近道と理論

 あらゆる物事には理論が存在し、その理論を説明する為には理論を理解しなければならない。


 当たり前の事だが、これはとても面倒な事だ。しかしどういう訳か、誰が用意したのか、あらゆる物事に存在する理論には同じ分だけ近道が存在し、それを誰もが通れると言うのだ。


 私は終ぞその近道を通ろうと思った事は無い。

 そこに入れば捻じ曲がってしまう事を、承知しているからだ。


 しかしながらその近道に入っていく者は皆、平気な顔をしている。

 その道が捻じ曲がっている事を知らないのだなと理解していたが、最近どうやらそれが違うらしい事を知った。



 道徳と言う言葉を、所謂近道に使う人間がしばしばいる。


 どういう事か。


 本来道徳と言うのは、人が善たる為にどういう行いをすべきかを説くものであると私は理解している。


 しかし、近年とは言わず大昔からその道徳をただの言い訳に使うものが居るのだ。

 道徳を言い訳に使う事を、「近道」と私は呼んでいる。


 例えば、どうして社会的弱者は助けるべきなのか?


 この問いに対して近道を使うのなら


「可哀想だから」

「困っている人に手を差し伸べるのが常識だから」

「それが道徳だから」


 と言う事になる。


 他人から得た情報を手前の知識として再認識して譲らない。

 誰かから教えてもらった事をそのまま言い訳に使う事を道徳とは言わない。私はそう思う。


 一歩踏み込むべきだ。


 なぜ、「可哀想」だと思うのか。

 なぜ、「常識になっている」のか。

 なぜ、「道徳とはそういうものになっていると認識した」のか。


 

 さて、なぜ可哀想なのか。

 本能的にそう感じるからだ。

 しかし、なぜ本能はそう感じる様にできているのか?


 それを考えていく。


 本来人間のみならず動物に備わっている本能と言うのは、自らを守る為にある保護装置みたいなものだ。

 それには自身単体を守るための「固体用の本能(以下個の本能)」と種族全体を守るための「全体用の本能(以下全の本能)」が存在する。

 怪我をして咄嗟に傷口をかばうのは「個の本能」で、怪我をしている人を見つけたら声を掛け、場合によっては手当てを施すのが「全の本能」である。

 つまり可哀想だと思う心理は「全の本能」によって存在している。


 さて、「社会的弱者は助けるべき」かどうか。


 「全の本能」に従うなら助けるべきだ。


 しかし果たして本当にそうか。


 曖昧に「社会的弱者」とせず「障碍者」としてみよう。


 ご存知の方もいらっしゃるかと思うが、その昔の日本では障碍者には遺伝子を残す権利を与えられていなかった。

 当人の意思に関係なく、去勢させられていたのだ。


 これを何故かと考えた時、二つの理由が出てくる。


 一つは障碍者本人を助ける為。

 自分の考えとは無関係に人と性交してしまう可能性があるから。そうなった時に男性であれ女性であれ責任が取れないと言う事は悲劇だ。

 もう一つは障碍者以外の世間の為。

 障碍者の子供が障害を持って生まれてくる可能性があるから。誰も、おそらく当人だって障害を持って生まれてきたいとは思わないだろう。


 以上の理由を鑑みて「障碍者は必要か」と言う意見を出した時、ほとんどの人が「この人でなし!」と口走るだろうが、この事態に対して今まで道徳とかいう近道で逃げてきた人間に人格を否定されたくないし、真剣に向き合う事が出来ない事なら、いちいち口を挟むなと言いたい。


