が登校している。
四階の、二年A組の教室でもクラスメイトが集まって話に花を咲かせていた。
新しいメンバーとの会話は刺激的で、三十分などあっという間に過ぎるだろう。幸か不幸か、
見当たらないと言えば、その筆頭であろう
校内で静寂の保証された数少ない空間――図書室。
公式には九時開館だが、既に開館していた。物好きな司書の先生によっていつも八時前には開錠される。といっても利用者は決まって一人か、せいぜい数人だ。
「またあの子を見てるの?」
司書の山下先生が、東側の角席に座る常連女子に声を掛ける。
「ち、違いますよぅ……」
「初っぱなから露骨な視線ねぇ。春休み会えなくて寂しかったのね」
「だからやめてくださいってばぁ……」
「声が大きい」
「……もう。先生のいじわる」
今は志乃を茶化す笑みを浮かべているが、山下は『図書室の番人』として有名で、室内でも自習禁止、スマホ禁止、睡眠禁止を掲げており、毎年少なくない生徒を叱っては足を遠のかせている。
ちなみに私語は小声なら許されているが、生徒が二人しかいなくとも律儀に守るところが山下らしい。
山下は志乃の隣に腰掛け、その視線の先を追う。
ちょうど反対側、西側の角席に一人の男子が座っていた。
「あの子も相変わらずね。まるで銅像だわ」
背筋をピンと伸ばし、両手で本を持ったまま目を落としている。本の角度は垂直に近く、視力が良ければ表紙が見えるほどだ。
「いいですよね。絵になっているというか」
「そう? 微動だにしなくて、正直気味が悪いんだけど」
去年からちょくちょく図書室に通っている男子生徒の一人で、目を引くのは読書時のその姿勢だ。怖いくらいにぴくりとも動かない。
もっとも最初に注目していたのは志乃であったが、つられて見ているうちに山下も気になり始め、普段生徒にさして関心が無いにもかかわらず、わざわざ名前を調べるまでに至っている。
「先生。生徒に向かってそんなこと言っちゃダメですよ」
「私の想い人をけなすなーって?」
山下の肩をぽかぽかと叩く志乃。顔も赤くなっていて可愛らしい。
そんな志乃を改めて眺める。
清楚であどけなさの残る顔立ちに、二つ結びがちょこんと垂れている。
制服は全く着崩されていない。春高の女子には珍しくスカート丈は膝下。
去年からここに入り浸り、本ばかり読んでいた彼女だが、今は別のものを見ている。いや、そのうっとりした眼差しを見れば、
「……声掛けてみたら?」
「ダメですよ。本を読む邪魔をしちゃいけないんです」
「だったら帰る間際ね」
「……」
志乃がしゅんと縮こまり、再び赤面した。
クラスに同性の友達すらいない彼女にとって、異性の、それも想いを寄せている相手に近づくのは困難だろう。
「見ているだけじゃ何も始まらないわよ」
「そ、そんなこと……わかって、ますよぅ……」
山下にとって志乃は、ほぼ唯一の、気心が知れた生徒である。娘や妹のように思っている。力になりたかった。
「先生が間を取り持ってあげようか?」
言うと、志乃が山下を見た。
最初は顔。それから視線を落として、その豊満な胸を凝視した後、ため息をつく。
山下が美人であることはよく知られている。特にその大きな胸は、教室内でしばしば男子の話題になる。
今も組んだ腕によって強調されていた。
「……それだけはやめてください」
あの人も先生の魅力に負けてしまったら、と思うと、いてもたってもいられない。
志乃は自分の慎ましいそれを撫でる。
もし、もっと胸が大きければ彼はなびいてくれるのだろうか、と普段考えもしないことが思い浮かべ、直後そんなはしたない自分に
「志乃ちゃん。心配は要らないと思うわ」
「美人はいいですよね」
「
山下はどさくさに紛れて志乃の頬をつまんだ。
くりっとした目に、ちょこんとついた唇。地味と言えば確かにそうだが、庇護欲をそそられる、小動物のような可愛さがある。
肌もすべすべで、もちもちしていて、
「いいことを教えてあげる。あの子、私の胸をチラ見しないのよ」
「知ってます。基本的に本しか見てませんね。たまに部屋を見渡しますけど、たぶんのめり込みすぎないための対策なんだと思います」
淡々と語る志乃だが、微かに顔が緩んでいるのを山下は読み取っていた。
「そうなのよねぇ。見た感じ、志乃ちゃんと同じか、それ以上の本の虫なのよね。読書量と通う頻度はあなたに遠く及ばないけど。
「不純異性交遊はダメですよ」
