第28話 王子と白鳥。

「俺は王にはならない。一度だけ王城へ行ってもいいが、アズサと離れるなら、この話は無かったことにしてもらう」

 そう宣言したルカがトリエステ公爵と交渉し、私が同行することが認められた。


 そのまま豪華な馬車に乗せられて、ルカと私は王城へと向かう。魔法効果が施された馬車は、普通ならy四日はかかる道程を一日半で駆け抜けた。


 初めて見る王都は白い壁と青い屋根で統一されて、とても綺麗な街並みが続いている。石畳は滑らかで馬車の揺れも少ない。町を見下ろす高台に作られた城は、白い石で作られた豪華で立派なものだった。

 長い石橋を渡り、城の正面広場に馬車が停まった。ファンファーレが鳴り響き、馬車の扉が開く。


「え?」

 扉の外に広がる光景に、私は息を飲んだ。


 城の入り口へと続く石畳には赤い絨毯が敷かれていて、道を護るように甲冑服を着て剣を掲げる騎士が並んでいる。その後ろには制服を着た兵士、さらに着飾った貴族の人々が待っている。ルカと私は町歩きの時のまま、甲冑服にマント姿。場違いとしか思えない。


「アズサ、大丈夫だ。俺がいる」

 先に降りたルカに手を引かれて馬車を降りる。用意されていた演台に上がりルカが片手を上げれば、地響きのような歓声が沸き上がった。ルカにしっかりと肩を抱かれて支えられていても、震えないように我慢するのが精一杯。


 一挙手一投足が大勢から注目されるというのは、恐ろしいことなのだと私は知った。銀神教の集会とは規模も注目度も違いすぎる。熱気に包まれた人々に対して、ルカは特に挨拶をすることもなく当たり前のように赤い絨毯の中央を歩いて城へと入っていく。


 豪華な広間を通り抜け、トリエステ公爵に一際豪華な部屋へと案内された。ソファに座る前に私は隣室へと誘われる。ルカは拒否したけれど、私に着替えてもらうだけだと言われて仕方なく肩から手を離した。


 隣室には深緑の豪華なドレスを着た金髪碧眼の女性と、淡い緑の揃いの服を着た女性たちが待っていた。

「貴女がアズサ様ですか?」

 声を掛けてきたドレスの女性はベルの母親、トリエステ公爵夫人。ベルを助けたことへの感謝の言葉を告げられる。揃いの服を着ているのは侍女だと説明を受けた。


 侍女たちに囲まれて浴室に連れ込まれた。丁寧な手つきで服を剥ぐように脱がされ、ルカにもらったピアスも外されそうになって、それだけは拒否した。たっぷりと泡立てられた石けんを使い、侍女たちは私の髪と体を洗い清めていく。あちこちを他人に洗われることは初めてで、固まっているうちにすべてが終わった。


 浴室から出ると豪華なオールドローズ色のドレスが用意されていた。キャミソールにドロワーズ、ペチコートを穿き、何枚ものアンダースカートを重ねてからドレスを着せられる。背中にずらりと並ぶくるみボタンは自分一人では着ることもできないし、脱ぐこともできない。


 まるで流れ作業のように大きな鏡台の前に座らされ、髪をふわりと結い上げられる。この世界にはゴムがないから、糸と沢山のピンが使われて、頭が重い。ドレスと同じ布で作られた髪飾りを付けられると、昔々、小さな子供の頃に夢見た物語のお姫様の姿になった。


 濃い化粧は拒否して、淡く薄い化粧に留めてもらう。この世界に来てから、肌の調子は物凄くいい。過酷な野宿生活でも肌が荒れることもなかった。久しぶりに化粧をした自分の顔を鏡で見て、これからは薄く口紅を着けて見ようかとちらりと思う。


 鏡の中の私は、少し勝気な顔の美人。いつもの自分と全く違う姿に、心が着いて行けない。……ルカは、この姿を見てどう思うのだろう。似合わないと笑われたりしないだろうかと不安がよぎる。


 侍女たちの優しい手つきも、高度な手業も、終始無言で施される。公爵夫人がひっきりなしに褒め言葉を掛けてくれても、何もかもが不安で仕方がない。柔らかい靴を履かされて、着替えがすべて終わった。


