第11話 叶わぬ夢を見て惑う。
「おい? アズサ?」
木に寄りかかって気を失ったアズサの顔色は悪い。通りがかった荷馬車に乗せてもらって、近くの町へと向かう間も、目を覚まさない。
たどり着いた町――アヴルには、知り合いの医術師イヴァーノがいる。慌てて駆け込むと、すぐに診療が始まった。
「ルクレツィオ、お前、女の月の障りを知ってるか?」
診療室から出てきたイヴァーノが溜息を吐いた。淡い茶色の髪は無造作に束ねられていて、銀縁眼鏡の奥からは紺色の瞳が鋭い光を放っている。
「ああ。それが、どうし……」
俺はようやくアズサの不調の原因を理解した。教団施設から連れ出して二十日程が経つ。
「そもそも、女を野宿させるお前の神経がわからん」
イヴァーノがさらに溜息を重ねる。
「いや、その、アズサは浄化の術が使えるし、今まで疲れたような顔は……」
「馬鹿か? 馬鹿なんだな? そうだよな?」
俺の言い訳に、イヴァーノが静かにキレた。
そもそも、浄化の術は力を多量に使うので、毎日使う物ではないこと。イヴァーノが見た所、アズサはかなり綺麗好きのようなので、頻繁に浄化の術を使っていただろうと指摘する。
「男と同じように動けるからといっても、女は女の体だ。気を使ってやるのが男の優しさというものだろう?」
男兄弟に囲まれて育ったというアズサとの日々のやり取りは、どこか仲間めいた物で、女だということを忘れてしまう。夜に眠る時には女だと思い知るが、手を出してしまわないように我慢するのが精一杯だ。
「すまん……」
「私に謝っても仕方がない。時々でいいから、彼女の様子を観察しろ」
イヴァーノは深いため息を吐いて、昔のように俺の頭を本の背で叩いた。
夕方になる頃、ようやくアズサが目を覚ました。
町で買い込んできた果物を食べさせて、信用できる宿屋へと移った。抱き上げて運ぶことに随分抵抗されたが、力任せに押さえ込んだ。
浴室から出てきたアズサをベッドに放り込み、睡眠薬で眠ったことを確認してから部屋に鍵を掛け、同行していたイヴァーノを誘って酒場に向かう。
「お前が女を連れているなんて思わなかった」
麦酒を飲み干したイヴァーノがぼそりと呟いた。アズサとの出会いを簡単に説明すれば、イヴァーノもライモンド同様の言葉を返して苦笑する。
「エーミルの女じゃないぞ」
俺の反論にイヴァーノが目を丸くした。
「それじゃあ、お前の女か」
イヴァーノのからかいに、否定の言葉が出てこない。肯定の言葉も出てこない。
何とも思っていないと思っていた。けれどもアズサの隣にいることが心地いい。くるくると変わる表情が見ていて楽しい。
アズサの表情が抜け落ちる時、どうやらエーミルのことを思い出しているらしいとわかってからは、声を掛ければ、すぐに表情が戻ってくる。
魔物の干し肉を口にすれば、イヴァーノにも驚かれた。
「家を持てばどうだ? この町は貴族もめったに来ないから静かだぞ」
イヴァーノも二年前の貴族の争いに巻き込まれて、医者がいなかったこの町に移っていた。
家を持ち、アズサを住まわせて、俺は魔物狩りに出る。想像もしなかった話に妄想が止まらない。温かい家に帰ればアズサが笑って出迎えてくれて……そこまで考えて、俺が一部の貴族に探されていることを思い出した。アズサの存在が知られれば、真っ先に人質にされるだろう。
「……俺を探してる奴がいるからな。難しいな」
「あいつら、まだ探しているのか。もう八年だろう?」
「俺じゃなくても、弟がいるのにな」
「このままでは異母弟の方が継ぐからだろう。事情を知っている者たちからすれば、お前が継ぐのが正しいと思うだろうな」
「魔物喰いの俺には継ぐ資格はない。事故死ということで諦めて欲しいんだがな」
毎日、魔物を狩ってくるようにと人に命令することもできた。俺の立場では魔物狩りなど許されない。けれども魔物と対峙するのは命がけだ。俺の食事の為に人が死ぬことは、絶対に許容できなかった。
我慢できなくなった俺は事故死したと偽装して、自分で魔物を狩りながら、この国を放浪している。
「最近、異母弟の方は良い噂を聞かないぞ。この寂れた町にまで噂が回って来てる」
イヴァーノが声を潜めた。
異母弟フルヴィオは、女優や音楽家を愛人にし、芸術を推進すると言って豪華な劇場の建設を計画している。その費用の為に軍備を減らし、一般国民の税金を上げる計画を立てているという。
「そうか」
あまり関わりたくはない。というよりも、これまでは生きることに必死で余裕はなかった。アズサと行動するようになり、干し肉を持つようになってから、落ち着いて周囲を見ることができるようになった。
「……どうしようもないなら、俺が押さえている証拠を提供する用意がある」
銀神教の教祖が隠していた帳簿と書類は、フルヴィオを黙らせる程の悪事の証拠だ。使う予定はなかった。ただ、他者に奪われないようにと鞄に入れただけだ。
「早い方がいいんじゃないか?」
イヴァーノの静かな言葉に、俺は頷くのをためらった。
「……八年前に死んだ兄がいきなり現れたら驚くだろ?」
「何だ。お兄様は捨てた弟に、今更会うのが恥ずかしいという訳か」
イヴァーノが俺の心境を的確に言い当てた。
「ま、早めに覚悟を決めてくれ。国民の為にな。それから、彼女の月の障りの間だけでも、なるべく宿屋に泊まるようにしろ。……ただ、逃げ回っているだけではいられなくなるかもしれないな」
イヴァーノの言葉の後半は、俺の心に重くのしかかった。
酒場から戻るとアズサはベッドで眠っていた。誰かがいるという安堵感のような温かな気持ちが広がる。
シャワーを浴びて出てくると、アズサの苦し気な呻き声が微かに聞こえる。
「どうした?」
そっと声を掛けてみたが、眉をひそめて呻くだけだ。その表情はやけに艶めいている。額に手をあててみたが、熱はない。何か悪い夢を見ているのだろうか。
呻きの中で、かすかにエーミルという名前が聞こえた。
――エーミルが死んだ瞬間を思い出しているのかもしれない。そう思い至った途端に、胸が痛む。心臓が掴まれたような、この苦しさが何なのかはわからない。
頬に触れると、アズサの息が落ち着いた。穏やかな表情になったアズサから離れることもできずに、俺はアズサのベッドに潜り込んだ。
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