「ひどいわね志乃ちゃん。大丈夫よ、タイプじゃないから」
「タイプの問題じゃないと思いますが……」
そんな具合に二人が雑談して時間を潰していると、当の日向が立ち上がった。
山下が壁時計に目をやると、入学式まで残り十分といったところだ。
日向が立ち去った後、志乃が腰を上げる。どこに向かうのかと思えば、さっき日向が片付けた本を取り出している。
表紙を眺め、ページをぱらぱらとめくった後、なぜか匂いを嗅いでいた。
「志乃ちゃん。それは引くわ……」
そんな志乃に苦笑をおくる山下だった。
◆ ◆ ◆
入学式が始まる三十分ほど前のこと。
日向は教室ではなく図書室で過ごしていた。
図書室は八時前に開く。公式には九時開館だが、実は八時から利用できることを日向は知っていた。この先生なら入学式でも普段通りだと日向は読み、的中したのだ。
室内は整然としており、カウンターや本棚はもちろん、机から窓まで丁寧に配置され、掃除されている。司書の先生――山下の思いやりと几帳面さが見て取れる。
山下は『図書室の番人』として有名で、自習もスマホも睡眠も許さないが、今は反対側の席で常連の女子と雑談している。声量は落とされており、日向の耳には届かない。
日向は定位置である西側の角席に陣取り、本を手に持って読んでいた。
しかしそれはカモフラージュだった。
その手は、本で隠すようにしてスマホも握っていた。
本を支えたまま器用に画面をタップする。時折ページをめくることも忘れない。
背後から見れば一目瞭然だが、正面から見たら本を読んでいるようにしか見えない。実際に山下らの目も誤魔化せている。
背後も背後で窓しかなく、しかも二階であるため覗かれる恐れもない。
日向がわざわざそんなことをするのには理由があった。
一つ、人目を誤魔化すための実践訓練を行うため。
盗撮は時として被写体のそばで撮影することもあり、相手に怪しまれないよう振る舞うための洞察と動作が求められる。
このようなカモフラージュはその訓練になる。
一つ、決して人に知られてはならないコンテンツを読むため。
スマホで今開いているウェブサイトは、盗撮動画販売サイト『カミノメ』である。
日向はカミノメに動画を提供し、収入を得ている撮り師だ。作品に生かし、更なる人気――もっと言うと収入を集めるためにも、人気動画や利用者の傾向をチェックするのは当然と言える。
しかし、モノがモノである。万が一にも誰かにバレてはならない。
この角席であれば、周囲への注意が最小限で済むため注意に要する負担が少ない。その分、サイトを読むのに集中できる。
そしてもう一つ、最後の理由が、ここに通う常連女子を観察するため。
日向と同じ二年生で、日向が属するA組の隣、B組に属している。
図書室の常連。定位置は東側の角席で、日向のちょうど反対側。
基本的に本に集中しているが、時折こちらをチラ見してくる。凝視することもあるが、声を掛けてくることはない。
見るからにおとなしそうで、クラスにも友達はいない。唯一、司書の山下先生と仲が良いくらいか。
日向はそんな志乃に目を付けている。
地味で清楚な文学少女という特徴を押し出した作品を作りたい。出来ればシリーズモノにして、じっくりと追いかけたい。
これは図書室に生息する志乃をいかにして盗撮するかという挑戦的ゲームでもあり。
地味や清楚といった属性を好むユーザー層を取り込むチャンスでもある。
日向が見た限りでは、志乃ほどの適任者は少なくとも二、三年にはいないし、新一年生にもいるかどうかはわからない。多少の手間を掛けてでも取り組む価値がある。
(そろそろか……)
スマホの時刻表示が、入学式が近いことを示している。
壁時計を確認するふりをした後、スマホを袖口に隠し、本を閉じて立ち上がる。本を所定の棚に仕舞い、図書室を後にした。
「さすがに簡単にはいかねえよな」
どんな風に志乃を盗撮すれば最高に興奮できる作品に仕上がるか。
そもそもどうやって志乃を盗撮するか。
志乃一人ならまだしも、山下の目をどうやってかいくぐるか。意外と神経質で細かいことは図書室を見ればわかる。下手にカメラを仕掛けて、気付かれでもしたら大事だ。
なら図書室での盗撮は諦めるべきか。だとして、どこで盗撮するのか――
体育館に向かう道すがら、日向は頭を悩ませていた。
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