 ガラスのゴブレットのようなカップで、とても綺麗なピンク色のハーブティを出されても、口を付けることはなかった。ルカからは、自分と一緒にいる時以外は、何も口にするなと何度も念を押されている。惚れ薬はないだろうけれど、何か薬を仕込まれる可能性を考えておくべきなのだろう。


「アズサ様、とてもお美しいですわ。ルクレツィオ様もお目が高い」

 公爵夫人は人の良い顔で微笑む。

「……ありがとうございます」

 私は緊張しながらお礼を口にすることしかできない。


「ルクレツィオ様が城にお戻り下さって、皆、本当に喜んでおりますの」

 ルカは魔物の肉を食べた後、事故死と偽装して城を出たらしい。最近まで死んだと思われていたけれど、ベルとアルを助けたことで、生きていることが知れ渡った。


「夫婦共々、微力ではございますが、王となるルクレツィオ様をお支えする所存ですわ。何かありましたら、遠慮なくご相談下さいませね」

 公爵夫人はルカが王になるのだと信じて疑わないようだ。ルカは王にならないと何度も言っていると反論したくても、部屋の空気が重い。


「ルクレツィオ様が王になる日が本当に楽しみですわ」

 公爵夫人の微笑みが、何故か胸に刺さるように痛い。ルカの言葉を信じようと、私は自分に何度も言い聞かせることしかできなかった。


 隣の部屋に戻るとルカは王子様になっていた。さらさらとした血赤色の髪に空色の瞳。濃い鮮やかな青のロングコートには、金色の装飾が施されている。首元には白いタイが結ばれ、紺色のベストに黒のズボンに黒いブーツ。絵画にできそうな程にカッコいい。


「似合うじゃねーか」

 迎えるように近づいてきたルカの一言で、ほっとした。見た目は王子様でも、中身は変わっていない。

「私の世界では、『馬子にも衣裳』っていうのよ」

 ガサツな女でも、これだけの豪華なドレスを着ればそれなりに見えるのだと思う。


「ん? よくわかんねぇ言葉だな。……アズサ、綺麗だ」

 最後の言葉はそっと耳元で囁かれた。顔が赤くなるのは止められない。


「ほら、行くぞ」

 王子になったルカが、私の右手をそっと取って、自らの左腕に掛けた。その仕草はとても優雅で流れるようで。いつものルカと違っていて、私は戸惑う。


 赤い絨毯が敷かれた廊下をゆっくりと歩く。慣れないドレスの中でペチコートやアンダースカートが脚にまとわりついて絡まっているような気がする。いつもの歩幅では歩けない。


 私の歩き方を見かねたのか、後ろを歩いていた公爵夫人がペチコートとアンダースカートを膝で蹴るように捌きながら歩くのだと囁いてくれた。確かに膝で蹴りながら歩けば絡まない。ドレスの下での脚捌きに感心すると同時に、面倒なものだと内心溜息を吐く。


 水面下では足を必死にばたつかせているけれど、水の上では優雅に見える白鳥を思い出した。今の私はまるで白鳥のよう。


 ルカが使っていたという王子の部屋は、とても広くて、とても豪華な部屋だった。この世界では非常に高価な大きなガラスが窓に嵌め込んであって、壁にも巨大な鏡が飾られている。飴色の重厚な家具には歴史を感じさせるものがあり、精緻な彫刻が素晴らしい。


 住む世界が違い過ぎる。私はさらに心細くなった。

 周囲の壁際には侍女や従僕、貴族と思われる人々が控えるようにして立っていて、常に見られているようで落ち着かない。


 出されたお茶は淡いオレンジ色。ソーサーに乗せられた足の短いゴブレットのようなガラスのカップには持ち手がない。ルカが最初に私のカップで一口飲んでから渡される。


「兄上!」

 扉を大きく開けて入ってきたのは、金髪で空色の瞳の美しい青年だった。十八歳になる弟だろう。隣に私がいることに気が付いたのか、頬を赤らめた。


「失礼しました。お会いできて本当に嬉しいです」

 王子同士の再会の挨拶というものは、美しい光景だった。涙や恨み言や、そういった物はなく、あっさりと交わされる。悪く言えば儀礼的なものに見えるけれど、感情を表に出すことが不作法だということなのかもしれない。


