本能と理性

 人々は理性の崇高さと本能の醜悪さを説くが、彼らが思い描く究極の幸せとは性欲の成れの果てなのである。



 人は倫理観に従う。その倫理は理性によって作られたものである。

 現状の倫理観に置いて、結婚と子作りは良しとされている。善である。

 結婚というシステムは確かに理性の上に存在するものだと言って良いが、子作りは本能に基づくものである。

 理性に基づく子作りなどは無い。計画的な子作りはあるだろうが。

 理性に基づいて産んだ(産ませた)と言い切れる人間が居るとすれは、それは理性的でない人間の科白だと断ずる。

 まずもってあんな激痛を伴う行為を自分が最も愛した人に感じて欲しいと願う男が、果たして理性的であろうかという部分がある。

 それに、理性を十分に理解している人間に自分が幸せかを問うて「幸せです」という訳が無いのだ。人は本能によって生かされ、理性によって苦しめられているのだから。我々の不幸は生まれた瞬間より始まり、死ぬまで続く。

 こんな地獄に子供を産み落とす(産み落とさせる)などという所業は、理性の上で在ってはならない。

 つまり子作りとは極めて本能的な行動であるのだ。

 そしてその子供を作りたいと言う欲求は、三大欲求の内の性欲に分布される。

 しかし私は本能並びに子作りそのものを否定しているわけではない。

 子孫繁栄の本能が無ければ人々は絶滅しているのであろうから、必要な本能と言える。否定したいのはこれが理性的であり全人類が見習わなければいけない、更にはそれを行わない人間は落伍者だという部分に置いてのみだ。

 

 人々は本能を否定する。「本能に負ける」などという言葉がある様に、打ち勝てる人間が善であるかのように振る舞うのが、彼らの流儀だ。

 であるにも拘らず、彼らは声高に言う。

 結婚をしろ。子供を産め(産まさせろ)。それが正しい行いだ。人間として当然の事だ。そうならない者は落伍者である。と。


 彼らに改めて問いたいのは、そこに矛盾はないかという事である。

 理性の素晴らしさを説き、本能の醜さを説いた彼らには一毫いちごうのズレもないか。

 彼らがこういうなら、わたしも頷く。

「我々は性欲からは逃れられず、その性欲からの指示を誤らず遂行したものが幸せになれる。理性は無い方がいい」と。


 私のように子供を作らないという選択をした人間を、揶揄し、差別し、生産性が無いなどと言う世間の代表者は、自分が性欲にまみれていなければ正気も保てない人間であることを自覚すべきだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る