道徳と暴力
私は
道徳をイコール倫理と履き違えている方々も居るが、明確にこれらは違う。
倫理は世の
道徳とは、倫理と欲望の狭間に介在する他者からの意思である。そこには倫理のような毅然とした態度は見られず、人間の刹那的な感情が暴発した論理に思えてならない。私にとって道徳とは不自然そのものである。
例えば、目の前に腹を空かせて今にも死にそうな野生の動物がいたとしよう。
倫理は自然の摂理を変えず、そのまま見送る。悪い言い方をするなら、見捨てる。
道徳は感情に直向きに動物を助ける。それがもし絶滅危惧種ならばなおの事、世界を巻き込んでその動物を助けるだろう。
これを、害悪だ。と断じるにはあまりにも動物が好きすぎるので、断じないが。
ともあれ、不自然であるのには変わりない。
本来死ぬべき動物、滅ぶべき種族が、人間の「可哀想」という感情によって生かされ、存続させられるのだから。
タイムリープ物の作品を1つでも見たことがある方になら解って頂けると思う。
死んでしまったAを生かしたい。過去に戻ってAを助けた。今度はBが死んだ。
こういう事が、絶滅危惧種を人間の勝手で存続させる事により起きていないかという事を考えてしまう。
進化と淘汰、それすらも人間が掌握してしまえる。
この驕りが、私は嫌いなのだ。
目の前の生命に生きていて欲しいと願う事はいけない事ではない。
しかしだからと言って、無秩序になんでもかんでも生き死にを決める事が許されるという訳ではないだろう。
今、人々は無秩序になんでもかんでも自分勝手に生死を決めている。
道徳という言葉を言い訳にして。
そもそも道徳の我慢ならない所は、その不可侵性にある。
教養のある者が作り出したと言えば聞こえはいいが、金儲けの為に作り出されたかもしれないそれを皆疑いもせずに神聖化し、侵すものあらば殺す勢いで守る。
道徳、とは違うが、同じように皆が信じている学問は、その道のプロフェッショナルが導き出した答えに、更に異論を認め、相互批判の元に研磨された物なのだ。
だから学問は素晴らしい。
そして学問は、「今はここが答え」という言い方しかしない。
学んでいるのだ。
天動説から地動説になったように、新説によって覆るかも知れない今の常識がいかに不明瞭であるかを。
しかし道徳はと言えば、怠惰に怠惰を重ねた結果、全く動きもしないで最初から真実然として形を変えずにいる。
誰からも批判をされず、であるから研磨などされようもない。
なぜ誰も批判しないのか。
道徳が完璧だからか?
いや違う。
道徳とは人間の尊厳に直結する事であるからだ。
道徳の批判をしようものなら、人間そのものを批判したと勘違いした者どもの強襲に遭う。
しかしながらたかだか人間の尊厳如きに何を恐れ慄いているのだ。
真に恐れなければいけないのは、本当は違うかも知れない事を何も考えずに受け入れてしまう空っぽの自分だ。
かと言って私は道徳そのものを無くしてしまおうと言う暴論を吐いているつもりはない。先述したとおり、目の前の命に生きていて欲しいと願う事はいけない事ではないのだ。生きて欲しいと願う事がすなわち道徳であるならば、それは必要なのである。
ただその道徳に従順すぎる世の中が憎たらしいのだ。
道徳というのが自分の考えから生まれたものなら、まだ良い。
しかし道徳とは誰かが作ったものに過ぎない。
それは悪人が個人の資産の為に作ったものかも知れないのだ。
それを我が聖域の如き扱いをする人間が殆どであると言うのが、嘆かわしいと言うのである。
そしてその道徳に頼り切った人間ほど、当たり前に暴力を振るう。
まるで私が非人間であるかのような振る舞いで。
事の本質はさておいて、私の人間性を疑いだし、そこを叩く。
私がどれほど正しい事を言っていようとも、道徳に侵された暴論信者達は、私の正しさには一瞥もくれず、人間性を否定し始める。
――ああ、私はこんなにも話し合いたいのに……!
人間から考える事を奪った道徳という病魔を、私は憎む。
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