「あなたがアズサ嬢ですか。はじめまして」

 ルカから弟のトゥーリオだと紹介を受けて挨拶を返す。

「はじめまして。アズサ・ロッカミです」

 軽く会釈をした所で、静かなざわめきのようなものが室内に起きた。


 私は何か間違ったことをしたのかもしれない。ルカが私の肩を抱いて大丈夫だと言うとざわめきは消えた。

 私は不安で堪らなかった。ルカは大丈夫だと繰り返しても、周囲の視線が気になる。ただの視線が酷く侮蔑的なものに思えて仕方ない。これは被害妄想だと思うけれど、挨拶もろくに出来ない女だと思われているのかもしれない。ルカに挨拶の方法を聞いておけばよかった。


 ルカと弟の話はお茶を飲みながら、静かに続いた。ルカはいつものルカではなく、王子様。隣に座っているのに、どこか遠い。話している内容も、右から左。私の心には残らない。


「少し込み入った話をしたいので、席を外して頂けませんか?」

 トゥーリオが私に笑顔で話し掛けてきた。

「それは断る。アズサに聞かせることができない話はしない」

 ルカが憮然とした態度で返したけれど、私はお手洗いに行くと言って席を外すことにした。


 侍女たちに囲まれてお手洗いに案内された。手伝いは断って独りで広い個室に入り、手を水で冷やすだけに留める。本当は化粧をした顔を水で洗ってしまいたい。結い上げられた髪を解きたい。すべてが堅苦しくて窮屈で、不自由。


 これが王族の生活というものなのか。今まで持っていた常識がすべて崩れ去るような恐怖を感じる。剣の腕や腕力が一切通用しない場所は、魔物と対峙するより怖い。


 大きく深呼吸をしてから個室の扉に近づくと、小さな話し声が聞こえてきた。


「ルクレツィオ様、素敵ね」

「でも、魔物喰いよ。私は近づきたくはないわ」

「そうね。お相手の方はよく我慢できるわよね。穢れが怖くないのかしら」

「異世界人だというし、私たちの常識とはかけ離れているのではなくて?」

「儀礼も全く知らないようですものね。ルクレツィオ様に騙されているのではないのかしら」

「あら、それは面白い話だわ。魔物喰いに騙されて伴侶にされたという訳ね」

「ルクレツィオ様、戻ってこられるのかしら。担当にはなりたくないわ」


 私がすぐに出てくるとは思っていなかったのか、侍女たちはおしゃべりを続けていた。ここは寂しい場所だと思う。あれだけ歓迎しておきながら、腹の中ではルカを魔物喰いと呼んで蔑んでいる。表裏が激しすぎて、私には理解することは不可能。


「嫌だわ。異世界人のお子が王になるのかしら」

「それはないでしょう。国が乱れるわ。公爵家か上位貴族から王妃を出すのでは?」

「異世界人は愛妾ということになるのかしらね」

「王も愛妾をお持ちだし、あり得るわ。やはり王妃は貴族の血でなければね」

「王妃になれると言っても、魔物喰いと閨を共にするのは嫌よ」

「お子が授かるまでの辛抱よ。〝王家の瞳〟さえあればいいのだし」


 私は衝撃を受けた。もしもルカが王子に戻って、王になったらなんて考えたくはなかった。貴族ではない異世界人に対する差別は根深そうだ。王妃になりたいとは思わないけれど、ルカの隣に私でない誰かが立つなんて耐えられない。


 これ以上の話を聞きたくなくて、私はわざと衣擦れの音を立てて侍女たちの前に出た。侍女たちのおしゃべりはぴたりと止まっていて、何事もなかったかのように無表情で待ち構えている。その差に私は背筋が凍るような冷ややかさを感じていた。


 遠回りで案内されて部屋に戻ると、厳しい表情のルカと笑顔のトゥーリオが話を続けていた。どうやら王位継承権の話らしい。

「その話は承諾できない。……アズサ、少し歩こう」

 ルカは話を途中で終わらせて、立ち上がった。


      ■


 部屋をでたルカは、私の手を引いて歩いて行く。赤い絨毯が敷かれ、冬なのに春の花が飾られた廊下を何度も曲がられると、元来た道すらわからない。ルカがいなければ絶対に迷子になりそう。