 私はこの事についていつだって真剣だし、考える度に角度が変わって見え、意見は変わっていくのだ。

 可哀想だからと言うただそれだけの理由で考える事すらも諦めた人間は、必死で考えている人間を否定して良いわけがない。


 で、だ。


 障碍者は必要か。

 あらぬ誤解を招かないように先に述べておくと


 ではなぜ必要なのか。


 障碍者は前述したとおり出来ればDNAとして多く残って欲しくはないと国も認めているはずだ。そうでなければ去勢などするわけがない。


 ではなぜ遺伝子的に不必要なものが生まれてくるのか。


 これを説明する為、まずは障碍者ではなく奇形と言う言葉に変えさせて頂く。


 奇形と言うと聞こえは悪いが、実際には別に悪いものではない。


 何せ我々は猿の奇形だ。


 樹上生活を旨とする猿の頭がこんなに重くてはならないし、二足歩行が出来る代わりに木登りが下手になった。


 進化について誤解をしている人もいると思うが、一生命体がその土地柄都合に合わせて「次にはこういう形の子孫を残そう」として残してるわけではない。

 まずは奇形が生まれ、その環境に適していればその形態が増えていく。これが進化だ。そして環境に合わず死んでしまう、もしくはパートナーを作れず遺伝子が途絶える事を淘汰と言う。

 この、進化と淘汰を繰り返し、今の地球上にはあらゆる生物が混在する。


 何はともあれ、奇形が生まれなければ進化は無いのだ。

 キリンとオカピを比べてもらいたい。

 両方とも同種族だが、キリンの方が圧倒的に首が長い。と言うかオカピはほとんど馬のそれと変わらない。

 もともとキリンとて最初から首が長かったわけではない。ある日、首の長い奇形が生まれ、そちらの方がその環境に適していたから生き残ったのである。

 首の長い奇形が生まれなければキリンと言う種族は絶滅していたかもしれないし、別の進化を遂げていたかも知れない。


 つまり、奇形が生まれてくる事には大変な意味がある。


 では、生かし続ける意味はあるのか?


 もしも野生の世界で足の無いシマウマが生まれれば、捕食されて死ぬ。

 しかし人間の世界では足が無くても生きていける。


 所謂進化ではなく、淘汰される存在が生まれたのだ。

 自然の摂理、倫理観から考えれば、生きていてはいけない。


 単なる進化や淘汰の話ならば、生かしておく必要はないと言う事で決定づけられるだろうが、事はそう単純ではない。


 私からすれば、この世に存在するほとんどの人間が奇形だ。

 平均と言うものがある。

 そこから少しでも外れれば奇形。

 と言う形で考えれば、痩せている人も太っている人も背の高い人も低い人も、奇形。美人も不細工も奇形だ。


 奇形だらけだからみんな生きてていいって事かと言う平和的解決ができるのなら、それは道徳と言う近道ならぬもはやなので残念ながら私は使わない。


 これだけの個体差が存在するのはなぜか。

 多様性を高める為である。


 大げさな例え話をすると、地球の大気が汚染されて、狭い地下で過ごすしかなくなった場合、背の高い人間と太っている人間と言うのは暮らしづらい。頭を打ったり体を引っ掛けて転倒したりして死んでしまう可能性が高まる。

 もしもこの時人間の多様性が低く、背の高い人間と太っている人間しかいなかったら、絶滅するしかない。


 今後起こるかも知れないし起こらないかも知れない環境の変化に前もって対応しているわけだ。


 だから多様性が高い種族は環境の変化に強い。


 上記意見を全てひっくるめて考察を巡らせた結果出てきたのが、のではないかと言う見解である。


 自然界では死んでしまうような、所謂淘汰の対象になる存在も、数年後には進化の対象になる可能性がある。

 これを生存させておくと言う事は、多様性の向上に繋がるはずである。


 だから「全の本能」が正しく働き、「可哀想」と言う心理に繋がり、「社会的弱者を助けよう」とするのだ。


 ここまでくだくだしく意見を巡らせていかなければ、本当の答えには辿り付けないだろう。

 勿論、これが真なる答えではないかも知れない。

 しかし、間違っているかも知れない答えに辿り着く為に真剣に考え続ける事。

 その為には道徳や倫理や価値観や宗教と絶縁する事。

 その覚悟が重要である。

 それを手放した人間からは一言だって否定されたくないし、善人面して借り物の道徳を長々と説明されたくないのだ。


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