閑話 昏く、黒い吐息と共に

 どこまでも青く澄んだ空に鉛色の刃が宙に舞う。

 それに続いて風に流されたのは太陽の光に反射するように舞い散った赤い絹糸。


 その光景をどこか他人事にように眺めながら、赤い髪の青年は「ああ、今日もダメだったか」と、半ば諦めにもに似た感想を抱く。

 それは既に十年近く繰り広げられてきた光景であり、青年に取って余りにも見慣れたものだったからだろう。

 だからこそ、青年の対面に立っている父親が何を口にするのかまでも青年は容易に当てることが出来た。


「……これまでだな。今日はもう終わりでいい」


 その声には既に失望の色さえない。

 まるで、日々決められたルーチンのように父親は青年と剣を合わせ、そして、上手くいかない事を確認して一日の業務に戻っていく。


 そして、それは赤い髪の青年──アルフレッドにとっても同じ。

 

 切り飛ばされた練習用の剣先を回収し、父親の業務の補佐をする為に執務室へと足を向ける。

 それは余りにもいつもと同じ光景で、だからこそアルフレッドは既に何も感じない。

 

 ただ、自分は将来ガーラル性を失うのだろう。と、それだけは何となく理解していた。



◇◇◇



「……はあ……」


 執務室に戻ると、ガーラルは椅子に腰を落として深い溜息をつく。

 その様子は上手くいかないことへの失望というより、疲れ果ててしまった人間特有の現状に諦め切ったそれであった。


「今日は如何でしたか?」


 執務机に両肘を付き、組んだ両手の上に額を落としていたガーラルの前にカップを静かに置いた女性が声をかける。

 真っ赤な髪を頭の後ろで一つに束ね、背中に流しているドレス姿の女性だった。

 

「変わらずだ。今日も昨日も一昨日も、何一つ変わらんよ。あいつの剣はから大きな進歩も見せず、それどころか、空の奥義である【真空斬】も未だに使えぬ始末だ」

「……そうですか……」


 赤い髪の女性──ガーラルの第二夫人であるマーガレットは夫の言葉に嘆息する。


「申し訳ありません。私が不甲斐ないばかりに」


 自分の息子だからだろう。

 頭を下げたマーガレットに対して、ガーラルは力なく首を横に振る。


「お前の責任では……ない。あるとすれば俺だろうさ。何しろ、アルが未だに使うことが出来ない真空斬は、あの日俺がレオンの腕を切り落とした技だからな。秘技である【無空剣】は扱えるのだから、本来であれば真空斬も扱えるはずなのだ。あの剣は……無空剣は全ての属性奥義を扱う事が出来て始めて会得できる技だからな。無空剣が扱えるのに真空斬が扱えぬなど……本来ならばありえない」


 頭を抱え、懺悔するように言葉を連ねるガーラルに、マーガレットは悲しげな眼差しを向ける。


「全てが……全てが失敗だった。レオンに課題を与えた事も……レオンとアルの決闘に割って入った事も……レオンを追放してしまった事も……俺が……俺が今までやってきた事は全て……」

「……旦那様……」


 深い後悔の念に苛まされるガーラルの背に右手を乗せて、マーガレットは慰めるようにゆっくり撫でる。

 もうずっと以前から、それこそ、アルフレッドの剣の成長が止まってしまった事が分かってから、ガーラルはずっと後悔し続けていた。


「……リンダは……どうしている……?」

「……変わりません。今日もお姉様は一人部屋の窓から空を眺め、レオンの事を呼んでいます」

「…………リンダ…………」


 あの日に全て壊れてしまった家族。

 外聞的には未だガーラルが当主であっても何ら問題ないだけに大きな問題にはなっていないが、この先も今の状況が続くならば、何れは次期当主不在の公爵家の現状に気づくものも出るだろう。