「……」

 ルカに声を掛けようとして、手を強く握ると振り返ったのは王子様。さらさらとした血赤色の髪に優しく微笑む空色の瞳。本名のルクレツィオと呼ぶべきだろうか。

「どうした?」

 ルカの問いに何でもないと首を横にふり、無言で歩く。王子様姿を見ていると、きゅっと胸が苦しくなる。急にルカが遠くなったような気がして怖い。


「到着っと」

 周囲の廊下はどことなく薄暗く、扉は普通の木で出来たもの。ぎぎぎと軋む音を立ててルカは扉を開いた。


「あー、油差してないのか? 昔と変わってないなー」

 扉の中は、四畳半くらいの小さな部屋。これまで見た豪華な部屋とは違って壁紙に模様はなく、家具には若干ほこりを被った白い布が掛けられている。ルカが中央の布を取り去ると、素朴な木で出来た小さめのテーブルと椅子が現れた。


「ここは?」

「秘密の場所だ。俺は昔、何かある度にここで過ごしていた」

 ルカが悪戯っ子のような表情になった。ああ、ルカだと私はほっとする。ようやく小さなルカのことに興味が沸いてきた。


「俺は隠れてたつもりだったが、皆知ってたんだろうな。そのカウチで寝ていて、起きたらテーブルの上に果物やパンが入ったカゴが置かれてたりな。あー、あの頃は大きなカウチだって思ってたのに……そうか、二人で座るのには丁度いいな」

 白い布を取り去ると、大人には小さめのカウチ。王子様のルカとドレスを着た私で並んで座ると、ぴったりの大きさで笑ってしまう。


「負けず嫌いだった俺は、剣の稽古で負けたり、勉強が思ったように進まなかった時、よくここに逃げ込んで悔しがってた。ほら、そこにへこみがあるだろ? 一度、あまりにも腹が立ったんで、殴ったら壁がへこんだ。それにびっくりした俺は、もう絶対に壁を殴らないって決めたんだ」

「壁がへこむって、どんだけ馬鹿力なのよ」

 ルカが指さした先、たしかに壁がへこんでいる。その位置から考えると、七歳か八歳くらいの話だろうか。


 ルカが高い天井近くの壁を指さす。

「で、あれが十歳の俺が跳び上がって付けた手の跡」

「え、スゴイ! あんなに高くまで?」

 壁には手の跡が残っていた。垂直跳びで測ったら世界新記録が出そうな気がする。


「掃除するだろって思ってたら、侍従長から記念に残すとか言われたんだよなー。まだ残してるとは思わんかった」

 小さな頃の思い出を聞いて、少年のルカを想像する。弟と同じ金髪に空色の瞳と頭ではわかっているのに、思い浮かぶのは血赤色の髪の活発な少年。


「ここは弟のトゥーリオにも教えたことはなかった」

「どうして?」

「一人になりたいって思ってるのに、トゥーリオに知られたら付きまとわれるのは簡単に予想できたからな」


「私はいいの?」

「アズサに付きまとわれるなら、大歓迎だな」

「私は付きまとったりしないわよ」


 笑うルカが立ち上がり、私の手を引く。カーテンを開けて出窓から外にでると、そこは小さな庭だった。真っ白い薔薇が一面に咲いていた。

「綺麗……」

 冬なのに緑は瑞々しく、白い薔薇は生き生きと咲き誇っている。青い空には赤と緑の月。童話か何かに出て来そうな光景はとても美しい。


「……この国では、男が白い薔薇を女に贈る時には意味がある」

 ルカが少し耳を赤くする。

「意味って何?」


「永遠に愛を捧げるっていうことだ」

 ルカが一本の薔薇を折って跪く。


「アズサ、愛してる。俺と結婚してくれないか?」

 ルカの言葉が胸に染みていく。血赤色の髪の王子の、秘密の花園での求婚は私が密かに夢見ていたものよりも遥かに素敵で。……だからこそ、現実味がなかった。


「……いいわよ。結婚してあげる」

 私は白い薔薇を受け取った。少し上から目線なのは、照れ隠しだとルカもわかっているだろう。


「やった! アズサ! 結婚式はいつにする?」

 強く抱きしめられて、くるりくるりと振り回される。ふわりとドレスの裾が広がって、まるでダンスをしているよう。

「……春がいいわ」

 私は、夢のような光景を壊さないように、そっと答えた。



 夕食は気軽な晩餐会だと言われて案内された食堂は、柱は金色、壁や天井には優美な絵が描かれていて、丸ごと美術館のような広い部屋。煌々と輝く魔法灯すら美術品のようで、白い布が敷かれた長いテーブルが数本並び、背もたれが一メートルはありそうな椅子には、すでに多くの貴族が着席していた。


