闘病と共存

 どうして斯くも簡単に人々は死者の死に様とそれまでの生き様を測れるのであろうか。

 本人以外に本人を評価する事などできはしないと言うのに。




 私は闘病という言葉そのものが嫌いだ。

 病気になった人が嫌いという訳ではないし、それを治療しようとしている行為が嫌いという訳でもない。病気の治療にその言葉を当て嵌めるのが嫌いなのだ。

 何故って、それだと、病気で死んだ人間が皆病気に負けた事になってしまうではないか。そもそも勝ち負けでやってないのだから、病気と闘うという言葉を使わないで欲しい。


 私は常々、病気とは向き合うものだと思っている。

 共存と言う言葉が近いだろうか。

 これでも私は不治の病で、発作が起こる場所によっては死ぬ。

 発作が起きれば意識を失う。嘔吐もする。よって、人が居ない場所で嘔吐して気絶すれば、咽喉に吐瀉物を詰まらせ息が出来ず死ぬ。

 発作が起きた場所が駅のホームなら、車通りが多い道沿いなら、橋の上なら……高確率で死ぬ。

 発作はもう随分起きていないから、確率としてはとても低いが、それでも私は出掛ける時に今日死ぬかも知れないと言う思いは頭の片隅に置いている。

 発作が起きた事を想像する。

 もしも自分が倒れた先が、罪なきドライバーの目の前で、避け様の無い形での事故を起こしてしまったら。そのドライバーを加害者に至らしめるだろう。そこで私が死ねば、その人は生涯私から許されることはない。一生トラウマとなってその人の脳内に生き続ける。これほど恥の多い死に方が有ろうか。

 死ぬなら人の迷惑にならないように死にたいものだなと思う。

 そういうケースの事故を多分一週間に一度くらいのペースで想像している。


 これでも一応、生きる為の最善は尽くしている。

 病院に行って薬は貰うし、忘れず1日2回必ず飲む。

 薬の効果の為に、飲酒はしない。

 医者に血中濃度を精密に測れないと言われたので喫煙ももうやめた。

 医者からは了承を得た運転免許の取得も諦めた。免許を持っていて酒を飲まないとあれば、確実にタクシー代わりにされる。人の役に立つことは苦ではない。それよりもそこでもしも私が発作を起こしたらと考えると怖くてならない。

 重機の扱いもしないようにしている。

 正直自分でも生き辛さを感じる事はある。

 しかしそれでも人に迷惑を掛ける様な死に方をするよりは幾分マシなのである。

 

 闘病という言葉は、現在を蔑ろにする。

 今この時点で、病気になっている私も私だし、仮にこの病気が完治したとして健康体になった私も私だ。

 それなのに、闘病とはまるで、今は私ではないみたいではないか。

 闘っている真っ最中だから。途中だから。私にはだなっていない。

 この闘いが終わってから漸く自分の人生が始まる様に、錯覚してしまいそうだ。

 

 しかし逆にという言葉を使うと、まるで病気と仲良くしたいみたいに聞こえるが、そうではない。

 まずは自分が居て、そこに病気という物があって、たまにその病気によってイベントが起こる程度に思いたいのだ。

 自分ありきの人生にしたい。病気を克服してからが本当の人生になんかしてやらない。

 死ぬ手前、そう言えば私にはてんかんという病気があったな程度の希釈率が良い。

 

 しかし私がもしも発作によって死ねば、皆こぞって言うのだろう。

「可哀想に」

 と。

 一体誰が誰の了解を得てその言葉を発したのだ?

 私は発作によって死んでも少しも可哀想ではない。

 私は私という体と脳で生きている。病気は付属品みたいなものだ。

 それなのに、その付属品を主体に語られたら、こちらとしては死んでも死にきれないというもの。

 だから人の死に様にいちいちケチを付けるような真似はしないで頂きたいのだ。



 死に様と言えば、ある冒険者が登山の途中で遭難して死んでしまったと言う記事を見たことがある。

 当然、死んでしまった事それ自体は、おめでたい事ではないが、だからと言ってその方の死に様を哀れむ事はしたくないと思った。

「まだ途中だったのに」とか「登頂したかっただろうな」とか、死者を勝手に可哀想な人、途中で果ててしまった人扱いをするのには、抵抗があるのだ。


 冒険者は全うしたのだ。冒険を。生命を。

 途中で挫けてないし、未達でもない。

 冒険者にとって辿り着いた場所が到達地点だ。目的地とは違えども。

 それに、冒険者として生き、冒険者として死ねる事は、私は羨ましいとすら思う。

 私は小説を書いている。

 小説を書き続けて、まだ最後まで書き終えてないのに死ぬ。これは一見して未達である。

「ああ。まだ書きたかっただろうな」

「完結させられなくて悔しかろうな」

 と、ほとんどの読者が思うだろう。

 しかし私は死の直前まで小説と向き合っていれたと言う誇りを胸に逝ける。

 それがどれほど幸せな事か。

 所詮他人からは死者の心根などわかるはずもない。

 であればせめて、「幸せだっただろうな」と想像したい。

 死者の死に様と生き様を、なるべくなら「良かった」ものとして看取りたい。

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