「……ようやく戻った直系当主の座も……俺の次の代で再び分家の手に渡る……か……」


 ガーラル公爵家は武家の家柄である。

 そこには血統は優先的に守るものではない。

 何よりも大切なのは業を後世に残すことであった事から、現当主の跡取りに実力のないものしかいなかった場合、当然、優秀な分家の人間に引き継がれる。


 勿論、長い歴史の中でそういった事があった事は事実だ。

 しかし、現ガーラルの二代前の当主から、初代当主の直系の子孫へとようやくバトンが戻ってきたのだ。


 それが再び分家の手に渡る。


 それは、ガーラルにとってはこれ以上ない苦痛であった。


「……もしも……もしも、レオンが今も残っていたなら、どうなっていたのだろうな……」

「…………」

「いや、すまん。戯言だ。聞かなかった事にしてくれ」

「はい」


 レオンの事を口にした時にマーガレットから生じた暗い影に自らの失言に気がついたガーラルは、姿勢を正すともうすぐやってくるであろうアルフレッドを待った。

 それは、レオンがいなくなってからずっと繰り返されてきた変わらない日常だった。



◇◇◇



「……ただいま」

「おかえりなさいませ」


 一日の業務が終了し、自室に戻ったアルフレッドを待っていたのは若い女だった。

 薄桃色の簡素なドレス姿で、長い白髪を背中に流している。

 化粧や装飾品は使用しておらず、表情もどこか暗く、儚い印象が強かった。


 彼女の名前はフローラといい、世間では次期当主であるアルフレッドの妻とされている女性だった。


「あの……お食事は……」

「いらない。食べてきたから。君は母上と一緒に食べてくるといい」

「…………はい………」


 アルフレッドの冷たいとも取れる返答に、しかし、予想していた答えだったのだろう。

 フローラは一瞬下唇を噛むような仕草を見せただけで、アルフレッドの脇を通り抜けて部屋を後にした。

 

 アルフレッドはそんな彼女には目もくれず、そのまま寝室に移動する。

 そこは、妻であるフローラも絶対に入ることを許していない聖域であり、この屋敷でアルフレッドが唯一息を抜ける場所だった。


 アルフレッドは結婚してもただの一度もフローラと床を共にした事がない。

 当然、子供も出来るわけもなく、既に適齢期を過ぎてしまっているフローラも今更離縁して他家へ嫁ぐ事も出来ないような状況だった。


 しかし、そんな事はおかまいなしとばかりにアルフレッドは一人自室に引きこもると、入口のドアに鍵をかける。

 そして、寝室の壁に歩み寄ると、飾られていた肖像画に目を向けた。


「レオン君……」


 それは家族揃った状態で描かれた肖像画だった。

 まだ幸せだと思っていた頃。

 確か、アルフレッドがまだ11歳か、12歳の頃だったと記憶していた。


 しかし、後から聞いた話だと、その頃には既に兄であるレオンは父であるガーラルに課題を出されていたという。

 そう思って肖像画を見てしまうと、描かれているレオンの表情がまるでアルフレッドを責めるようなものに感じてしまった。


「……そう責めないでよ……僕は……僕は最初から当主に何かなりたくなかった。ただ、レオン君と一緒にいたいだけだったのに……」


 肖像画のレオンは何も話さない。

 ただ、恨めしげな瞳をアルフレッドに向けている……ようにアルフレッドには見えてしまった。


 だから、アルフレッドは耳を塞ぐとベッドにうつ伏せで倒れこみ、震えながら独りごちる。


「お願いだから……もう許してよレオン君。全て謝るから……僕が持っているものは全部……当主の座も、母上も……勝手に宛てがわれた妻だと言う女も全部レオン君にあげるから……だから、僕の前に戻って来てよ。僕をおいて行かないで……」


 まるで呪詛のように繰り返し、夜が更けるまで懺悔の声はアルフレッドの寝室に満たされる。

 そして、その声が収まる頃。


 最後は決まって一つの言葉で締めくくられる。


「……そうだね。やっぱりレオン君は優しいね。僕の為に戻ってきてくれるなんて。だから、それを邪魔する奴は誰であろうと──」


 昏く、黒い吐息と共に。


「──今度こそ殺してみせるよ」

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