 私はテーブルを挟んだ席に案内されそうになったけれど、ルカがすぐ隣に席を作ってくれた。ルカと私が着席した後、金髪で空色の瞳の王と金髪碧眼の王妃が姿を見せる。その後ろを独り歩くのは、銀髪で緑の瞳の女性。


 王と王妃は一段上に用意されたテーブルに並んで座る。銀髪の女性は少し離れた場所に座った。あの人が王の愛妾なのかもしれないと私は気が付いた。


 王の愛妾というのは、寂しい立場なのだと胸が痛い。王子の後に入場するのだから地位的には高くても、こうして大勢の人の前では王妃と区別される。隣で食事をすることも許されない。


 これが第一王子の帰還を祝う会だとルカと私が知ったのは、最初の王の挨拶だった。ルカは一瞬不機嫌な顔を見せたものの、あちこちから上がる歓声に微笑んで会釈する。


 運ばれてくる料理はパンや野菜や果物を豪華に飾り付けたものだった。正直に言えばあまり美味しいとは思えない。見た目は凄くても、料理の味は塩とハーブまみれの小麦粘土のよう。ルカの前にはローストビーフの塊に似た魔物の肉を焼いたものや、魔物の肉のシチュー、五種類の料理が出されている。


「食べるか?」

 ルカに勧められて、分けてもらう。

「あ、これ美味しい」

 生肉を使っているからか塩味があまり強くない。ハーブも控えめで普通の肉料理。


「これは狼に似た魔物ね。これはウサギに似た魔物」

 比べて見ると確かに肉の味が違う。

「これは鹿に似た奴だな」

 二人で盛り上がっていると、周囲が異様に静かなことに気が付いた。そっと見回すと、貴族たちが食事の手を止めて私たちを注視している。


「何だ?」

 ルカが視線を向けると、周囲は何事も無かったかのように、会話を始める。

 私が魔物の肉を食べていることに、驚いたのかもしれない。「気にするな」というルカの言葉に頷いて、私たちは食事を続けた。


 食事の後、男性はお酒を別室で飲むのが決まり。ルカは私の同行を望んだけれど、私はルカの部屋で待つことにした。

 王子の部屋は、これまで滞在したどんな宿よりも快適。魔法石による空調が完備していて、冬の寒さは感じない。窓の外、夜空には赤と緑の月と小さな白い月が見える。


 私が暇を持て余していると、アルの母親、セルモンティ辺境伯夫人が尋ねてきた。青みがかった白金髪に青い瞳。見る角度で色が変わる紺色のドレスを着用している。アルとベルを助けた礼を告げられた。


「アズサ様、ルクレツィオ様が城に戻るよう、説得していただけませんか?」

 どうやら礼を言いたいというのは建前で、本題はこちららしい。私は氷のような鋭い眼差しの美しい夫人と対峙する。


「魔物の肉を食べてしまったのは、不幸な事故です。今後は、わたくしの領地から毎日魔物の肉を運びます。本日の晩餐会に供しましたのも、昨日獲れたばかりの肉ですわ」

 夫人は新しい魔法を使った罠を仕掛けるので、人が犠牲になることはなくなったと自慢げに微笑む。


「この国を救い、未来の王にふさわしいのは、ルクレツィオ様、ただお一人です。わたくしの夫も、国を思う貴族はすべてルクレツィオ様を支持しておりますわ」

 夫人の表情は真剣だった。私は何も言えずに、夫人の言葉を聞くことしかできなかった。


 夫人が退出すると、私は一人部屋に取り残された。そうは言っても周囲には侍女と従僕、貴族が控えている。常に向けられる視線が痛いと感じる程なのに、ルカは全く気にならないようだった。住む世界が違い過ぎる。痛感なんていう程度のものじゃない。絶望しそうな程、心細い。


 窓の外を眺めながら、私は、独りで城から出て行くことに決めた。

 ルカと一緒にいたい。それは今も変わらない。けれどもルカは未来の王として嘱望されている。私一人の幸せと、多くの人の幸せと、秤に掛ければ答えはわかりきっている。


 ルカが王になるのなら王妃はこの世界の女性だろう。私は堂々と隣に立てない愛妾にはなりたくない。ルカの隣に他の女がいるのは絶対に嫌。くだらない理由だと思われるかもしれないけれど、その光景だけは絶対に見たくない。


 料理のレシピを置いて行けば、きっと誰かが再現してくれる。魔物の肉もある。ルカはもう、お腹を空かせることもない。野宿をする必要もない。


 一般国民の生活を知っているルカなら、きっと国民優先の、国民の為の政治を執ることができる。きっと、良い王様と言われるようになる。


 ――これは、私がここから逃げる為の言い訳でもあるというのは、わかっている。ルカが大好きで、何があってもそばにいたいと思っていても、あの寂し気な愛妾の姿が、どうしても自分に重なる。


 強い願いが叶う世界でも、私は王妃にはなれそうにない。国が乱れると知っていて王妃になる覚悟はできない。



 夜が更けて、寝る支度も侍女の手で行われた。私は立っているだけでいい。自分の手で何もしないという生活は、私には苦痛でしかない。


 白くて裾の長い夜着を着せられる。柔らかくて、上質な物だとよくわかる。袖や裾にはレースが縫い付けられていて、まるでドレスのような豪華さ。


 寝室ではルカがカウチに座って待っていた。白いゆったりとした襟のないシャツとズボンは優雅で、さらさらとした血赤色の髪と合っている。


 ルカは寝室の中に控えていた侍女や従僕を全員退出させて、私を抱き上げ、膝に乗せてカウチに座った。テーブルの上には、お酒の瓶がいくつも置かれている。


「アズサ。疲れただろ? 酒でも飲むか?」

「疲れてるから、今日は止めておく」

 今夜は酔ってしまいたくはなかった。ルカが「そうか」と笑う。


「ね。私の荷物ってどこ? ハンカチ洗っておきたいんだけど」

 私が聞くと、ルカが壁に作り付けのクローゼットを開けた。ルカと私の甲冑服が洋服掛けに掛けられていて、靴も鞄も入っている。


「いざとなったら、一緒に逃げるからな」

 ルカの笑顔にどきりとした。私が逃げようと思っていることがバレているだろうか。


「バルディアに戻ったら、ライモンドに婚礼衣装を頼むか」

「え? ララってウェディングドレスも作れるの?」

 そういえばララが着ているドレスはいつも趣味がいい。注文したら、どんなドレスが出来上がるのか見てみたいと思っても、それは実現しない夢。


 私はハンカチを洗うと言って、寝室に付属している浴室へと入った。先程から、白雪が『呼べ』と囁いている。

「おいで。……何?」

『――今宵はここで眠ることにする。呼べば戻る』

 抜き身の刀に、白い鞘が現れた。白雪の声は優しい。

「……ありがと」

 私は感謝しながら、白雪を棚に置いて浴室を出た。


 そろそろ寝るかとルカが言って私を抱き上げた。見たこともない程大きなベッドには、生成色のシルクのシーツと掛け布。私を抱き上げたままベッドに入ろうとしたルカを制止して、床に立って向かい合う。


「ルカ。好きよ。愛してる」

 私は、初めてルカに好きだと言葉で告げた。今まで恥ずかしくて言えなかったけれど、もう二度と言えないかもしれない。


「俺もアズサが好きだ。愛してる」

 ルカの言葉が嬉しい。

 私はルカに抱き着いて、髪を乱した。


「こら。乱暴だな」

「こっちの方がルカらしいわ」

 整えられた髪よりも、いつもの無造作な髪型の方がいい。


「ね。キスして?」

「……どうした? 急に」

 驚いた顔のルカのシャツを握りしめて見上げれば、そっと背中に腕が回る。


 優しく唇が触れ合っただけで、心臓が爆発するんじゃないかって思うくらいにうるさい。恥ずかしくてのぼせた顔はきっと赤い。

「……ルカ……」

 ――私は、夜着を脱ぎ捨てた。

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